第14話:長いお別れ
ハインフェルトの身体が地面に落ち、ドサリ、と音を立てた。仰向けの身体の中心、左胸の部分からは刃が垂直にそそり立っていた。
「ハイン!!」
セリスがしゃがみこみ、傷に触れないようにしながら腕をゆする。だが、意志のない物体のように、ハインフェルトの身体は微動だにしなかった。
「へ……へへ……」
不精髭の男が、空になった手を浮かせたまま、ハインフェルトを見下ろして立っていた。もはや闘う意味など失って、目の前の何かを破壊することだけしか見えなくなった男。小刻みに震えながら卑しい笑みを浮かべた姿は、ただただ醜悪だった。
セリスが立ちあがり、転がっていたハインフェルトの剣を拾う。次の瞬間、剣先が男の喉仏に突き付けられていた。
「ひぇっ!?」
刃がツー、と首に横線を引いた。肌の表面が薄紙のように切れ、赤い血が流れ出す。
「本気で殺す」
右腕をまっすぐ伸ばして剣を突き付けたまま、整った顔を思いきりゆがめ、セリスは喉の奥から言葉を吐いた。
「全身の皮をまるごと剥いでやるから」
「や、やめ……」
そのとき、後方から人が駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「お前たちいったい何してる!」
「セリス様、そこにいらっしゃいましたか! ご無事ですか!!」
ポールや宿の人間たちだった。セリスとハインフェルトがいないのを探しに来たらしい。
「捕まえろ!」
このあたりの土地を管轄している軍の兵隊も呼ばれていたようだ。えんじ色の軍服を着た男たちがバラバラと走ってくるのを確認したセリスは、剣を思いきり男の膝に突き立てた。
「ふがぁあっ!!」
声にならない叫びを上げて、男は崩れ落ちた。
ドレスの裾を翻し、セリスがハインフェルトの元に駆け寄る。やはりピクリともしない。足元には、無残にレンズが割れた眼鏡が転がっていた。
「誰か!」
喉を涸らしながらセリスは叫んだ。
ポールが「セリス様!」と駆け寄ってきた。だが彼もまた、ハインフェルトの胸元を見て、言葉をなくして立ち止まる。
ハインフェルトの瞼は重く閉じられていた。幼さの残る少年のような頬に、セリスはそっと触れた。いつの夜か見たいと願った、眼鏡をかけていないハインフェルトの素顔。でも、こんなのは望んでいない。
「ハイン」
望んでいない。信じられない。
有り得ない。ゆるされない。
自分をゆるせない。
胸から湧きあがってくる感情の渦を必死に押しとどめたくて、セリスはぎゅっと目を閉じた。
ふっと、温かい吐息を額に感じた。
「んん……」
セリスはハッとしてハインフェルトの顔を覗き込んだ。閉じられた瞼がかすかに震え、唇から小さな声がもれる。何かを探すように右腕が動いた。
そして、ゆっくりと瞼が開いた。
「セリス様」
目を開けたハインフェルトが、おぼろげに微笑んだ。
セリスの息は止まりそうだった。凍えた身体に突然湯をかけられたように、安堵と放心と弛緩が一気に押し寄せて、言葉にならない。
もう、何を差しだしてもいいと思った。
とはいえ、決して楽観できる状態ではない。運んで治療しなければ。担架を――、と呼びかけたセリスの目の前で、ハインフェルトがむくりと上体を起こした。
「いたたたた……」
「!?」
剣を胸から生やしているというのに、「いたた」はないだろう。しかしハインフェルトはなぜか胸元を気に留める様子もなく、きょろきょろと周りを見回したあと、「あれ、眼鏡、割れちゃったんですね」とつぶやいた。
「あなた、死にかけてたのよ!?」
「え? いえ、脳震盪を起こしていただけだと思います」
狼狽するセリスに対し、けろっとした顔でハインフェルトは言った。そして己の胸元を見やり、剣の柄を握ると、思いきり引き抜いた。
「な……っ」
セリスもポールも驚愕の表情を浮かべるなか、ハインフェルトはごそごそと上着の内側に手を入れた。
引っ張り出した右手に握られていたのは、見事に刃型の穴が貫通した本。
「おかげで、ほとんど無傷です。本はダメになっちゃいましたけど」
言葉を失っているセリスに向かって、ハインフェルトは満足そうに笑った。
「……本も、ときには役に立つでしょう?」
返事をするかわりに、セリスは思いきり抱きついた。ハインフェルトは一瞬きょとんとして、それから顔を赤らめながらも、控えめにセリスの背中に腕を回した。
「ハインフェルト・マキシミリアン・ド・クリュール国王付き私軍書記官。セリス姫を王都まで送り届ける任務、確かにここで引き継いだ。ご苦労だった」
副王都バルバラの騎士団の本拠地で、警備隊長が鷹揚に笑った。上位の相手に対し、ハインフェルトは神妙に頭を下げた。警備隊長が、左腕に巻かれた包帯を見やる。
「なんでも、姫をさらおうとした賊3人を、君ひとりで倒したらしいな」
「は、はい」
口裏を合わせて、そういうことになっていた。朝の散歩に出ていたところ賊に襲われたセリスを、ハインフェルトが助け出したという筋書きになっている。大嘘だ。
「受勲ものじゃないか。これから学術院のほうに行くと聞いたが、今からでも思いとどまったほうがいいんじゃないのか?」
「いえ、せっかく国王陛下のお許しをいただいた話ですし、父にも一度納得してもらったことなので」
ぼやける裸眼でも、窓の外の王立学術院の塔はすぐにわかった。セリスは王都を目指してまたすぐ出発するが、ハインフェルトは1日留まって諸手続きを済ますことになっている。
「君のお父上は勇猛な騎士だから、今回のことはさぞかし喜ばれることだろう。自慢の息子だな」
ハインフェルトはぼんやりと笑った。今はそうでなくとも、いつかそうなればいいなと素直に思った。
「それにしても、先ほどチラッとお見かけしたが……。セリス姫の美貌は聞きしに勝るな」
警備隊長が関心を押さえきれないというふうに言った。
ハインフェルトは力いっぱい頷いた。
「お美しくて、高貴で、心のお優しい、本物の姫君です」
建物の前の広場に馬車が待っていた。屈強そうな騎士たちが出立の準備をしているのを、ハインフェルトは石段に座って眺めていた。
「セリス様のご出立であられる!」
大きな号令が響いた。慌てて立ちあがって振り返る。
現れたセリスは、副王都で着替えと化粧を施されたらしく、豪奢なロイヤルブルーのドレスをまとっていた。薄化粧でも充分美しかったが、華やかな化粧をすると一層映える。控える騎士たちのどよめきを聞いて、ハインフェルトは訳もなく得意な気持ちになった。
ハインフェルトが突っ立っていると、セリスが近くにいた警備隊長に何か言った。彼は頷くと、ほかの騎士たちを配置につかせ、自分も馬車の脇に控えた。セリスがハインフェルトのそばに歩み寄ってきた。
改めてこういう場で向き合うと、セリスは王妃で、自分は一介の騎士にすぎないということを実感する。ぼろぼろの軍服に包帯姿で、さらに眼鏡もないという状態では、セリスが遠い存在のように感じられた。やけに緊張してしまう。
「とてもお綺麗です、セリス様」
「……あんまり見えてないくせに」
周りに聞こえないくらいの大きさでセリスが言った。ハインフェルトは首を横に振り、微笑んだ。
「いいえ、本当にお綺麗です」
ふたりは黙ったまましばらく見つめ合った。ややあって、セリスが口を開いた。
「あなたには本当にお世話になりました。おかげで無事にここまで旅することができた。ありがとう。この旅のことは、ずっと忘れないわ」
「そんな、もったいないお言葉です」
それ以上何も言えずに、また黙った。握った掌の内側が、じんわりと汗で濡れる。口を開きかけたが、言葉がうまく出てこずに目を伏せた。
「セリス様、そろそろ……」
警備隊長の声がした。セリスは頷き、馬車のほうへ身体を向けた。
「セリス様!」
思わずその名を呼んでいた。
ハインフェルトは石畳に片膝をつくと、最敬礼の姿で叫んだ。
「私は、私なりのやり方で、自分の義務を果たす方法を探します」
広場にいる騎士たちの視線がハインフェルトに注がれる。だが、ハインフェルトがみつめているのは、エメラルド色のふたつの瞳だけだ。
「そのために必死に勉学します。そして必ず、いつかまたあなたのお役に立ちます」
セリスは驚いた顔を隠さなかった。ハインフェルトは自分の人生を変えた姫の顔を必死に見上げた。
セリスの口元がふっとゆるんだ。右手と左手で、それぞれ親指と人差し指で円を作ると、ハインフェルトの顔に、両目を囲むようにやさしく置いた。
「やっぱりあなたには眼鏡が似合うわ」
そして、これ以上なく優雅に微笑んだ。
この人のためなら死んでもいい、そう思える相手に最後に出会えたことを、ハインフェルトは天に感謝した。
ハインフェルトはそっとセリスの手を取ると、白い甲に淡く口づけた。伯爵家の嫡男、王家の騎士として、寸分の無駄もない動作で。
「……どうぞ、お元気で」
セリスの唇が静かに近づいた。ハインフェルトは目を閉じる。とてもやわらかいものが、額に触れた。溶けてしまいそうだった。
「あなたも」
唇を離したセリスの瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。
どうか愛しい誰かが、ずっと幸せでありますように。離れていても、思う気持ちが伝わりますように。
敬礼のポーズのまま、ハインフェルトは去っていく馬車をいつまでも見送っていた。
これにて完!・・・って感じですが、実はあと1話だけ続きます。