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第10話:雷鳴

 セリスはたじろがなかった。少し目を見開いたあと、まぶしいものを見るような目つきになり、きゅっと口角を上げた。

 そして、そのままハインフェルトを見つめ返した。

 とても優雅に。

「独自に、公式記録や書簡を調べました。でも6年前以前に、どこにもセリス様の名前はみつけられませんでした」

 セリスの静かな迫力にひるみそうになりながら、ハインフェルトは訴えた。彼の右手は、自然と左胸に手を当てられていた。上着越しにでも本に触れていると、心が落ち着く。

「意外と有能なのね」

 セリスが微笑んだ。

「真面目な話です、セリス様――」

「たとえばじゃあ、わたしの正体は、秘密裏に育てられた凄腕の殺し屋で」

 セリスが膝に置いていた荷物の布を開き始めた。先ほど、カルラという女に渡されたものだ。細い指先が、ぐるぐる巻きにされた布を難なくほどいていく。中身が取り出されたとき、ハインフェルトは「あっ」と声を出した。

「王を殺すために、貴族の姫だと偽って結婚しようとしているとしたら……」

 セリスの手には短剣が握られていた。革製の鞘からそっと剣を抜きとると、丁寧に磨き抜かれた艶のある刃が現れた。銀の柄には花を象った細工が施してある。一見して、持ち主に大事に扱われてきたことがわかる代物だった。

「あなたはわたしをどうするの?」

 セリスは慈しむように短剣を眺めると、流し目をハインフェルトに送った。妖艶な笑みにハインフェルトの背はゾクリと震えた。

 それは、剣の扱い方を知っている人間の目線と手つきだった。一介の姫君の持つ気配ではない。飛び跳ねそうな心臓を、上着の胸ポケットに入れた本の上からぎゅっと押さえた。

「もしそうならば、王家の騎士として、計画を止めなければなりません」

 セリスが挑むような目を向けた。 

「わたしを斬って捨てる?」

 ハインフェルトは言葉を失う。

 もちろん、とは言えなかった。この姫君を斬るなど、いったい誰にできるというのか。

「……しかるべき手順を踏んで、法廷に引き渡します」

 ひねり出した言葉は、小刻みに震えていた。

 セリスはじっとハインフェルトを見つめたあと、大袈裟に肩をすくめて苦笑した。

「怯えすぎよ。今のは全部冗談。あなた、本の読みすぎだわ」

 セリスは短剣を膝の上に置き、鞘に戻すと、布を再び巻きつけ始めた。ハインフェルトは思わず息を吐く。だが心拍数は上がったままだ。

「この剣はただの形見で、護身用。それとも、これだけで状況証拠になるかしら?」

「いえ、そういうわけでは……」

 ハインフェルトはおずおずと答える。短剣を布にしまい終えると、セリスは座席にちょこんと座りなおして、ハインフェルトを見た。

「あなたの言うとおり、わたしはジブクリフ伯の実子じゃない。彼らには娘がいなかったから、6年前に養子になったの。ありふれた話でしょう?」

 セリスはあっさりと語った。確かに、貴族に後継ぎがいない場合、近親者から養子を取るのは慣例だった。

「実のご両親は、ご健在なのですか?」

「敬語を使うような相手じゃないわ。普通の農民だもの。今もあの村で暮らしてるわ」

 だが、たとえ田舎だとはいえ、係累ではなく、庶子というわけでもなく、ただの村民の子供を貴族の養子にするとは奇妙な話だ。

 それに養子をとるのは、たいてい男児に恵まれなかった場合だ。ジブクリフ伯にはセリス以外に2人も男児がいる。普通ならば、血縁関係のない女児をわざわざ養子にとることはない。

 ハインフェルトが納得しかねていると、表情に表れていたのか、セリスが乾いた声音で笑った。

「まだなにか不服? やっぱりわたしが殺し屋だとでも?」

「い、いえ、ただ」

 おどおどとハインフェルトは答えた。

「農民の子がいきなり貴族の姫になるというのは、かなり珍しい話ですから」

 セリスは口の端で笑った。そして、小さくつぶやいた。

「わたしが姫になったのは、村民の総意なの」

「それは、どういう……」

 ハインフェルトが言葉の意味を聞き返したときだった。

 窓の外の闇が真っ白に光った。ふたりが光に反応するよりはやく、地面を揺らすような轟音が森に鳴り響く。かなり近い場所に雷が落ちたらしい。 息つく間もなく、ヒヒーンという悲痛な馬の鳴き声とともに、今度は突然馬車が大きく揺れた。馬が雷に驚き、いきなり立ち止まったのだ。

 セリスの座っている後部座席がぐらりと持ちあがり、彼女の身体が宙に浮いた。

「きゃ……」

「セリス様!」

 セリスがバランスを崩して、ハインフェルトの側に倒れてきた。自らも身体を揺らされながら、ハインフェルトは両腕を伸ばした。背中が壁にぶつかって、ドン!という音がした。衝撃と痛みに思わず目をつぶる。馬車が止まった。


 頬に、やわらかい髪の感触があった。ハインフェルトはゆっくりまぶたを開けた。

 目の前に、驚いたセリスの瞳があった。ハインフェルトの腕の中に斜めに倒れ込んだセリスは、彼の膝の上で横抱きされるような形になっていた。彼の肩を握る手が、かすかに震えている。

 時が止まったような感覚がハインフェルトを襲う。互いの髪と髪が触れ合うほどの距離で、放心状態でふたりはみつめあった。セリスの瞳に、ハインフェルトの視線が吸い込まれる。

――なんて美しい。

 昨夜、泥酔したセリスを抱きかかえたのとは違う胸の動悸に戸惑いながらも、不謹慎だと知りながら、ハインフェルトはセリスの顔から目をそらすことができなかった。セリスもまた、ハインフェルトの腕の中で彼を茫然と見つめ返していた。

 完璧に整った造作。繊細な気品。甘やかな香り。額に一滴流れた汗すら、その美貌を台無しにするどころか、花の朝露のごとく美しさを添えるばかりだ。何物も寄せ付けぬ、孤高の気高さ。

 ハインフェルトは息を呑む。これだけの美貌を前にすれば、どんな犠牲を払ってでも彼女を手に入れたいという人間は多いはずだ。必要とあらば金貨でも財宝でも、喜んで差しだすだろう。そう、金貨でも、財宝でも……。

 刹那、ハインフェルトは、頭を殴られたような衝撃を感じた。


 農業や産業のない貧しい村。最も価値を持つものが、少女の美しさだったとしたら?

 少女は貴族の養子にされ、大金と引き換えに、父親ほど歳の離れた国王の許へ嫁ぐ。それで村は救われる。

 それが「村民の総意」だと、彼女は言ったのだ。


 ハインフェルトは戦慄した。セリスの言葉の意味が、刃のように突き刺さる。

「セリス様、あなたは……」

 抱きしめる腕に力がこもった。掠れた言葉が溢れ、眼鏡の奥の瞳が揺れる。

 その瞬間、セリスが我に返ったように目を見開いた。そして腕を振り払うと、思いきりハインフェルトの胸を突き飛ばして後ろに身体を離した。

「――しないで」

 セリスは取り憑かれたようにハインフェルトを凝視した。仁王立ちで、その顔色は亡霊のように青ざめていた。

 セリスが叫んだ。

「同情なんてしないで!!」

 瞳に確かな怒りを宿し、肩をふるわせて、めいっぱいの力で姫君は騎士を睨みつけていた。

 ハインフェルトはその姿を茫然とみつめていた。

 ちがう、と言えなかった。かすれた息だけが力なく空気に溶けていく。

 大きな音を立てて、馬車の扉が開いた。雨合羽を着たポールの姿が現れた。

「大変申し訳ございません!! 馬が言うことを聞かず……。お怪我は」

 ざあざあと規則的に地面に叩きつける激しい雨音が、彼らを現実に引き戻した。仁王立ちのセリスが、横顔だけポールに向ける。まだ肩で息をしていた。

 セリスが何か言うより先に、ハインフェルトの口が動いた。

「……セリス姫は、幸いにしてご無事です」

 胸の動悸がおさまらないハインフェルトだが、座席に身体を突き飛ばされたまま、口だけが勝手に動いていた。まるで自分以外の人間が喋っているようだ。

「引き続き、気をつけて走ってください」

「かしこまりました」

 ポールが頷いて、扉を閉めて去っていく。

 セリスが倒れ込むように座席に尻を着いた。表情は髪に隠れて見ることができない。彼女は両の腕で身体を抱えた。ハインフェルトを全身で拒んでいた。

 ハインフェルトは頭を垂れる。馬車が再びカラカラと動き出した。

 なんとかして呼吸を落ち着かせようとして、跳ね続けている心臓の上に手をやった。鼓動がドクドクドクと速足なのは、馬車が揺れたせいだけではないはずだ。


 この気持ち――同情などでは決してなかった。だけど訂正できなかったのは、なんと言い表わせばいいのかわからなかったから。痛ましさでも、憐憫でもない。ましてや執着でも所有欲でもない、だけど恋慕と呼ぶには淡すぎて、敬慕と片付けるには泡立ちすぎている、この気持ち。

 なにひとつ言葉にできないまま、馬車は速度を戻していった。沈黙に覆われた車内で言葉を失ったふたりは、ただ座席に揺られて、森の出口を待っていた。

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