第4話:贅沢な身分
昔からハインフェルトは、暇を持て余す、という経験をしたことがなかった。本が一冊ありさえすれば、瞬時に別世界へと没頭することができるからだ。ページをめくっている間は、そのことしか考えられない。めくってもめくっても文字が続くことに、震えるほどの悦びを覚える。はやく読み進めたいような、いつまでも読んでいたいような、ウズウズとした気持ちになる。
とはいえ、読み終えたときの快感は格別だ。最後の一行まで掬い取ったたら、本をパタンと閉じて、ふぅと小さくため息をつく。その瞬間は、得も言われぬ達成感を覚えるのだった。
まだ小さな子供のころ、乳母がおとぎ話を読み聞かせてくれるだけでは飽き足らず、自ら活字を読むようになったのが最初だった。子供向けの本をひととおり読みつくすと、今度は屋敷の蔵書室へ忍び込んで、片っぱしからむさぼり読んだ。歴史、地学、物語、物理、化学、神話、伝記……。名家らしく、クリュール家の蔵書はなかなか充実していた。身長の2倍以上ある本棚に立てかけられた梯子の上で読書に没頭してしまい、偶然通りかかったメイドに悲鳴を上げさせたこともある。
だから、本さえあれば、たいていの状況は気にならない。どれだけ外野がやかましかろうが、どれだけ狭い場所だろうが、ときには寝食の有無すらも。仮にも伯爵家の貴公子という身分の人間としては、珍しい性質であるに違いなかった。
言い換えれば、伯爵家の貴公子として、ハインフェルトには決定的に何かが欠けていた。
ガタン、と馬車が大きく揺れた。ハインフェルトはハッと本から顔を上げる。
「村の入り口みたいね」
はす向かいに座っているセリスが、誰に聞かせるでもなく淡々とつぶやいた。
ハインフェルトは急いで窓の外を確認した。太陽はすっかりオレンジ色にその姿を変えていた。建物が一軒、二軒と見えてくる。村の領内に入ったのだ。
まったく気付かなかった。
「ぶぶ無事に着きまして、姫君におきましては長旅お疲れ様でございました!」
動揺すると言葉がうまく喋れなくなるのも、ハインフェルトの悪いクセだ。
慌てて本を閉じ、左胸のポケットにしまおうとしたとき、セリスの声が車内に響いた。
「ずいぶん面白い本なんでしょうね」
「え……」
ハインフェルトは手を止め、セリスを凝視する。
ぽかんとしているハインフェルトを一瞥すると、セリスはつまらなさそうに顔を窓に向けた。
「目を輝かせたり、首をひねったり、うなずいたり、あなたがあんまり没頭して読んでいるから、よほど有名な物語なのかと思っただけよ」
一呼吸置いてセリスの言葉の意味を理解すると、ハインフェルトはみるみるうちに頬を上気させた。思わず前のめりになる。
「これは、遥か東国の歴史書です!!」
セリスの眉がピクリと動いた。
「すでに100年ほど前に滅亡した国と言われてまして、この歴史書は我が国でも一時期出回っていたようなんですが、翻訳までついているものは稀なんです。おそらく、学者の私物が流出したんだと思いますが、偶然王都の古物商でみつけたときの興奮といったら……! 挿絵もついているんですが、墨と呼ばれる絵具を使っていて、やはりわが国ではなかなか見ることのない、貴重な資料なんです」
うっとりしながら、ハインフェルトは大切そうに本を掲げた。焦げ茶の表紙はところどころ傷んではいるが、かなりの美品だ。古物商の店頭でみつけたとき、眼鏡を三度かけ直して確認し、打ち震えながら両の腕に抱きしめた一冊である。
「貸して」
「あっ」
白い腕が伸びてきたかと思うと、次の瞬間、本はセリスの手の中にあった。
「……」
片肘をついたまま、セリスは本を膝の上に置いた。細い指が、パラパラとページをめくり始める。もうちょっと丁寧に扱ってくれればいいのにと思いつつも、ハインフェルトは意気揚々と説明を続ける。
「さっきまで、地理に関する項目を読んでいたんです。この国には海ほどの広さの大きな川が2本も流れているそうなんですが、何百年も前の時点で、すでに大規模な運河工事の技術を持っており、国を南北に貫く大運河があったといいます。それによって気候の違う南北の特産物の流通が容易となり……」
「あなた、どうして目が悪いの?」
セリスは本に目を落としたまま、静かに言った。突然の脈絡のない質問に、ハインフェルトはきょとんとする。
「えっと、幼いころから読書をしてまして……母によく注意されたものですが、暗いところで読むことも多かったものですから、それが原因かと」
「高いんでしょう、それ」
「は?」
セリスが何を指しているのかわからなかった。
「眼鏡」
言われてハインフェルトは眼鏡のつるに手をかけた。小さく首をかしげて、答える。
「そうですね、もちろん安いものではありませんね。職人の技術が必要ですし、作り直しにも時間がかかります。今までに2度壊してしまったことがあって、だいぶ不便しました」
1度目は歩きながら読書をしていて、壁に顔からぶつかってしまったとき。2度目は剣術の訓練で、相手の剣が誤って眼鏡に当たってしまったときだ。2度目は割れたガラスでまぶたの横を切ってしまい、今もその傷跡はうっすらと残っている。
「そのときも、実は本のことを考えて、少しボーっとしていたんです。相手の振りに反応するのが遅くなってしまって。訓練試合とはいえ、あと一瞬遅かったら大怪我になっていたかもしれません」
客観的に見ても、自分に非のある事故だった。軽い怪我でよかったと感謝しこそすれ、相手を恨むなどありえない。だが下級貴族の出身だった相手は可哀想なくらい青ざめてしまい、地面に頭がつく勢いで謝罪してきた。彼には申し訳ないことをしたと思う。
ハインフェルトは苦笑してみせたが、セリスは笑わなかった。
彼女はじっとハインフェルトをみつめた。その瞳は、本物のエメラルドのように美しく、そして硬質だった。
「伯爵家っていうのは、贅沢な御身分ね」
冷たい響きに、ハインフェルトの笑みが固まる。
「目を悪くするほど本を読めて、剣術の練習中にも本のことを考えて、高価な眼鏡を何度も作り直すことができて」
馬車が村の中心部に入ったらしく、窓の外では賑やかそうなざわめきが広がっている。しかしハインフェルトの耳は、セリスの声に一点集中していた。
「少なくともわたしには、読書にそれほどの意味があるとは思えないけど。……騎士なら、他にすべきことがあるんじゃなくて?」
瞬時に、頬が真っ赤に染まる。セリスを直視できずに、ハインフェルトは思わず目をそらした。
「本が何になる。お前は代々近衛隊長を輩出しているクリュール家の長男。自分のすべきことがわからないのか」
父の声が遠くで聞こえた気がした。
言われたくなかった。
父とまったく同じことを、初対面の姫君に言われるなんて――。
馬車の歩みがゆっくりとしたものになり、カラカラと車輪の回る音がした。右折するのと同時に、車内に長い日が差し込んでくる。夕陽がセリスの顔をくっきりと映し出した。
一瞬だけ、彼女が怒りとも悲しみともとれない表情をしたように見えたのは、ただまぶしさに目を細めただけのことだったろうか。
「書物は……、剣には及ばないかもしれませんが、役に立つこともあります」
ハインフェルトはなんとか声を絞り出した。
それが精いっぱいだった。
「そう」
こともなげにセリスは答えると、手にしていた本を放ってよこした。
「!」
あわててキャッチする。
「セリス様!」
ハインフェルトは次の瞬間、我知らず口を開いていた。
「私のことを悪く言われるのは構いません。ですが……」
手の中で、本をぎゅっと掴む。
「本を粗末にするのは、やめてくださいっ」
自分が何かを言われるのはいい。ちゃんとわかっている、己が騎士の規範から外れていて、できそこないの人間だということくらい。自分が一番よくわかっている。
だが、読書自体に対しての無礼は許せなかった。
唇を結んだまま、セリスが目を見開く。
そのとき、馬車が止まった。宿に着いたのだ。
ハインフェルトは、ハッと我に返った。のけぞりながら叫ぶ。
「も、申し訳ございません! とんだご無礼を……!!」
「セリス姫様、ハインフェルト様、着きましたよ」
外側から、ガチャリと扉が開かれた。ポールが白髪交じりのヒゲ面に笑顔を浮かべ、車内を覗き込む。
しかし、ふたりの間の異様な空気に気付いたのか、笑顔のまま静止した。
沈黙を破ったのはセリスだった。
「ありがとう、ポール」
セリスはすっと立ち上がり、手前に座っているハインフェルトには目もくれず、彼の脇を猫のように通り抜けた。あわててポールは踏み台を出し、セリスを地上へと導いた。
姫君が去ったあとの車内は、輝きを失ったように、途端にがらんとした空気になる。
セリスが宿へ向かう足音が聞こえた。だがハインフェルトは馬車に乗ったまま、放心して動けなかった。
父の声とセリスの声が重なって、脳内にこだまする。
セリスの言うとおりだった。
甘やかされて、期待に背いた、一族のできそこない。それが、自分――。
だが、そんな思いも、この任務が終われば。だからなんとしてもセリスを、無事に副王都まで届けなければならない。どれだけセリスが嫌な女であったとしても、それまでの辛抱なのだから。
ハインフェルトはずれた眼鏡のまま、もう一度本を握りしめた。
「あのー……、そろそろ、降りてくれませんか~」
馬車の外では、弱り果てたポールが所在なさげに立っていた。