第1話:麗しき姫君
「あなた、なに? 顔に貼り付けているその変なもの」
出会ったばかりの相手を見下ろしながら、セリスは尊大に尋ねた。初対面の異性にそんな態度を取るなど、いくら田舎貴族とはいえ姫君には似つかわしくない。しかもその割に、彼女は自分の質問に対してまったく興味がなさそうだった。ただそこにあるから訊いただけ、とでもいうように。
非現実的な美貌が、その印象に拍車をかける。蜂蜜色の豊かな髪はゆるやかに波打ち、ほの甘い香りを放っている。真っ白な肌に映える長い睫毛。鼻と口は小ぶりで愛らしく、腕のいい職人による精巧な細工のようだ。ベージュのロングドレスには、控えめに金糸の刺繍が施されている。王都の貴族の娘たちがこぞって赤やピンクを着ようとするのとは大違いのシンプルさで、それが逆に、セリスの美貌を静かに引き立てていた。
セリスは表情を変えぬまま、片方の眉だけをピクリと動かした。
ハインフェルトは若い女性からこんな待遇を受けたのははじめてだったが、不躾と顔をしかめるどころか、いっそこの外見にはふさわしい、という気がした。
「これは眼鏡というものです」
片膝を着いた最敬礼の体勢のまま、顔だけ上げて彼は答えた。ただでさえ汗かきなのに、大きめの軍服をきっちりと着込んでいるうえ、緊張と土地の暑さとで、黒髪と額の間からひっきりなしに汗が流れた。
濃紺の生地に金の肩章とボタンという組み合わせは、国王の近侍軍の騎士であるという栄誉を表している。しかし18歳にしては小柄で童顔のハインフェルトは、軍服を着るたびに、後ろからむりやり背筋を伸ばされているようで、落ち着かない気持ちになるのだった。腰に差した剣も、我ながら不釣り合いな気がしてくる。
「視力を矯正する器具のようなもので、レンズの効果でぼやけたものもくっきり映ります」
セリスからの返事がないので、ハインフェルトは説明を続ける。
「王都を中心に普及し始めています。もとは北方のアルディーヌ公国で生み出されたもので、国内では国王の叔父上であるジェロット卿が最初に試され……」
「変な見た目ね」
案の定、セリスは興味がなさそうに打ち切った。
「はやく行きましょう。今出発すれば明後日の朝には着くんでしょう? 時間をムダにしたくないわ」
言うがはやいか、セリスは扉に向って歩き始めた。カツカツと規則正しい音が、古びた石の床に響く。領主の館の大広間はがらんとしていた。金細工などの装飾はなく、かろうじてステンドグラスが飾られている程度。それすら、長年の日光に変色したのか、ガラスの色が褪せている。あとは、お決まりに並べられた歴代領主の肖像画。皆陰鬱そうな表情をしている。
王都育ちのハインフェルトは、正直言ってここが倉庫だと言われても信じてしまいそうだった。
館の外には王家の紋章がついた馬車が待っている。ハインフェルトはそれに乗ってきたのだ。
「で、ですがっ」
彼がこの館についてまだ10分も経っていない。セリスの親であるジブクリフ伯に挨拶すらしていない。というより、村の入り口にある見張り小屋の主人(兼農民)と、館を案内してくれた執事(兼農民)以外、土地の人間をみかけていないのだ。
「ジブクリフ伯夫妻は農作業中よ。収穫期だから忙しいの」
ハインフェルトの訴えに気づいたのか、セリスはこともなげに言った。両親のことを名字で呼ぶ娘もおかしいし、娘が旅立つというのに見送りにもこない両親もおかしい。ハインフェルトは困惑する。なにより、領主の姫がこれから国王に嫁ぐというのに、あまりにも閑散としたこの村は変だ――たとえ貴族領とは名ばかりの、国中から忘れ去られた、辺鄙な貧しい田舎だとしても。
すたすたと歩きながら、思い出したようにセリスが口を開いた。
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったわ」
自分から質問しているというのに、振り向くそぶりも見せない。ハインフェルトはセリスを慌てて追いかけながら答える。
「ハインフェルト・マキシミリアン・ド・クリュールと申します。王都の五爵家のひとつ、クリュール伯爵家の出身です。現在は国王の私軍で書記官を拝命しており、このたびはセリス姫の輿入れを護衛するという重大な任務をおおせつかりまして……」
「あなたの説明っていちいち長いのね」
セリスが玄関ホールの扉を開いた。これも普通、姫が自分ですることではない。
「もっとわかりやすくして。わたし、じっと話を聞くのは得意じゃないの」
「……ハインフェルトです」
精一杯省略して、ハインフェルトはもう一度名乗った。
セリスが振り返る。日光を浴びると、その姿はさらに美しかった。身体の一部が動くたびに、キラキラした粒子が広がるような錯覚をおぼえる。この世のものとは思えない輝きにハインフェルトは息を止め、一拍置いたのち、ずれた眼鏡をかけなおした。
「それでも長いわ、ハイン」
これから国王の第7妃となる予定のセリスを、副王都バルバラまで送り届ける。それが彼の任務だが、なかなか厄介なことになりそうだとハインフェルトは思った。