母親になれと言われたので、あなたとは結婚しません
包んだ小さな手が、ミルゼナの掌でこわばった。
木の馬から垂れた赤い紐が、指に巻きついている。馬を握ったまま手を振るたび、紐はきつくなった。
「少し待ってね」
ミルゼナは馬を引っ張らず、子の手と一緒に持ち上げた。緩んだところへ指先を入れ、輪を外す。
ニコが口を尖らせた。
「こちらは、どう?」
ポケットから木の羊を出すと、子は馬を放して手を伸ばした。丸い背を撫で、今度はミルゼナの顔へ突き出す。
「ええ。ちゃんと見えます」
磨かれた羊の背が頬をかすめた。昨日、市の店先で見つけたものだ。角も車輪もなく、握ったまま眠ってしまっても痛くなさそうだった。
「よく懐いたものだ」
向かいでダリオが笑った。
「だから君を選んだんだ。従妹の子と話していたけれど、本当は僕の息子なんだよ」
ミルゼナの指が止まった。
ニコの手が掌を叩く。見て、と言われているようだった。羊を落とさないように支え直してから、彼女は顔を上げた。
「息子、ですか」
「ああ。母親は、この子を産んだあとに亡くなった。今までは乳母に任せていたけれど、いつまでもそれだけではね」
ダリオは椅子に背を預けた。いつも訪ねる客間で、いつもと同じように茶を飲んでいる。
「結婚したら、君が母親になる。この調子なら心配いらないな」
「待ってください」
子の手は柔らかかった。ミルゼナの指輪へ伸びてくる指を、そっと羊のほうへ戻した。
「そのお話を、聞いていません」
「今、話しているだろう」
「わたくしが育てるというお話もです」
「君は子どもが好きじゃないか。ここへ来れば、いつも相手をしてくれる」
それは本当だった。
初めて紹介された日、ニコは乳母の肩に顔を伏せていた。訪ねるうちにこちらを見るようになり、やがてミルゼナの持つものへ手を伸ばすようになった。その変化を、彼女は嬉しく思っていた。
「可愛がっていました」
「だったら、何を心配しているんだ」
ミルゼナは答えを探した。
なぜ息子だと教えてくれなかったのか。いつから、母親にするつもりだったのか。なぜその相談を、今まで一度もしなかったのか。
けれどダリオは、もう立ちかけていた。
「今日は父の客があるんだ。続きはまた。君なら上手にできるよ」
褒める時の声だった。
ミルゼナはニコを乳母へ渡した。小さな手に木の羊を握らせ、外した紐は届かない棚へ置く。
「お返事は、していません」
ダリオが戸口で振り返った。
「そんなに構えなくてもいい。すぐに慣れる」
「今日は帰ります」
彼が何か言う前に、ミルゼナは手袋を取った。
ニコは乳母の腕で羊を振っている。彼女はその子へ小さく手を振り、客間を出た。
手袋の内側で、掌だけがまだ温かかった。
ペンを握る指に力が入り、紙の端へ小さな穴が開いた。
ミルゼナはそこを指でならした。今、書き損じたものを捨ててしまうと、また最初から書けなくなる気がした。
伯母の屋敷の窓から、庭へ出す椅子を運ぶ音が届いていた。婚礼の支度のため、ここへ来てから馴染んだ音だ。実家よりも店に近く、伯母と相談しながら買い物ができる。今朝までは、その便利さを喜んでいた。
父へ宛てた手紙に、ダリオから聞いたことを記した。息子であること。母親が亡くなったこと。結婚後は自分が育てると、初めて告げられたこと。
そして、婚約を終えたいと書いた。
父はまだ、この事実を知らない。知った上で、彼女にどう答えるだろう。
封をしてから、もう一枚の紙を取った。
ダリオへは、結婚できないと書いた。ニコが嫌いなのではないとも添えかけて、しばらくペンが止まった。子が好きだという言葉を先に置けば、また、それなら何を心配するのかと返されそうだった。
先に、自分の返事を書いた。
二通を使いに頼んでから、伯母のいる部屋へ向かった。
「もう戻っていたのね。あちらでお茶をいただいてくると思っていたわ」
伯母は膝の上の布をたたんだ。婚礼の日に使う包み布だ。ミルゼナが選んだ縁飾りが、指の下へ隠れた。
「お話ししたいことがあります」
いつもなら、その一言で椅子を勧めてもらえた。
今日も伯母は茶を注ぎ、最後まで聞いてくれた。ダリオの息子だと告げた時には、注ぐ手も止まった。
「それは、先に知らせるべきことだったわね」
「はい。ですから、婚約を終えたいとお父様に書きました」
「もう少し、よく考えてからでも」
カップの持ち手が、指に固く当たった。
「あの子には罪がないでしょう。あなたをあんなに慕っているのに」
「はい。大切な子です」
「だったら、もう一度考えてあげて。急に来なくなったら、寂しがるわ」
ミルゼナは茶を見下ろした。
昨日まで、ニコに何を買おうかとこの部屋で話していた。伯母は、彼女が羊を選ぶのを笑って見ていた。結婚したら訪ねてくる機会が増えるからと、子のいる部屋に敷く布の話もした。親戚の子が遊びに来た時のつもりだった。
「わたくしも、寂しいです」
「そうでしょう」
「けれど、結婚したくありません」
伯母が黙った。茶器の間に沈黙が重なり、ミルゼナは肩を伸ばし直した。
「そのお話も、聞いてください」
「聞いているわ。ただ、今は驚いているのよ。落ち着いて考えたほうがいい」
声は優しかった。
その優しさに何を返せばよいのか、今日は分からなかった。
ミルゼナは茶を飲み、礼を言って部屋を辞した。父からの返事は、まだ来ていなかった。
翌朝届いた封を開く時、指輪が紙の縁に引っかかった。
ダリオからだった。
婚約を終えたいという返事を受け取ったが、そんな結論を急ぐべきではない。ニコには母親が必要だ。ミルゼナほど子どもが好きで、世話に慣れた人は望めない。
最後に、こう書かれていた。
『母親のいない子を見捨てるような君ではないと、僕は信じている』
紙を持つ手が下がった。
妻になってほしいとは、どこにもなかった。
婚約の日を思い出した。ニコが床へ落とした木の馬を拾って渡すと、ダリオが嬉しそうに笑ったのだ。
「結婚するのが楽しみだ。君もそうだろう?」
ミルゼナは頷いた。
自分たちの部屋にはどんな椅子を置こう。夜、食事を終えた後には何を話そう。訪ねる時だけでなく、毎日、彼に会える。それが楽しみだと言ってくれたのだと思っていた。
窓からの風で、手紙の隅が持ち上がった。
ミルゼナは紙を押さえた。いま膝にあるものへ、婚約の日の顔が重なりかけては離れる。
彼が楽しみにしていた暮らしの中で、自分は何をしていたのだろう。
ニコを抱き、食べさせ、眠るまでそばにいる。それは嫌なことばかりではない。きっと笑う日もあった。
けれど、その暮らしを選ぶ前に、彼に聞きたいことがあった。
なぜ教えなかったのか。なぜ、自分に決めさせてくれなかったのか。
返事には、そのどちらもなかった。
ミルゼナは指輪を回した。よく動くのに、窮屈だった。
お昼近く、父からの返事が届いた。
彼女は椅子へ腰を下ろさず、その場で封を切った。
『事情は分かった。お前の意思も受け取った。結婚を強いるつもりはない。先方へ、婚約を解く協議を申し入れる』
続きには、使いの者を待たせず返したため、詳しい話は会って聞きたいとあった。都合のよい日を知らせてほしい、と。
ミルゼナは紙を持ち直した。
今度は、指輪に触れないようにして。
返事を書き終えると、開いたままだったダリオの手紙をたたんだ。父のものとは別にして、引き出しへしまった。
伯母の手が、ミルゼナの肩へ控えめに触れた。
「先日は、あの子の話ばかりしてしまったわね」
朝の庭に面した客間だった。ミルゼナが椅子を引くより先に、伯母は彼女の顔を見た。
「可愛いと思う気持ちは、変わりません」
「ええ。あなたが結婚しないという話を、聞くべきだったわ」
肩に置かれた手の重さを、ミルゼナはしばらく受けていた。
「お父様から、お返事をいただきました」
「そう。それなら、こちらでも支度を止めておくわ。店の予約のことは気にしなくていいのよ」
「わたくしからも、お詫びします」
「頼んだ品ができている分は、受け取りましょう。使う場所は、あとで考えればいいわ」
伯母は包み布を戸棚へしまった。二度と見たくないと思っていたわけではない。けれど、見えなくなると少し息がしやすかった。
その時、戸口で爪が滑った。
「待て、そっちは——」
男の人の声と一緒に、小さな犬が駆け込んでくる。茶の支度をしていた侍女が盆を持ち上げた。犬は椅子の下を抜け、庭へ飛び出した。
追ってきた人が戸の両側へ手をついた。
「すみません。繋ぎ直そうとしたら、先に走られて」
「追いかけないで。ますます喜んでしまうわ」
伯母が言う間にも、彼は庭へ一歩踏み出しかけていた。
ミルゼナは客間の棚にある小皿を取った。犬のおやつが入っている。戸口でしゃがみ、名を呼んで一つ差し出すと、犬は草の上で向きを変えた。
「こちらにありますよ」
寄ってきた首輪を押さえる。温かい毛が手首を撫でた。
男の人が戸口へ戻ってきた。
「僕も、同じように呼んだつもりだったんですが」
「お手には、何をお持ちでした?」
彼は自分の空の手を見た。
「紐を」
「それは、戻りたくないかもしれません」
目が合った。
記憶にある顔より、ずっと背が高い。けれど、失敗した時に口の片側を上げる癖は同じだった。
「ハルゼン様?」
「ええ。ミルゼナ嬢。犬のせいで、挨拶が最後になりました」
隣家の子爵家の息子だった。幼い頃、伯母を訪ねると庭で遊んだ人だ。彼が先に木へ登り、下りる時にはミルゼナに足の置き場所を教えてもらったことがある。
「今も、高いところはお得意ですか」
「登るほうは」
同じことを覚えていたらしい。
ミルゼナが笑うと、伯母が椅子を勧めた。
「二人とも、まず手を洗っていらっしゃい。お茶にしましょう」
ハルゼンは犬を自分の椅子へ繋ぐ前に、彼女へ尋ねた。
「その小皿を、少し借りても?」
「先に犬を繋いでからです」
「賢くなった気がする」
言われた通りにしてから、彼は小皿を犬の前へ置いた。
茶の席では、伯母の庭の話になった。ミルゼナが滞在している理由には伯母が婚礼の支度だとだけ触れ、彼はそれ以上を聞かなかった。
「市は、もう見ましたか」
「店へ行く道から、少しだけ」
「今年は橋のところまで、玩具の店が出ていましたよ」
ミルゼナはカップから手を離した。
「橋のところまで?」
「昔、舟を流した水路です。覚えている?」
「ええ。紙の舟でしたね」
「君の舟だけ、途中で沈まなかった」
「いちばん小さかったからでしょうか」
「僕は大きく作れば勝つと思っていた」
ミルゼナも、彼の舟を覚えていた。帆まで紙で作り、水を吸ってゆっくり横へ倒れた。彼は流れのせいだと言っていた気がする。
「木の舟も売っているそうよ。明日、見に行きましょうか」
伯母が言った。
ミルゼナは頷きかけて、ハルゼンを見た。
「明日は、お暇ですか」
「舟を買うためなら、空けます」
「大きいものを?」
「今度は、ちゃんと考えて選ぶつもりです」
木の縁を指でなぞると、なめらかなところに一筋だけ引っかかりがあった。
店の男が気づいて、小さな布を差し出した。
「そこは仕上げをかけますよ。怪我をなさるといけませんから」
「はい。お願いします」
ミルゼナは舟を返した。
棚には、帆の色の違う舟が並んでいる。すぐ隣には、もっと小さな馬や鳥があった。羊を選んだ時には、そちらばかり見ていた。
「ニコには、どれがいいかしら」
口にしてから、羊を渡したばかりだと思い出した。
子が握る木の温もりを想い、また舟へ視線が戻った。
「今お持ちになったものが、お好きなのでは?」
侍女が尋ねた。
「そうです」
「でしたら、そのお色がよろしいかと」
子に似合う色ではなかった。ミルゼナが好きな、晴れた日の空の色だった。
仕上げの済んだ舟を、彼女は自分のお金で買った。
店の男が包もうとすると、少し迷って首を振った。
「このままで、いただきます」
「下で流していかれますか」
ミルゼナは水路のほうを見た。
子どもたちがしゃがんで、流れの先を追っている。落ちそうな舟を拾って持ち主へ返す人もいた。足を濡らして帰れば、侍女が困るだろうか。
「裾を持てば大丈夫ですよ」
先に言われてしまった。
ミルゼナは侍女の顔を見て、それから自分の裾を持ち上げた。
石段に手をつくと、日の当たっているところだけ温かかった。水際では、指に冷たさが走る。
彼女は舟を浅い流れへ置いた。
けれど、まだ手を離せなかった。
「誰かへの贈り物かと思った」
隣へ屈んだハルゼンが言った。
うっかり頷きそうになって、ミルゼナは舟を見た。店先で真っ先に手が伸びた、青い帆。
「……わたくしのです」
「うん」
「大人が買っては、おかしいでしょうか」
彼が舟を浮かべた。赤い帆だった。
「それは、僕にも刺さる」
ミルゼナは彼の横顔を見た。笑っていた。隣に、同じことをしている人がいた。
「競争にしよう。あの橋まで」
「流れが同じなら、同時に着くのでは」
「帆の立て方が違う」
彼は得意そうに自分の舟を見せた。ミルゼナが手を放すのを待って、一緒に放した。
赤い帆が先へ出る。
「ほら」
その舟が横を向き、石に引っかかった。
「あ」
彼女の舟が、ゆっくり追い越す。
声を出して笑うと、ハルゼンが顔を上げた。
「もう一度だ」
「帆の立て方は、よかったのでは?」
「今のは流れだ」
笑いすぎて息が浅くなる。水路をまたぐ橋のそばで、伯母が侍女と一緒に笑っていた。
ミルゼナは裾を持ち上げ、自分の舟を追った。今度は最初から、青い帆を目で選べた。
橋の下を抜けた舟は、少し先の岸へ寄った。彼女が石段を下りると、橋を回ってきたハルゼンが先に手を伸ばしかけた。
「取れます」
ミルゼナが言うと、彼は腕を戻した。
「では、僕は自分のを」
「まだ、あちらの石のところでしょうか」
「そう。しっかり止まっている」
それまで言い訳のように聞こえ、彼女はまた笑った。
水から上げた舟は冷たかった。掌へ載せると、水滴が手首まで伝ってくる。
ハルゼンが戻ってきた時、ミルゼナは自分のハンカチで舟の底を拭いていた。彼も上着から布を出して、赤い舟の石に当たった部分を確かめる。
彼の舟まで拭いてあげようとしなくてよかった。
ミルゼナは青い帆を整えながら、次はどこから流せるかと水路を見た。
濡れた舟を持つ掌へ、風が冷たく抜けた。
ミルゼナは橋の向こうを指した。
「次は、あちらから流しませんか」
ハルゼンが顔を上げる。
「最初から、同じ場所でいいんじゃない?」
「あの石に、また引っかかるかもしれません」
「今度は向きを変えて出すつもりだった」
「それでも、石はありますよ」
彼は自分の舟を見たあと、橋の下の流れを覗いた。
「君も、負けるつもりがないんだな」
言われて初めて、勝つ場所を探しているのだと気づいた。
「せっかく、わたくしの舟を買いましたから」
ハルゼンは口を結んだ。けれど目元は笑っていた。
「行こう」
二人で石段を上がり、橋を渡った。
伯母は露店の菓子を包んでもらっていた。侍女が小さく頷いて、橋の手すりのほうへ移る。そこからなら、二人とも見える。
二人で舟を置き、顔を見合わせて手を放した。
並んだ青い帆が石壁へ寄る。向きを直したい指を膝の上で握り込むと、舟は壁の手前で曲がり、赤い帆を抜いて橋の影へ入った。
「また、わたくしですね」
「まだ下を抜けていない」
ミルゼナは口元を押さえた。
先ほどの石のせいだと言い張っていた顔も面白かったが、今度こそ勝ちたいというこの顔も、もう少し見ていたかった。
伯母が呼びに来る頃には、菓子の包みはすっかり冷めていた。
「その辺で。帰りの馬車が待っているわ」
ミルゼナは舟を持ち上げた。
「あと一度だけ」
「ミルゼナ」
伯母の声で我に返る。ハルゼンも立ちかけた姿勢のまま止まり、二人で顔を見合わせた。
彼が先に笑った。
「今度にしよう」
「……はい」
帰ることを、こんなふうに惜しんだのは久しぶりだった。
伯母宅へ戻ると、廊下の小卓に手紙が届いていた。
一通はダリオからの、親族の顔合わせへの招待だった。以前から決まっていた会食の日。その下に、ニコの母になるミルゼナを紹介すると、彼の筆で書き添えてある。
舟を持った手が固まった。
伯母も文面を見て、包みを持ち替えた。
「返事は、もうしたのでしょう」
「はい」
「欠席にしましょうか」
ミルゼナはもう一通を開いた。父からだった。
先方の父は面会して話したいと言っている。紹介ではなく、解消の協議をする。そのつもりで同行できるかと、父は尋ねていた。
ミルゼナは招待状へ目を戻した。
子を抱けば喜ばれ、そのまま母と紹介される。嫌だと書いた返事を持っていても、彼はそれをするつもりなのだ。
「お父様と、お話しするために伺います」
舟を侍女へ渡し、ミルゼナは父への返事を書くため自室へ向かった。
馬車の座席に置いた手を、父の手が包んだ。
「無理に顔を合わせなくてもいい。話は私からできる」
「ありがとうございます。でも、自分でも伝えます」
「分かった」
父は手を戻した。その隣に、会食へ招く手紙と、ミルゼナが出した返事の控えが置かれていた。
窓の外を家の塀が流れ、ダリオの屋敷へ着く。
馬車を下りる時、以前なら玄関のほうを見ていた。彼が迎えに出てくれているかどうかを、いつも気にしていたのだ。
今日は父の足音を聞いてから、前を向いた。
ダリオの父が玄関へ出てきた。
「お待ちしておりました」
互いの挨拶を終えると、父はミルゼナを横へ引き寄せず、その隣で立ち止まった。
「お伝えした通り、今日は婚約を解く話をするために参りました」
「承知しております。娘さんにもお話を伺いたい」
ダリオの父が頭を下げた。
食堂のほうから話し声が届いていた。親族は、いつものように集まっているのだろう。ミルゼナは胸元へ上がりかけた手を下ろした。指輪を外すなら、その時に自分で外す。
廊下の先には、食前の杯を載せた小卓があった。食堂の脇の戸を、ダリオの父が示す。
「まず、こちらで話を」
書斎の扉へ伸ばした手が、そこで止まった。
子の声がした。
食堂の入口で、乳母に抱かれたニコが身を乗り出していた。木の羊を持つ手が、ミルゼナへ伸びる。
「ニコ」
彼女は片腕を差し出し、短く抱きとめた。羊が胸元に当たる。
ダリオの子だと知らされたから、もう抱かない。それも違うと思った。
「今は、お話があるの。お部屋で遊んでいてね」
乳母が両腕を広げた。
ミルゼナが子をそちらへ向けた時、食堂からダリオが杯を上げた。
「皆様。この子の母になるミルゼナを——」
「そのお話は、お断りしました」
ニコを抱く腕へ、少し力が入った。
ダリオの杯が止まる。向かいの叔母が、上げかけた手を下ろした。
「子どものいるところで、そんなことを」
「別室でお話ししたいと、先にお願いしました」
食堂の親族たちが、扉へ顔を向けた。
ミルゼナは子を乳母へ渡した。
赤ん坊の重みが、腕から離れる。小さな手が袖を放し、その手に握られた木の羊が、乳母の肩へもたれた。
彼女は曲げていた指をゆっくり伸ばした。
「眠そうです。いつものお部屋へ、お願いします」
乳母が頷いた。子の髪に頬を寄せながら、部屋を出ていく。
その小さな背が見えなくなるまで、ミルゼナは待った。
「わたくしの手紙も、お読みになったのですね」
ダリオが眉を寄せた。
「読んだよ。それで、皆で話せば君も安心すると思って」
叔母が、彼とミルゼナを交互に見た。
「そういうお話だったの? わたくしは、もう決まったことだと」
「決まっていません」
ミルゼナは答えた。
「ニコがダリオ様のお子だと伺ったのも、先日のことです」
食堂の奥で、椅子が鳴った。
ダリオの父が口を開きかけた。ミルゼナはその前に、ダリオへ向き直った。
「結婚はできませんと、お伝えしました」
「だから、急いで決めることじゃないと返しただろう。あんなに可愛がっていたのに、今さら見捨てるのか」
ここで微笑めば、食事が始まる。
子の頬を拭き、彼の話に頷けば、よい母親になったと喜ばれる。
口の中が乾いた。ミルゼナは舌を動かして、上顎から離した。
「大切に思っています」
「だったら——」
「あなたと結婚することとは、別です」
ダリオが小卓へ杯を置き損ねた。卓布に赤い染みが広がった。
「君までいなくなったら、僕はどうすればいい」
ミルゼナは彼の顔を見た。
「あの子の父親でいてください」
ダリオの指が杯の脚をつかんだ。赤いものが手につき、布へ拭きつけられる。
「それは、当たり前だ。僕は父親だよ。ただ、母親がいればもっと」
「わたくしが、結婚する返事をする前に決めないでください」
「君は、僕と結婚するつもりだっただろう」
「はい」
彼は顔を上げた。
ミルゼナは、指輪に手をかけた。
「あなたが好きでしたから」
指輪。跡。軽い手。
長く着けていた場所だけが、まだ締めつけられている。
差し出しかけた指輪を、ダリオは受け取らなかった。
「君が嫌がることは、もう頼まない。乳母も増やす。それでいいだろう」
彼女は掌を下げなかった。
「妻になってくれ。母親は、しなくていいから」
その言葉を、もっと前に聞きたかった。
好きだから選んだと、一度でも言ってほしかった。
初めてニコがこちらへ手を伸ばした日も、その子が眠るまで客間にいた夕方も、ミルゼナは確かに嬉しかった。ダリオが迎えに出てきてくれる日も、好きだった。
けれど今は、この人の妻になる日を想うと、先に息が詰まる。
ミルゼナは彼の前へ指輪を置いた。
「結婚も、しません」
ダリオが手を伸ばした。指輪へ触れずに止まる。
ミルゼナは父の隣へ歩いた。
「お父様。お話を進めてください」
「分かった」
父が相手の父へ顔を向けた。
「娘の意思は、お聞きいただけたと思います」
ダリオの父は、白い布の上を見たあと、ゆっくり頭を下げた。
「こちらへ。詳しい条件は私どもで」
「ミルゼナ」
ダリオの声に、彼女は一度だけ振り返った。
「僕は、君がこの子と笑っているところが好きだったんだ。あの時のように」
彼女は乳母の消えた廊下を見た。
「わたくしも、あの子と笑うのは好きでした」
それは、最後まで嘘にしなかった。
ミルゼナは書斎へ入る父を見送り、帰りの馬車を頼むため玄関へ向かった。
小卓の白い布で、指輪が赤い染みに触れていた。
指を曲げると、薄くなった指輪の跡に小さな皺が寄った。
婚約を解く両家の書面を、ミルゼナは父と一緒に確かめた。式と披露の支度を終える連絡は、父と伯母がそれぞれ引き受けてくれた。自分で返すものは自分で返し、もう必要のない買い物の予約を取り消した。
誰にも会いたくない日ばかりになるかと思ったが、そうでもなかった。
市の話を思い出すと、赤い帆を持つ人の顔が浮かんだ。あのあと舟の底を直しただろうか。帆の向きにも、まだ自信を持っているだろうか。
伯母へ尋ねようとして、ミルゼナは言い直した。
「ハルゼン様を、お茶にお招きしてもよろしいですか」
「ええ。よろしいわよ」
伯母は手紙をたたんでいた。
「あちらの家へ、少し用があって。ニコは元気だそうよ。乳母に羊を見せては、また自分で抱えているんですって」
「そうですか」
木の羊は、あの子の手に戻っている。
そのことに安堵してから、ミルゼナは自分の便箋を取った。
返事は、翌日届いた。
ハルゼンは約束した日に訪ねてきて、開口一番、上着の中から赤い舟を出した。
「今日は、持ってきた」
ミルゼナは笑った。
「お茶のお誘いでしたのに」
「そうだった。見せるだけのつもりで」
舟の底には、石に当たった小さな跡が残っていた。彼は隠さずに、彼女の前へ置いた。
「大きな舟で勝とうとするのは、やめたんですね」
「大きければ勝つわけではないと、ようやく分かったので」
「では次は、何をお試しになりますか」
「君が先へ行かない方法」
ミルゼナは口元を押さえた。伯母が笑いながら茶を注ぎ、それから少し離れた椅子へ移って針仕事を広げた。
彼の前にカップが置かれ、ミルゼナも自分のものを取った。
「婚約は、正式に終わりました」
ハルゼンが舟から手を離す。
「伯母様から少しだけ伺っていたけれど、君から聞くまではどう話したらいいかと思っていた」
「お待たせしました」
「いや。急がせるつもりはなかった」
ミルゼナはカップを受け皿へ戻した。
「また、市へ行きませんか」
「舟を流しに?」
「ええ。でも、それだけではなくて」
彼の目を見たまま話すのは、水路を覗くより難しかった。
「ハルゼン様と、出かけたいです」
声が小さくなった。けれど、最後まで言えた。
彼はすぐには答えず、自分の赤い舟を指で押した。帆が揺れ、そこで止まる。
「それは、僕の都合のよい意味に受け取ってもいいんだろうか」
「どんな意味ですか」
「君を誘いたいと思っていた男が、同じ気持ちで誘ってもらえたという意味」
ミルゼナは頷いた。
「はい。その意味で、お誘いしています」
ハルゼンが長く息を吐いた。
「よかった。次の市まで待てずに、明日も来たいと言うところだった」
「明日も、いらしてください」
今度は、先ほどよりはっきり言えた。
次の市の日、二人で同じ石段へ下りた。
伯母と侍女は、橋の上からこちらを見ている。ハルゼンがしゃがみ、ミルゼナの隣へ赤い舟を置いた。
「今日は、どこから?」
「ここから。一緒に」
水へ入れた指が冷えた。
彼女は舟の底を押さえ、隣の手が離れるのを待った。指輪のなくなった指は、青い帆を持つのにちょうどよかった。
声を合わせて、手を放す。
並んだ舟のうち、青い帆が先に風をはらんだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
舟に自信があるくせに、石に引っかかるハルゼンを書くのが楽しかったです。書いているうちに、ミルゼナも思った以上に負けず嫌いになりました。「あと一度だけ」と言ってしまうところは、二人ともなかなか帰れなくなりそうだな、と笑いながら書きました。
次の市でどちらが勝つのか、私も気になっています。赤い帆の舟には、まだまだ頑張ってもらいたいです。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
・妹の婚約指輪は、母の棺から盗まれた
https://ncode.syosetu.com/n0519mx/
・夫の愛人が、私の離縁を止めに来た
https://ncode.syosetu.com/n1979mx/
・私を賭けた婚約者は、お断りします
https://ncode.syosetu.com/n7037mx/
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




