第6話:泥酔
もしかしてセリス姫じゃないですか、と言い始めたのは、薬の行商人らしき男だった。
辺境ジブクリフ伯領にセリスという名の世にも美しい姫君がいるという噂は、このあたりではそれなりに有名のようだ。特に宿屋に泊るような旅商人たちは、古今東西のあらゆる噂を知っているものだ。「言われてみれば」「確かに噂通りだ」という声があがったかと思うと、途端に食堂が新しいざわめきで包まれる。
ちょうど食後のデザートまで食べ終え、セリスとハインフェルトは部屋に戻ろうとしていたところだったのだが、おかげでタイミングを失ってしまった。それどころか、男たちはビールやワインを片手にセリスのもとへやってきた。ハインフェルトが警戒して椅子から身体を浮かすが、彼らは気にする様子もなく、酔った顔を上気させながら馴れ馴れしげに話しかけてきた。
「俺ゃ美人っていわれる姫さんをたくさん見て来ましたけど、あんたほど綺麗な方にはお目にかかったことありませんや」
「たいてい噂ってのは尾ひれがついてるもんでさ、実際見るとそうでもなかったりするんだよな。はかなげな処女姫だって聞いてたのに、本当は四十を超えたしわくちゃのババアだったこともあったなあ」
ダッハッハ、と噴火するような笑い声があがった。ハインフェルトは男たちの品のなさに思わず目眩がしそうになった。彼が属する騎士団も男所帯だから、下品な話に興ずることもある(ただしハインフェルトは黙って聞いているだけだ)。だがそんな話を女性の前で、特にセリスのような姫君の前でするなど考えられなかった。それとも、田舎というのはこういうものなのだろうか?
ところがセリスは怒るでもなく、「まあ……」と手を口にあてながら、はにかんだような笑顔を見せた。その姿に喜んだのか、男たちはさらに盛り上がる。
「ジブクリフ伯のセリス姫といや、俺たちのあいだでも幻の存在でしたよ。まさかこんなところで会えるなんてなあ。いったい何をしてるんです?」
「もしかしてあれですかい、ついに王都の貴族様にでも輿入れするんですかい?」
そのとき、ひとりがハインフェルトの軍服に気づいた。
「騎士さんの格好、そりゃ国王の私軍の制服だろ? もしかして王妃様になるとか!?」
ヒュー! という歓声が食堂中に響いた。
ハインフェルトの顔から血の気が引いていく。彼の身体は目眩に加えて、今や動悸・息切れの症状まで加わっていた。セリスの素性を隠し通すどころか、もろバレではないか。この旅では何ひとつ、自分の計画通りに進まないのは何故なのだろう。
セリスは無言のまま、にっこりと微笑むだけだ。
「主人! 酒を持ってこい。我らがセリス姫に乾杯だ!!」
客が叫ぶままに、主人がワインの大樽を抱えてきた。彼の表情もまたゆるみきっている。よほどセリスの来訪が誇らしいようだ。
「それでは、王妃様が『宿屋・朝の鳥』に宿泊されることを記念して、今日はこの樽をまるごとサービスします!」
拍手と歓声が沸き起こった。皆が杯を高く上げる。もはやハインフェルトの出る幕はなかった。誰かが高らかに叫んだ。
「王様とセリス姫の幸運をお祈りして、かんぱーい!」
村で30年続く宿屋『朝の鳥』は、オープン以来もっとも熱い夜を迎えた。
結局、酔っぱらって前後不覚になっている男たちのあいだをすり抜け、宿泊棟に戻ってこれたのは、夜もずいぶん更けた頃だった。ハインフェルトが先導して階段をあがっていく。セリスは無言で付いてきていた。
薦められるワインを「勤務中ですから」と困り顔で辞退するたび、ハインフェルトは「それでも騎士かよ!」と男たちに活を入れられたものだ。一方セリスは顔色ひとつ変えず、しとやかに、だが確実に、汲まれたぶんの杯を空けていった。
誰もがセリスを褒め、讃え、うっとりしたまなざしでみつめた。それを全身で受け止めながら微笑みで返すセリスは、田舎の村の宿屋には不似合いなほど、完璧な姫君だった。その横顔を盗み見ながら、やはり只者ではないとハインフェルトは思う。
セリスの部屋の前に着いた。主人が言ったとおり、角部屋のいちばん上等な部屋だった。隣がハインフェルトの部屋だ。
「本日はお疲れさまでした」
ハインフェルトは振りかえると、一礼する。
「予定よりだいぶ遅くなってしまいましたが、ごゆっくりお休みください。明朝、お迎えにあがりますから」
ところがハインフェルトが顔をあげても、セリスは無言だった。疲れているのかと思ったが、部屋に入るそぶりもない。その場に立ちつくして、うつむいている。失礼かと思いつつ、ハインフェルトは顔を覗き込んだ。心なしか、身体が小刻みに震えている。
――まさか、毒……!?
そう思った瞬間、セリスがハインフェルトにしがみついた。ハインフェルトの両腕をがっしりと掴み、うつむいた頭を彼の胸に預けてくる。
「ひゃ!?」
思わず、少女のような叫び声をあげてしまった。声の主はセリスではなくハインフェルトである。
「……気持ち悪い……」
セリスの口から、ぐったりとした声が漏れた。食堂での毅然とした姿からは想像もつかない展開だ。
「毒を盛られたのでは? やはりあの中によからぬ輩が……」
ハインフェルトは周りを見回した。廊下はしんと静まり返っているが、もしかしたら誰かが暗闇に潜んでいて、今にもセリスに切りかかって来るような気がしてくる。ハインフェルトは掌にじわりと汗をかいた。
しかしセリスは弱弱しく首を振って、それももう無理だと言うようにうなだれると、小さくつぶやいた。
「……酔った」
「へ?」
「頭がガンガンする。はやく。部屋」
「は、はい!」
ハインフェルトはセリスを抱えたまま、背中で部屋の扉を開けた。
なかば引きずるようにしてセリスをベッドまで運んだあと、ぐったりした彼女を前に、ハインフェルトはオロオロと部屋を歩き回っていた。
「みず……」
「み、水ですね!? ちょっと待っていてください!」
ため息よりも小さいセリスのうめき声を聞き逃さず、ハインフェルトは叫んだ。部屋を出て隣の自室に駆け込み、水筒を取って戻る。仰向けに横たわるセリスの顔の近くまで、そろりそろりと近づいた。
セリスは起きあがることすら億劫らしく、訴えるような目でハインフェルトを見た。乾いた唇がかすかに動いた。ハインフェルトは床に膝をつくと、水筒の口を開け、セリスの口元へ持って行く。セリスは瞼を閉じた。
「……失礼します」
水筒の先端が、セリスの唇に触れた。
透明な水がゆっくりと溢れだし、赤い唇を伝って、喉の奥へと流れていく。水を飲み込むたびに、セリスの瞼と睫毛がかすかに揺れ、喉がコクリと鳴った。
なんて美しい人なんだろう。
その姿から、ハインフェルトは目を離すことができなかった。泥酔して苦悶した状態にもかかわらず、セリスはやはり圧倒的に美しかった。夜の闇のなか、ベッドサイドのランプが白い肌を神秘的に照らしている。まるで神殿に横たわる女神。それなら自分は、さしずめ彼女に貢物をする神官といったところだろうか。
「……もういい」
セリスの声で、我に返る。水筒を離すと、セリスは目を閉じたまま少し咳込んだ。それから思いきり眉をひそめると、シーツをかきあつめて顔をうずめた。そのまま、いつのまにか静かになる。ハインフェルトが立て膝のままで動けずにいると、しばらくして規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「寝た、のかな」
音を立てないように立ち上がり、セリスを覗き込んだ。とりあえずホッと一息つくと、忍び足で扉へ向かう。とそのとき、「ぅぐぇ」と背後から唸り声が聞こえた。慌ててベッド脇へと戻り、セリスを覗き込んだ。
突然、セリスの腕が伸びて、ハインフェルトの上着の裾を掴んだ。瞠目するハインフェルトだが、彼女自身は夢うつつのようで、相変わらず眉をゆがめている。だが先ほどよりは、幾分かマシになったようにも見えた。
再び規則正しい寝息が戻り、部屋が静かに支配された。
「どうしよう、これ……」
ハインフェルトは上着の裾を掴む指先を見た。しっかりと握りしめられており、むりやり外すのは困難そうだ。というよりそもそも、騎士道ではエスコート以外で自分から姫君の身体に触れるなどという無礼は許されていない。
ハインフェルトは後頭部を掻いてしばし思案したあと、ひとりで小さく頷くと、慎重にベッドの一番端に腰掛けた。そして胸元から本を取り出すと、ずれた眼鏡をかけなおして、ページを静かにめくり始めた。