第2話:無言の旅立ち
「本当に、護衛も侍女もいないのですか?」
ハインフェルトは眼鏡の奥の目を白黒させながら確認した。この質問はこれで3度目だ。首筋からは、先ほど館内にいたときに比べ、さらに汗が吹き出ている。
「何度言わせるの。私ひとりだと言っているでしょう」
馬車の手前で腕を組んでいるセリスが答える。相変わらず表情は人形のように整っているが、少しばかりうんざりした様子だ。傍らには、御者のポールが所在無さげに立っている。ポールは御者一筋20年のベテランだが、さすがの彼でもこんな事態ははじめてのようだった。
「侍女は王宮についてから付けていただけると聞いているし、護衛になるような訓練された男はこの土地にはいないわ」
「ですが、姫……」
しつこく言い募るハインフェルトを冷たい目でみつめると、セリスはこう言い放った。
「何かのときには、あなたがちゃんと護ってくれるんでしょう?」
ハインフェルトは何も言い返せなくなる。確かに、姫を護衛するのが自分の役目だと述べてしまった。
しかしもともとハインフェルトは書記官だ。基本的な騎士の鍛錬は受けているものの、剣の腕を見込まれて護衛を任されるような有能な騎士でないことは、ひょろっとした立ち姿を見れば明らかだった。彼がこの役目に抜擢されたのは、ひとえに地政学に明るいからである。他の都市とほとんど没交渉で、深い森を越えた辺鄙な場所に住まう未来の王妃セリス。その情報の少なさと、肖像画が美しすぎることから、本当に存在するのかどうかも怪しい、と騎士団のなかで噂されていたほどだ。その彼女を迎えに行くという面倒な任務は、ほとんど無理やりな形でハインフェルトに押し付けられた、というのが実際のところだった。
――弱った。ハインフェルトは焦っていた。まさかジブクリフ伯側が姫をたったひとりで送り出すとはつゆにも思わず、御者と自分という、最小限の人員で来てしまった。
道のりは険しくはあるが、それほど治安が悪いわけではない。まっすぐ走り続ければ副王都バルバラに着く。そこで正式な軍の警備隊にバトンタッチし、ハインフェルトはお役御免になる予定だ。
ただ、もしものことがあったら……。
自分は絶対に、この任務に失敗するわけにはいかないのだ。
直立不動のまま目を見開いて呆然としているハインフェルトに見切りをつけたのか、そうこうしているうちに、セリスは黙って馬車の入り口に手をかけた。ドレスの裾をつかみ、今にも乗り込もうとする。
「わーー! わーー!」
思わず意味不明な言葉を叫びながら、ハインフェルトはセリスと馬車の間に回りこむと、覚悟を決めた表情で言った。
「わかりました、セリス様。ひとまず副王都までお連れするのが私の役目ですから、そこまでは責任を持ってお護りいたします」
目の前のセリスは、当然だろう、という醒めた目でハインフェルトをみつめた。彼はどもりながら必死に言葉を紡いだ。
「しかし未来の王妃ともあろう方が、お、お、大股を開いて馬車に乗り込むなど……」
セリスはじっとハインフェルトを見ている。思わず言葉が尻すぼみになる。頼むから直視しないでくれ、とハインフェルトは念じた。美しい女性には慣れていないのだ。
「じゃあ、どうしろって?」
「そ、そ、それはですね……えっと……」
ポールが身振りで馬車の中を指差す。「踏み台は中にある」というメッセージだったが、余裕のないハインフェルトには届かない。
ハインフェルトは叫んだ。
「私を踏んでください!!!」
一座に沈黙が訪れた。ポールは口を開いて唖然としている。気づいていないのはハインフェルト本人だけだ。
これにはセリスも愛らしい瞳を見開いたが、ややあって、口の端でフッと笑った。
「そうね。じゃ、お願い」
こうして忠義の騎士ハインフェルトは四つんばいになり、姫君に背中を踏んづけられることとなった。
踏まれる瞬間、思わず咄嗟に身構えたが、セリスは雲の上を歩くように軽々と馬車に乗り込んでいった。下を向いているからそんなはずはないのに、裾がふわりと翻るのと同時に彼女の白い足首が見えた気がして、ハインフェルトは無駄に赤面する。
そのとき、遠くのほうにふと人の影を感じた。四つんばいのまま目だけを動かすと、さっきまでまるで人気のなかった館の窓から、こちらを見つめる影がある。それも、ひとりやふたりではない。そのまま視線を動かすと、反対側の建物の窓にも、同じような影をみつけた。
しかしハインフェルトが気づいたことに気づいたのか、影はサッと引っ込んでしまった。
(あれは……?)
「何してるの、さっさとあなたも上がりなさい」
「は、はい!」
立ち上がって膝の砂を払い、ずれた眼鏡を直して、ハインフェルトは馬車に乗り込んだ。一度振り返ったが、村は何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
気持ちの良い音を立て、馬車が走り始めた。
高級な馬車とはいえ、中はそう広くはない。隣に座るわけにもいかないので、ハインフェルトとセリスは向かい合うことになる。微妙に斜めに座ってみたものの、ハインフェルトは落ち着かない。
セリスが窓の外の景色を見ているのをいいことに、ハインフェルトは汗を存分にぬぐったあと、出発時間を手帳にメモしたりしていた。なので
「一応確認しておきたいのだけど」
と、急にセリスが口を開いたものだから、驚いてペンを落としてしまった。
しかしハインフェルトの失態などどうでもいいように、同じトーンの口調でセリスは続けた。視線は窓の外に向けられ続けている。このあたりは乾いた土が多くを占めるが、ところどころに小さな畑が作られていた。大昔から肥料の乏しい土地で、農業にも狩にもあまり向いていないということを、ハインフェルトは文献で知っていた。
「私が王都に着いた時点で、村に褒賞金が届けられるのよね?」
「そのように聞いております。先日の支度金に加えまして、合計6万ルピーナが国庫より支給されることになっております」
「王妃になってからも、ジブクリフ伯には毎年手当てが出されるのよね?」
「左様です。王妃の順に係わらず支給されます」
ハインフェルトは手元のノートをめくりながら答える。そこにセリスの質問の答えが書いてあるわけではないのだが、こうしていると少しでも落ち着くのだ。
「前々国王が定めた聖リーヴェンシュ憲章第2章15節によれば、“王家に嫁ぐ者・出仕する者の係累に関しては、特別な便宜が図られる。以下の分類によって……”」
「もう結構、充分よ」
またしてもセリスの声に打ち切られた。このあとの条文こそ、韻が揃えられていて美しいのに。不完全燃焼な思いで、ハインフェルトは顔をあげた。
セリスは静かに窓の外を眺めていた。
エメラルド色の瞳に、次々と村の景色が映っては消えていく。無言でそのすべてを焼き付けているように、ハインフェルトには感じられた。
ハインフェルトも外を見やり、気づいた。
遠くなりゆく村の、家の窓や教会の影や木立の隙間から、“彼ら”は馬車が走り去るのを見ていた。
村民たちが、姫の旅立ちをみつめている。
わかっているだろうセリスは、一度もニコリとすることも手を振ることもなく、毅然と見送られていた。
馬車は走り続けていた。