第3話:悪いクセ
村を出発してから、すでにかなりの時間が過ぎただろうか。馬車は順調に走り続けていた。窓の外には、赤茶けた景色がひたすら続いている。すれ違ったのは、ジブクリフ伯領へ向かうと思しき小麦売りの馬車だけだ。
この調子で走れば、日が暮れるまでには次の集落に着ける。そこも村の規模自体は大きくないが、巡礼道に面しているため、宿場はそれなりに揃っている。そこで夕食をとり、一泊する予定だった。すでに何百回も確認したスケジュールを、ハインフェルトはもう一度頭の中でなぞる。
あれきり、セリスはほとんど口を開いていない。革張りの座席とはいえ、走る馬車にずっと座り続けるのは、特に女性には辛いものだ。しかしハインフェルトが何刻かおきに儀礼的に「大丈夫ですか?」と尋ねても、頬杖をついたまま、そっけなくうなずき返されるだけだった。それ以上話すこともなく、車内には気まずい沈黙が充満していた。
「兄様はおしゃべりが下手くそなんだから、お姫様が喜びそうな情報を仕込んでいかなきゃダメ!」
妹のローザ=クレアの高い声が不意に甦った。14歳になる妹は、とにかくよく喋る。勝気な性格を象徴するかのごとく、ボリュームの多い赤毛の持ち主だ。緑がかった黒髪のハインフェルトとは、外見も性格もあまり似ていない。いつもそこらじゅうを走り回っては、目をキラキラさせて、王宮の様子を聞きたがる。その元気を兄に分けて欲しいと、母が何度嘆息したことかしれない。
今回の任務へ旅立つ前、ハインフェルトは実家を訪れた。基本的に軍に属する者は決められた休暇しか実家に戻ることを許されていないが、ハインフェルトは例外である。代々に渡って近衛隊長を輩出してきた王都のクリュール家といえば、中途半端な王族よりよほど格式が高い。実際、ハインフェルトの祖母は前々王の妹君だし、従姉妹はアルファード大公に嫁いでいる。屋敷は、王都の北西の広大な敷地にあった。白を基調とした瀟洒な造りを、「王宮以上の美しさ」と称賛する者もいるほどだ。
「聞いたわよ、ハイン兄様っ! 姫君をお迎えする役目を仰せつかったんでしょう!?」
ハインフェルトが居間でくつろいでいると、彼の帰宅を聞いたらしいローザ=クレアがドタドタと足音を立てて飛び込んできた。もう14歳なのだから、淑女らしく振舞ってくれないと困る。
「いいなあ、美貌の姫君! なんでも相当美しいお方らしいじゃない。そんなお方の相手をするのが、面白味皆無・色気皆無の、ナイナイ尽くしの兄様だなんて……。ああ、王都の男がみんなこうだと思われちゃったらどうしよう!」
どうしよう、などと言う割には、何故か頬を紅潮させ、楽しそうに身をよじらせた。
「何を言ってる。私はただの護衛だから、姫君とおしゃべりなんてとてもとても……」
「だって、道中は馬車にほとんど乗りっぱなしなんでしょう!? 私だったらそんなの、耐えきれない! 女の子は喋ってないと死んじゃう生き物なの。そりゃ、兄様は放っておいても本とブツブツ会話しちゃうような変人だけどっ」
持ち前の明るさのおかげか、何を言っても相手にあまり不快感を与えないのは、この妹の美点と言っていいかもしれない、と気圧されながらもハインフェルトは思った。
「ローザ=クレア、そんなに興奮しないで。お兄様はお仕事なんですからね」
いつの間にか後ろにいた母が微笑んだ。近衛隊長の夫を持つ彼女は、貴婦人ながら、騎士の仕事をよく理解している。
「確かにお兄様は流行や噂話にはうといし、女性に対してドンくさいけど、そのぶんたくさんの知識を持っているでしょう」
何気に、母もかなりひどいことを言っている。
「だ、か、らっ、いったいどこの姫君が、地層の見分け方とか、古代文字の読み方とか、貨幣の起源とかを知りたがるっていうのよー!」
赤い髪を爆発させる勢いで、ローザ=クレアが叫んだ。
「兄様の話って、そんなのばっかりじゃない! 姫君ならきっと、王都で流行っているドレスの形だとか、ここのお菓子が美味しいとか、侯爵家の誰がイケメンだとか、そういうことが知りたいはずよ。わかった、私が今から教えてあげる。兄様はちゃんとメモして、頭に叩き込んでね。これもきっとお仕事だわよっ!」
最近のトレンドは、胸を大きく見せるエンパイア型のドレス。色はハッキリした赤やピンク。白やベージュは時代遅れよ。裾にふんだんに刺繍を入れると上級者風ね。ガーディの仕立て屋は、身体のラインは綺麗に出るけどデザインがちょっと古臭い。最近独立した仕立て屋ロレント・シンは腕はまだまだだけど、本人がイケメンだから若い女の子はもっぱら通っている。3軒隣にこれまた感じのいい宝石屋があって……。
ローザ=クレアは得意げな表情を浮かべて話し続けた。彼女が坂を下るような勢いで喋り始めたら、厳格な父ですらなかなか止めることができないのだ。
ハインフェルトの意識はいつのまにか、そんな妹の声を無視して、妄想の世界に没頭していく。ああ、はやく本の続きが読みたい。先日、遥か東国の歴史書をやっと手に入れたのだ。分厚いうえに翻訳が不充分なので読み進めるには苦労するが、自国とはまったく異なる生活様式や政治体制を知るのは非常に興味深い。文字をたどりながら知らない世界が目の前に立ちあがっていくのは、ハインフェルトにとってこの上ない喜びだった。
本のことを考えると、我知らず口元がにやけ、自然と右手を胸に当てていた。うっとりして、瞳は夢みがちに輝き、じっとしていられなくなる。ああ、はやく続きが読みたい……。
「なにをウズウズしているの?」
するどい声がハインフェルトの脳天を直撃した。ハッと我に帰ると、そこは馬車の中だった。セリスが無表情でこちらを見ている。相変わらず汗ひとつかかない精巧な美貌だ。
「ウ……ウズウズ、ですか?」
また我知らず意識を飛ばしてしまっていたのだろうか。
「あなたの姿をそう呼ばなくてなんと呼ぶの? 急に身体を震わせ始めたかと思ったら、夢でも見ているような表情になるんですもの。落ち着かないわ」
セリスに客観的に自分の姿を描写され、ツーと冷や汗が流れた。
「も、申し訳ありません……」
ハインフェルトは思いきり頭を下げた。勢いで眼鏡がずれる。
仮にも姫君の護衛として同行しているというのに、そんな醜態をさらしたとは。本のことを考えるといつもこうなる。自分の悪いクセだ。これまで、何度変人扱いされてきたことか。
我ながらさぞかし不気味な姿だったろう。下を向いたまま、彼はどんよりと落ち込んだ。
ところが、セリスの言葉は意外なものだった。
「なにかしたいことがあるなら、ご自由にどうぞ。わたしに気を遣う必要はないわ」
「え? し、しかし」
「お互いが気まずい思いをしているより、好き勝手していたほうが気がまぎれるでしょう」
ハインフェルトは目をぱちくりとさせた。ローザ=クレアをはじめ、若い姫君というのは、やたらと周りの人間の手をかけさせたがる生き物だと思っていた。しかしセリスは驚くほど素っ気ない。しかもその素っ気なさは、けっして意地悪や高慢によるものではないらしい。
「それでは、あの……本を読んでも?」
「本?」
ハインフェルトは上着にごそごそと手を入れた。抜き出した右手には、分厚い書物が握られていた。
「読書を」
ハインフェルトは、童顔に満面の笑みを浮かべた。
ハインフェルト、気持ち悪い男ですね……
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