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第11話:うちあけごと

 結局、森を抜けきったのは真夜中過ぎだった。雷雨のせいで大幅に予定が遅れてしまった。

 森の出口から副王都の中心街までは、さらに時間がかかる。予約していた高級な宿は中心街にあったが、馬をいったん休ませたほうがいいというポールの意見を汲み、森の出口にある宿屋で休むことになった。副王都のはずれで、人気のないうらさみしい地域だった。

 セリスは文句ひとつ言わず、黙って部屋に入った。それどころか、あれから一言も口をきいていない。ハインフェルトと目を合わせることすらなかった。

 ハインフェルトはハインフェルトで、セリスに声をかけるタイミングをうかがっては、喉から上ってきた言葉を自分から押し戻すことを繰り返していた。ふたりの間には、苦い沈黙が広がっていた。


 森の中は激しく雷がとどろいていたにもかかわらず、こちら側はずっと晴れていたらしい。ハインフェルトは部屋の窓を開ける。外には、乾いた夜空が広がっていた。ハインフェルトは息を吸い込み、吐いた。一息では足りない気がして、何度も深呼吸した。頭にかかるこの靄を払ってしまいたい。だが、呼吸を繰り返すほど、胸の中が真空に近づいていくような気がした。

 セリスの姿を思った。自分を突き飛ばしたときの、傷ついた表情。

 あんな顔はさせたくなかった。

 あの瞬間、セリスが必死に積み上げてきたものを、ハインフェルトは壊してしまったのだ。彼女が長い時間をかけて完璧にしてきた「姫君」の仮面を、剥ぎ取ってしまった。悪意があったわけではなくとも、否、悪意がないからこそ、セリスは激高したのだろう。

 恵まれた身分。ハインフェルトにとってはそれが普通だった。むしろ、伯爵家に生まれたことを恨んだこともあったし、押し付けられる伝統やしきたりには自分なりに抵抗してきた。自分の道を成し遂げるために、必死に努力してきた自負もある。事実、書記官に求められる以上の仕事――主に学術的な業務を、ハインフェルトは自発的にこなして、評価されるようになっていた。

 だがセリスが背負っているものを思えば、それもぬるい考えなのだろう。結局、自分は甘やかされている。書記官に配属されたのも、家柄あってこそだ。あれほどハインフェルトに厳しかった父ですら、最終的には頷いたのだ。父の言葉を思い返した。

「王がじきじきに許してくださったのなら、私はもう何も言わない。王妃を副王都まで送り届ける仕事を騎士として立派に勤めあげれば、その後はお前の自由だ。新しい場所で、王の期待にこたえろ」

 そう、この任務さえ終われば、ハインフェルトは解放されるはずなのだ。夜が明けて副王都の騎士団までセリスを送り届ければ、待ち望んだ未来が待っている。浮足立ってもいいはずなのに、この後ろめたさはなんだろう。

 ハインフェルトは窓辺を離れ、ゆっくりとベッドへ歩いた。サイドランプの近くに腰掛け、胸元から本を取り出す。荒れている感情の波を落ち着かせるには、本を読むのが一番いい。これまでもずっとそうしてきた。別世界へ没頭してしまいたい。文字を追う悦びだけに浸りたい。

 パラリ、とページをめくる。だがいつまで経っても、言葉が頭の中に入ってくることはなかった。額に滲んだ汗が落ちて、紙を濡らした。必死にページをめくる乾いた音だけが、部屋に空虚に響いた。


 東の空が白んできた頃、ハインフェルトは川のほとりにいた。宿から少し歩いたところにある小さな川だった。なめらかそうな岩をみつけ、腰掛ける。本をパラパラとめくったが、相変わらず意識は文字の列を上滑りするばかりだった。ハインフェルトはため息をついた。

「外で読書するにはまだ早い時間帯よね」

 突然、背後から聞こえてきた声に、ハインフェルトは飛びあがった。振りかえると、白いカジュアルなドレス姿で、腕を組んだセリスが立っていた。

「そんなことしてるから、目も悪くなるわけだわ」

「セ、セリス様、なぜ……っ」

 悲鳴に近い声が漏れた。

「あなたが出て行く音が聞こえたの」

 狼狽するハインフェルトに構うことなく、セリスはすたすたと歩いて、ハインフェルトが座っている左横の岩に腰掛けた。

「お召しものが汚れます」

「いいわよ。昔は泥だらけで遊んでたんだから」

 セリスはハインフェルトに顔を向けず、川の流れをみつめながら言った。

「読書の邪魔をするつもりはないから、勝手に続けて」

 端正な横顔だった。太陽の光が川面に反射して、輝きが白い肌の上で踊っていた。彼女の出現で、薄いブルーの朝の空気が、より清らかなものになった気がした。美しい光景だった。

 ふたりはしばらく黙っていた。セリスは川を、ハインフェルトは手元の本を眺めていた。それから、ハインフェルトが口を開いた。

「本が、読めないんです」

 チチチ、と鳥の鳴く声が遠くで聞こえた。

「全然頭に入ってこないんです。こんなことははじめてです」

 セリスが前を向いたまま言った。

「だからって、明け方に部屋を抜け出すわけ?」

「状況を変えたら、変わるかなと思ったんです。……でも、ダメでした」

 ハインフェルトは丁寧に本を上着におさめた。

「珍しいこともあるのね。今日は雪でも降るんじゃない」

 セリスは小さく笑った。視線を交わさぬままの会話は、ハインフェルトに少しだけ落ちつきをもたらした。息をそっと吸って、言った。

「いろんなことを知っていると思っていたんです。読書することで、人より多くのことをを学んできたつもりでした。本の中には、いろんな世界がありました。なにより、剣の練習では得られない自由があった。ただ義務を果たしていく生き方より、もっと違う生き方があるんじゃないかと思っていたんです」

 セリスは黙って聞いていた。

「でも、わからなくなりました」

 ハインフェルトは顔を上げて、左隣に座るセリスを見た。セリスもハインフェルトを見た。

「セリス様、あなたにお会いしてからです」

 風が吹いて木立が揺れた。セリスの髪もゆったりと流れた。

「あなたって普段オドオドしてるくせに、いきなり正面から迫ってくるのよね」

 真顔でセリスは言った。

「す、すみません。自覚はないのですが……。道中も無礼ばかりで」

「別に怒ってないわ。確かに失礼だったけど。でも、もうずっと、わたしとそんなふうに話す人はいなかったから」

 セリスの口元に微笑が浮かんだ。ハインフェルトはそれを見た瞬間、透明な手に心臓をつかまれたように、なぜか胸が苦しくなった。

「村の人たちは……」

「みんなわたしに遠慮していた。腫れ物に触るように扱われたわ。ジブクリフ伯でさえ。後ろめたいのよ」

 養子の姫となったその日から、村でのセリスに対する扱いは変わった。誰も気軽に声をかけてはこなくなった。美しい身体に傷をつけてはならないと、農作業や狩りに参加することも許されなかったから、常に館の中にいざるを得なかった。セリスが姫らしくなればなるほど、彼らは喜んだ。

 断わっておくけど、あなた以外にはこんな態度じゃないわよ、と言って、セリスは笑った。

「我ながら、模範的な姫になれたと思うわ。我儘はひとつも言わなかった。だから最後だけ、見送りはしないでってお願いしたの。そのくらい許されるでしょう」

 出立の日の奇妙な村の様子に、ようやく納得がいった。

「なぜ、見送りを拒んだんですか?」

 言ったあとに、ハインフェルトは愚問だと悟った。頭痛をこらえるように眉間をゆがめて、しかしセリスは微笑んでいた。

「村が好きだから」

 彼女の表情を際立たせるように、日の光が差していた。

「決意を乱したくなかったの。きっと、二度と帰れないでしょうから」

 たったひとりで村を去る姫。それを陰からみつめる村民たち。セリスは、彼らは、どんな思いを抱いていたのだろう。

 再び沈黙が訪れた。

 ぽつりとセリスが言った。

「王妃になってからも、会えるわよね?」

 ハインフェルトは首を横に振った。セリスの顔が見られなかった。これまでのどの話より、口に出すのに勇気が要った。

「この任務が終わったら、私は騎士の任を解かれることになっています」

 川の向こう、丘の下に副王都の街並みが広がっている。その中にある、ひと際高い塔。王立学術院。この国で最も権威のある学術機関だった。

「王のご厚意で、王立学術院に入学を許されました。最低でも5年は研究に専念することになります。その間は、休暇や旅行は制限されます。それに学生の身分では、王宮には立ち入れません」

 これを知られたら、セリスをまた怒らせるのではないかと思っていた。だがハインフェルトの予想は覆された。

 セリスは一瞬言葉を失っていた。白い肌がさらに白く見えた。だがゆっくりと顔の筋を動かすと、やわらかい光を放って微笑んだ。

「そう、腐っていくのはわたしだけなのね」

 音のない静謐な笑みだった。

 ぎりぎりと、心臓が締め上げられるようだった。セリスを王宮に閉じ込める代わりに、自分は自由な世界へ旅立つのだ。なんという身勝手。なんという皮肉だろう。

 これからセリスの近くにいることのできない自分を、ハインフェルトは悔いた。だけどこれは同情ではない。もっと別の、なにか必死な感情。だがその名前をまだみつけられずに、セリスの顔ばかりを見つめていた。


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