昭和大震災
架空戦記創作大会2026春、お題①となります。史実でも発生した東南海地震の規模が大きく、さらに・・・というIFです。
昭和19年12月8日、太平洋戦争開戦から3年を迎えこの日から一週間の日々は、中部から関東圏に至る日本国民に深い傷を与えた日として記憶されている。
この日の昼、太平洋紀伊半島沖を震源として発生した大規模な地震は、大規模な津波を引き起こし、特に太平洋岸の和歌山県や三重県、静岡県沿岸部に被害を与えた。
しかしながら、当時の日本政府にとってそれ以上に衝撃的だったのは、この地震で当時の日本の航空機生産の要であった中部地方の工業地帯が、大打撃を受けてしまったことである。特に零戦や一式陸攻を生産していた名古屋の三菱重工や「彗星」を生産していた愛知航空機の工場、岐阜・各務原の川崎飛行機、さらには半田の中島飛行機の工場が軒並み生産を停止した。
いや、生産を停止したでは生ぬるい。工場の倒壊や、設置していた各種機械類の損壊、また製造ライン上や出荷直前の機体の多くが破壊され、その復旧は少なくとも年単位は必要と見られた。
それだけでなく、この地震と津波で浜名湖の鉄橋が落橋するなど、東海地区の鉄道網にも甚大な被害を受けた。特に東西を結ぶ東海道線は鉄橋の落下や、盛り土の崩壊、駅施設の倒壊のために、こちらも復旧には年単位の時間が必要と見られた。
さらに言えば、バイパス線である中央線は単線区間が多い上に、愛知県内の区間でやはり損傷があり、東海道線程ではないが復旧に時間を要する状況であった。
もちろん、このような状況であるから、名古屋に豊橋や安城、浜松などに所在する陸海軍基地も大なり小なりの損害を受けた。特に飛行場は格納庫や滑走路、給油設備などに打撃を受け、もっとも被害が軽い基地でも復旧には1ヶ月は掛かりそうであった。
レイテ沖海戦に敗北し、既に敗戦を避け得ない状況での天災であったが、深刻だったのは和歌山・三重・愛知・岐阜・静岡では民家の大規模な倒壊も発生し、罹災者(特に死者が)多数に昇ったことであった。
この揺れはさらに神奈川や東京でも観測され、とても箝口令が敷けるものではなかった。さらに名古屋を中心とした中部地方で多数の死傷者を出し、その救援の必要があった。
箝口令を敷こうものなら、それは数百万単位の人間を見殺しにすることを意味した。
結局、政府は地震の事実や多少の損害は報道しつつ、相変わらず戦争の継続を国民に訴えかけ、さらには天皇を含む皇族から被災者への慰めの言葉を発することで、戦意の維持を図ろうとした。
しかしながら、そんな日本政府や軍部の努力をあざ笑うように、この地震は次なる災害を誘引していた。
地震から3日後の12月11日、富士山南東部で噴火が発生した。
この噴火は山体崩壊を引き起こすような悪夢だけはなかったが、それでも溶岩や噴石、さらには大量の火山灰をともなうものであった。
このうち溶岩による被害は、流れ出た静岡県側の森林地帯や、不幸にも巻き込まれた農家が焼けたところで止まり、海まで流れ出るという事態は避けられた。
しかしながら、噴石や火山灰による被害は甚大であった。特に火山灰や関東平野に広く降り注ぎ、東京をはじめとする関東圏一円の都市機能を完全に麻痺させてしまった。
もちろん、軍隊や軍需工場も例外ではない。航空機は当然ながら飛べなくなり、自動車も列車もまともに動かず、それどころか、場所によっては電気や水道というライフラインさえ寸断してしまった。
こうなると、戦争どころではない。いや、軍内部の一部では天災何するものぞであったが、災害は等しく誰にも突如として襲いかかり、そしていつ終わるとも見えぬものだ。またつい20年前には関東大震災も起きており、その記憶を有する者も多い。
外は降灰により真っ暗で、インフラは壊滅状態。
こうなると、東京から脱出を試みる都民が出るのは、必然であった。
本来であれば、こうしたパニックが起きないように、警察や軍が治安維持にあたるべきところである。なかんずく、未曾有の戦争中である。国民への統制は強固に行われていた時代だ。
ところが、そのとうの警察や軍、というより日本政府そのものが大パニックに陥っていた。当然である。富士山噴火の3日前に、中部地方に大打撃を与えた地震が起きたばかりである。その対応が決まり切らぬ状態で、次なる災害が起きたのだ。しかも、帝都東京を直撃する形で。
政府が何よりも優先したのは、天皇の安全と避難であった。しかし、降灰によるインフラの破壊と移動の制限は、政府機能さえ麻痺させ、閣僚が集まるのすら覚束ない状況であった。
結局、天皇にしろ政府にしろ、空襲に備えて整備された地下防空壕に避難し、とにかく情報収集しつつ、降灰が収まるのを待つしかなかった。
こうして指揮系統が完全に麻痺し、上からの命令がないために、現場はそれぞれの判断で動くしかない。
帝都東京との連絡が寸断したため、各地から様々な連絡が試みられた。最初に行われたのは航空機によるものだったが、火山灰のために東京近郊の飛行場は軒並み使用不能であった。
無理をして突入した5機までもが火山灰を吸い込んだり、視界不良で全てが墜落もしくは不時着を余儀なくされ、しかも2機が住宅街に墜ちてパイロットと住民に死者を出すという、二次災害まで起こしただけに終わった。
一方、比較的火山灰に強い艦船はといえば、こちらは多少の視界不良による衝突事故などあったものの、数隻の艦船が横須賀や横浜から東京湾を抜け出し、連絡任務のために東西へと散った。
この艦船部隊が、東京の実情を知らせる第一弾となった。
彼らにとって幸いだったのは、地震と火山噴火に驚き、さしもの米潜水艦部隊も、安全のため一時的に日本沿岸から後退していたことであった。
富士山噴火の2日後、駆逐艦「橘」が降灰もなく、なおかつ入港可能だった茨城県の日立港に入港し、そこからは電信や電話で東京周辺の実情が発信された。また翌日には同じく駆逐艦の「槇」が大阪港に入港し、西日本でも広く東京を襲った大災害の実情が伝わった。
名古屋周辺の航空機生産が止まり、東海道線は各所で寸断。それでもって、帝都東京は首都機能停止と来ている。
こうなると、戦争どころではない。とにかく、本土に散在していた部隊がまずもって行おうとしたのは、帝都東京への救援、なかんずく天皇の救出であった。
しかし、実際のところ鉄道路線はほとんど普通で、さらに自動車にしろ徒歩行進にしろ、東京近郊に着いても火山灰によってその前進速度は大幅に落ちた。さらに彼らが予想だにしなかった存在までもが、その行く手を妨げた。東京からの避難民たちである。
首都機能が麻痺した東京から、続々と都民が脱出を始めていた。特に噴火から時間が経ち、降灰量が少なくなるのと比例して、その数は多くなった。
戦時下で戦況も厳しくなっているこの時期、国民の移動にも様々な制限が加えられていた。特に空襲時は防空法により、避難より先に消火などの初期対応を優先する法律まであった。遠方への旅行には、警察の許可を必要とする場合もある。
しかし災害、それも都市機能の麻痺による自己の生存危機とあっては、もうどうにもならなかった。しかも取り締まる警察や憲兵も機能を停止していたのだから。
東京へ向かう各部隊も、圧倒的な数と、火山灰で真っ白になり、中には肺をやられて文字通りの青息吐息状態の避難民を、まさか押しのけて前進する訳にもいかなかった。
富士山の噴火から1週間が経過した12月18日、噴火そのものは終息したものの、東京含む関東一円の混乱は未だ続いていた。厚く降り積もった火山灰は、未だに交通や都市機能の復旧を阻んでおり、戦時下であることが、拍車を掛けた。
と言うのも、軍部は当然ながら軍施設や軍需工場の復旧を最優先に望むが、内務省や東京都などは最低限の交通並びに都市機能復旧を優先するよう申し立てた。
とにかく、何かしら手を付けるにしても、地震と富士山噴火で東京都外部との交通が遮断されているのが痛かった。特にこの時代陸の交通の中心である鉄道は、東海道線の復旧が全く見通せず、中央線や東北本線、常磐線などもストップしたままであった。結果的に東京への救援物資も人員も入らない。
さらに、都市機能の停止のために、政府にしろ軍部にしろ、その機能が麻痺していた。電話は途切れ途切れで、車も伝令も降り積もった火山灰で動きを制限される状況では、何かしら決定を下しても、その指示が行き渡る筈もなかった。
結局、軍民問わず現場での場当たり的な対処が、復旧へのスタートであった。
陸の交通の要である鉄道に関しては、国鉄、私鉄問わず列車の運行が再開可能となるよう、全力が尽くされた。
東西を結ぶ東海道線は、とても短期間での復旧を見込めないので、信越本線と上越線、東北・常磐など北からの鉄路が優先的に復旧工事が進められた。その結果、富士山噴火2週間後、ようやく信越線を通り日本海経由とするルートが復活した。また上越線経由のルートも程なく復旧した。
しかし、山越えかつ遠回りのこの2ルートでは、東海道線の代替は到底覚束ない。
加えて、東京の都市機能の麻痺による市民の流出は、これらの人々が復旧した鉄道に流れ込むことも意味していた。
政府や都は、市民に東京外への脱出を控えることや、復旧作業に従事することを重ねて通達したが、この通達が東京周辺に行き渡るようになったころには、富士山の噴火から1ヶ月も経過しており、効力もなかった。
そして、脱出した人々と彼らを受け入れることとなった地方も大混乱となった。何せ寒さが日に日に厳しくなる冬の時期である。ただでさえ戦時下で日本中物資不足のところに、数百万の避難民が流れこんだのである。
最初は火山灰で真っ白になった人々に救援の手を差し伸べていた地方の人々も、受け入れるキャパオーバーの人数に押し寄せられては「もう来るな!」となる。
政府や軍部は東京に戻るよう奨励するが、ここでさらに混乱に拍車を掛けたのは、婦女子はそのまま疎開をかねて田舎に留め置く方針を取ったことだった。
都市機能が復旧していないのだから、これはある意味正解の策ではあったが、地方からしてみると婦女子だけでも受け入れろという方針であるし、避難民からすると落ち着かないまま家族離散を強いられることとなる。
おまけに、東京へ戻る手段も充分に復旧していないし、さらに富士山の噴火が収まった年明けには、いよいよB29爆撃機が偵察でマリアナより飛来するようになり、空襲警報が頻繁に鳴り響くようになった。
そしてさらに日本を追い込んだのが、中部から関東に掛けての大規模な災害により発生した恐怖やデマであった。
特に東京から真っ白になって脱出した都民の姿が各地で目撃されたことは、帝都東京壊滅を多くの人々に印象づけることとなった。そしてその結果として「東京は全滅した」「政府は崩壊した」「陛下が崩御された」などのデマが、まことしやかに人々の間で語られることとなった。
もちろん、各地の警察や憲兵がそれらのデマを取り締まるのであるが、語る口の数が多すぎたのと、加えて彼ら自身が東京の中央官庁や政府との連絡が覚束ないために、そのデマを嘘と信じ切れない部分もあったのだ。これでは、デマを防ぐことなど不可能だ。むしろ、逆にデマに信憑性を与えるような事例まであった。
そして、この日本を襲う大混乱は、皮肉なことに海外へと普通に漏れていた。いまだ日本に外交拠点を置く同盟国や中立国の大使館や領事館、極少ないが新聞記者らの手によって、本国へと情報が送られていたのである。彼らを取り締まる日本の特高も、その機能が著しく衰弱しており、ここぞとばかりに情報が送られた。
もちろん、交戦中の米国や、虎視眈々と対日戦への牙を研ぐソ連などが、この機会を逃すはずがなかった。
まず米国は、当初予定されていた日本本土への爆撃を一時棚上げして、中立国などを経由して得た地震や富士山噴火に関するビラを、B29から撒く作戦に出た。これらのビラは、当初は文のみであったが、次第に火山灰を被った東京や地震で大きく損壊した名古屋付近の空中写真を添えるようになった。
さらに、日本側のラジオ電波が停波しているのを良いことに、謀略放送も開始した。この放送内容はストレートに日本の市民に停戦や非戦を呼びかけず、地震による被害を、あたかも日本の放送風に誇張して流すというやり方であった。
これらの謀略は、東京からの避難民や、既に流れていたデマなどと合わさり、民間人に対してはかなり効果的なものであった。
一方ソ連はと言えば、これ見よがしに極東方面の軍を激しく動かして、満州の関東軍や千島、そして樺太を守る帝国陸海軍部隊を狼狽させた。
この時点でソ連に対抗する戦力は、南方戦線への引き抜きに引き抜きによって、もうなかったからである。
そうして左手でブンブンナイフを回しながら、右手を差し出すソ連。大日本帝国に地震被害への援助と、対米講和の仲介を打診する。もちろん、遠回し・・・どころか、かなりストレートに自分たちの欲望を口にしながらだ。
ただでさえ貧弱なところを、独ソ戦で消耗している海軍戦力強化への援助(からの、海軍艦艇の譲渡・売却や日本の軍港の使用権の獲得)や、混乱を来すだろう満州への治安維持軍の派遣(からの自国勢力圏への組み入れ)、樺太および千島での通商や漁業などの優越権(からの自国勢力圏への取り込み)などだ。
東京の首都機能が停止しているため、ソ連の要求はモスクワの駐ソ連日本大使経由で、日本本土へと届けられた。
このソ連側の提案が届いた昭和20年1月初頭頃、ようやく中央省庁の一部機能が回復した。ただし、東京の首都機能はこの時点でも停止中のため、やむなく地震および富士山噴火の影響を受けず、なおかつ空襲の可能性も少ない新潟県庁の一部を間借りしての業務再開であった。
同様に宮城、岩手、富山、石川、福井などへと中央省庁の一部機能が疎開して、業務を再開していた。
では、肝心要の政府はと言えば、長野へと疎開していた。同地への大本営の疎開計画が進められており、なおかつ政府の説得を受けて、ようやく疎開に同意した天皇が仮御所を置いた軽井沢にも近かったからである。
こうして、長野に疎開してようやく機能を復活した日本政府に、いきなり突きつけられたのがソ連からの救援と講和斡旋であった。
救援は正直に言えば、ありがたいことこの上ない。何せ、中部圏から関東圏の被害は、もはや日本政府独力でなんとかなる範囲を超えていたからだ。
しかし相手がソ連であり、しかも提示している条件を見れば、受け入れるのは悪魔に魂を売るに等しい行為であった。
一方米英などの国々が行う謀略も、ジワジワと効果を上げていた。国内の混乱を増長させたのも然る事ながら、本土の政府や軍部上層が機能不全となったことで、外地に展開する軍の各部隊や、朝鮮・台湾総督府、領事館などは本土からの指示を一切受け入れられなくなった。
ようやく本土を連絡が付いても、それは西日本だと大阪以南、東日本は福島以北の部隊が「東京での烈震」を伝えるだけで、詳細な情報が入らない。
やむなく、各地では攻勢を中止して、とにかく東京と連絡を付けるのに腐心した。既にフィリピンにまで連合軍に押し込まれている状況であったが、それでも各地から連絡機が連合軍の目をすり抜けて、次々と本土へと向かった。
もちろん、それらの連絡便は本土にたどり着けても、東京への連絡を付けるのは至難の業であった。
このような状況では、もはや戦争どころではない。
天皇の強い希望により、中立国を介しての停戦交渉が始まった。以前であれば軍部が強硬に反対するところであったが、その軍部も中京工業地帯の壊滅と、東京を含む関東圏の都市機能停止からくる政府機能の麻痺、さらに狙い澄ましたかのようなソ連の仲介と来れば、もう継戦などとは言えなかった。
特にソ連が露骨に野心を示したのは衝撃的で、計画されていた同国を仲介国としての、連合国との有利な条件での講和は無理であるという共通認識が出来上がっていた。
結局帝国政府は、国体の護持の1条件のみを中心に、カイロ宣言の全面受け入れも覚悟しての講和へと動いた。
そしてこの電撃的かつ、ほぼ無条件降伏に近い日本政府の提案に対して、連合国内でも判断が分かれた。
と言うのも、同じ王室を持つ英国はこの降伏案に前向きであった。同国としては、自国の権益を返してもらえればそれで構わず、また日本の文化や政治に深く根ざしている天皇制を廃止することは、例え敗戦国にするにしても、無用の混乱のもとだと考えたからだ。もちろん、帝政が倒れて碌なことにならなかった、独露という前例もあったが故だ。
一方米国は日本本土への空襲を開始し、実力で日本を叩き潰そうとしてい矢先である。原爆の完成も近い。だが、戦争が伸びれば戦費も莫大となり、既に国庫を相当に圧迫している。出征している兵隊の家族も戦争が早く終われば終わるほど、政府を支持するはずだ。
またこの時期ルーズベルト大統領の体調が悪化しており、ここで日本に勝利して戦争を幕引きできれば、格好の勇退材料ともなる。
そのため、米国内では継戦派と降伏受け入れ派にわかれた。
またその他の連合国の中でも、日本に同情する国やお付き合いとして宣戦布告している南米諸国は降伏受け入れに前向きだが、豪州のように本土に手を掛けられ、捕虜への非人道的行為などから天皇制断固廃止という強硬な国まであった。
結局のところ、連合国最強国家アメリカの動きに掛かっていた。
こうなると、継戦を求めるソ連と降伏受諾を求める英国の間で、凄まじい対米謀略合戦となった。両国とも正規から非正規、民間のルート等まで使って、自国に利する動きを米政府にさせるべく動いた。
短くも激しい戦いが起きたが、最終的に勝利を掴んだのは、米国の報道界に強く働きかけた英国であった。新聞、雑誌、ラジオなどを駆使して、世論を降伏受け入れへと流したのだ。
1945年2月1日アメリカ合衆国は、日本政府の「国体護持を唯一の条件」としたカイロ宣言を含む連合国側の事前提案を丸呑みする、実質的な降伏受け入れでの停戦交渉開始を容認。太平洋方面での積極的な戦闘行為を停止した。
日本側もこれに対して、連合国と対峙する全部隊に戦闘停止を命令。
双方とも通信の不備や、防衛目的での戦闘停止までは禁止しなかったため、散発的な戦闘は起きたが、それも2月10日までには終息し、それより前の2月5日に日本側特使が、米国包囲下の硫黄島へと到着。そこから派遣された米国機に乗り換えてマリアナ経由でハワイ諸島へと向かい2月10日に到着。翌日から交渉が開始された。
そして2週間に渡る交渉により、連合国と大日本帝国の正式な停戦が決定した。
もちろん、カイロ宣言の履行など、細かい諸条件を整えるのはこれからだが、とにかく日本としては早急な停戦ならびに、各地に点在している陸海軍部隊を、内地復旧の戦力とするべく引き上げさせたいのが本音であった。
停戦がなると、南方に残されていた艦艇や船舶が、日本本土へと引き揚げを行おうとしたが、これに慌てたのが連合軍だった。と言うのも、急な停戦であったために、連合軍側の進駐計画が全く出来上がっておらず、日本に撤収されて権力と治安の空白が発生してしまう可能性が出てきた。
慌てて連合軍側は、現地の治安維持のための戦力を、連合軍進駐まで残すよう求める事態になった。
この頃ドイツとの戦いが最終局面を迎え、さらにはソ連との対立も予想される時期に、連合軍は戦力を即座に動かしがたかった。
またカイロ宣言で台湾や澎湖島、満州の返還を約束させる側の中国も、あまりにも早急な日本側の実質的な降伏に、困惑せずにはいられなかった。台湾や満州を即座に返還されても、そこに兵を移動させる手段や統治機構を用意できなかったのだ。
結局のところ、大陸においては日本軍は次々と内陸部の占領地からの自主撤退に入り、中国軍(国民党・共産党双方ともに)はその動きを追認、あるいは形式的な返還や武装解除手続きをするのみであった。
こうした外地の混乱もあったが、とにかく日本にとって本土の復旧は最優先課題だ。
各占領地で起きているゴタゴタを尻目に、まずは南方に残っていたタンカーや輸送船が日本へ向けて出発させた。これらが積む石油や各種資源は、復旧材料として必要不可欠であった。
これまでは敵機や敵潜水艦の攻撃により、日本本土へ向かっても撃沈されるだけの状態だったが、皮肉にも停戦がなったために、これらは安全に日本本土へと迎えた。もちろん、時折米潜水艦などが臨検を行ったが、これも形ばかりであった。
日本本土に到着した資材や人員は、すぐに東海から関東の広い地域の復旧作業へとつぎ込まれた。
何よりもまずは、資材や人員の輸送に不可欠な鉄道や港湾と言った交通インフラの復旧、続いて比較的損傷が軽微な都市の復旧と拠点化、そして東京や名古屋と言った大都市の機能復旧であった。
ただでさえ、戦争で疲弊していたところへのこの復旧作業であったが、皮肉にも台湾や沖縄、小笠原など戦闘間近と見られて配置されていた兵力を早急に引き揚げさせ、この作業に投じることが出来、仮復旧作業は早急に進んだ。特に鉄道インフラは5月までに、ほぼ開通した。
しかし、都市機能の回復は簡単にはいかなかった。地震による倒壊や液状化現象、火山噴火により積もった膨大な火山灰の片付けは、そう易々と行えるはずもなかった。ましてや、ヒトモノカネ全てが不足している戦時下では。
停戦がなったとはいえ、その状況はまだ続いていた。
6月になって、ようやく停戦監視や戦争犯罪人、或いは捕虜の引き取りに伴う調査のために、連合軍部隊の進駐がはじまったが、その彼らの目からしても、関東一円や東海道沿いの被害は「ヒドイ」の一言であった。
復員してきた部隊が投入されているとは言え、被害範囲が広く、復旧に必要な資材や燃料、さらには作業を行う人間に必要な食糧、飲料水にすら事欠いている有様なのだ。
結局進駐した連合軍は主として臨時首都となっている長野や、都市としての機能を維持している大阪、広島、長崎などに小規模な部隊が入るに留まった。
この時点で5月にナチス・ドイツも降伏し、戦争も終結しており、連合国側は日本に対する活動を本格化した。
日本本土の惨状から、戦争犯罪の調査や軍の縮小よりも先に行われたのが、日本本土の捕虜収容所の捕虜の収容・帰還と、それに付随する作業であった。
すなわち、捕虜たちの円滑な輸送をならしむための、建設資材や必要な燃料の送り込み、食糧や医薬品の持ち込みである。
これらは、その目的を拡大解釈して日本側に直接引き渡されたものもあった。
なお、当初は講和と復旧支援を申し出たソ連はと言えば、こうした日本と後に西側と呼ばれる諸国の動きを、指を加えてみているしかなかった。と言うのも、ナチス・ドイツ打倒の最後の一息という段階であり、加えて東欧圏への影響増大に力を注ぐ必要があり、米国などが提示する以上のものを、用意できなかったからである。
さて、この地震と火山噴火の復旧作業がある程度終えたところで、連合国側は日本の戦争責任追及や賠償に関する協議を行う予定であった。
しかし、それを吹き飛ばす事態が1946年12月に発生する。昭和南海地震と呼ばれる潮岬沖を震源とする地震で、再び四国・西日本・東海地方を強震と津波が襲った。
結果、特に四国から和歌山、三重などが大被害を被り、進駐軍にも被害が発生する大惨事となった。
これによって、戦争処理は振り出しに戻った。
日本政府は最後富士山などの火山の連鎖噴火を警戒したが、この時は幸いにもそれはなかった。
しかし、この南海地震以外にも福井地震や台風など、日本列島は例年のように短期間で立て続けに災害被害に見舞われることとなり、進駐軍の撤退すら議論される程であった。
結局、日本の戦後処理が本格化するのは、ようやくそうした災害が沈静化し、復旧が完了した1950年以降となった。
しかし、この頃には東西冷戦が本格化し、中国大陸では国民党と共産党の内戦が激化し、朝鮮半島では未だに米国を始めとする国際連合が管理を行っている状況であった。
この状況では、日本を強く批判できない。
加えて、連合国側が求めた日本の軍備縮小も、度重なる災害の復興費用捻出のために、嫌でも軍事予算を削らざるを得ず、自然と開戦以前よりも小規模な軍備にならざるを得なかった。むしろ、軍備を戦時賠償の相殺や、内戦が勃発した中国を始めとする各国への輸出に振り向けなければならないほどだった。
最終的に、度重なる災害が落ち着き、連合国側との講和交渉や戦時中の処理のアレやコレヤが終わり、日本が国際社会の表舞台に復帰するのは、1955年のことである。
御意見・御感想お待ちしています。




