褪せたローブの魔法使い
王都へと続く町外れの街道でパーティは危機を迎えていた。巨体の強敵、トロールとの遭遇戦。
「マヤ! なにしてる! 早く攻撃を……」
勇者タリオンが負傷した腕を庇いながら、こちらを振り向く。彼の声には、いつもの余裕がない。普段は「みんなで協力して」と穏やかに説くタリオンだが、今は焦りに染まっている。彼の腕から滴る血の赤が、まるで絵具を垂らしたように地面に滲む。夕焼けの赤と混ざり合い、その色彩に目を奪われる。遠くでは鳥の群れが、夕暮れの空を横切っている。鳥たちには、この戦いなど意味のないものなのだろう。
「……紅き炎よ、今ここに顕現し……」
奇襲を受けた瞬間から呪文は唱え始めている。しかし、そのことが彼には認識できていなかったようだ。仕方なく少しだけ声を大きくする。思えば、魔法小学校のときから、声が小さいといつも怒られた。他の人に聴こえなくても魔法は発現する、これから打つ魔法の種類を敵に教えない方がよい、という主張は教師には受け入れられなかった。
「もっとはっきりと」
「大きな声で」
「クラスのみんなに聞こえるように」
そんな言葉を投げかけられる度に、私は少しずつ縮こまっていった。ちゃんと呪文を覚えているか、はっきりと淀みなく唱えられるか、というのが彼らの価値観だった。だが私には、それが意味不明だった。戦場で敵に詠唱内容を聞かせる必要があるのだろうか。むしろ、声を潜めることにこそ意味があるはずだ。
「……ファイアーボール」
ボソボソと呪文を唱え終わると、杖の先に静かな炎の玉が現れる。直径はわずか十センチほど。その周りの空気は熱気で向こう側が少し歪んで見える。煤の粒子が夕陽に照らされ、まるで金の粉のようにきらめく。火球は焦げ臭い香りを残し、人魂のようにすーっと敵へと飛行を始めた。
隣の僧侶ルカが声を上げる。白衣の袖を翻し、いつもの誇らしげな態度で言う。
「えっ? そんなしょぼい初級魔法……」
彼は回復の腕前は確かだが、他人の魔法を批評するくせがある。きっと魔法学校でも、先生お気に入りの優等生だったのだろう。
地味で小さな火の玉が、トロールの膝に命中した。巨体のモンスターは棍棒を取り落とし、脚を抱えた。程々の威力で関節を狙い撃てば、ほとんどの敵の動きを止めることができる。これは魔法とは関係がない話だ。生物の重心と可動範囲を考えれば、最小の力で最大の効果を得られる箇所は自ずと決まってくる。飛び道具や魔法を使う敵なら、腕や口を狙う。理屈は簡単だ。なのに。
「よしっ!」
戦士ヴァレンが斧で殴りに行く。彼の大振りの攻撃は、いつも無駄が多い。でも、その豪快な戦い方で、他の冒険者の信頼を得ているようだ。刃が空を切る音が鋭く響く。二回目の攻撃でトロールが地響きと共に地面に倒れると、勇者タリオンがとどめを刺した。血飛沫が夕陽に輝き、一瞬だけ美しく見えた。
「やったな!」
「すごいぞ、ヴァレン」
戦士と勇者が称え合う。そして僧侶が負傷を治癒する。白い光が傷口を包み込み、肉が再生していく。
「ありがとう、助かった」
勇者からは僧侶にも温かい言葉が掛けられる。しかし、私への言葉はない。
なぜなら、私が与えたダメージが小さいからだ。ギルドは冒険者の貢献度を、与えたダメージの大きさ、受けたダメージの大きさ、回復させた体力の大きさなど、数値化できるもので評価する。瀕死の重症を負うような戦闘は高く評価される。そして、測定できないものは存在しないという価値観。確かマクナマラの誤謬というのだったか。
冒険者の誰もが、派手な魔法への憧れを持っている。大きな爆発、天を揺るがす雷撃、広範囲を凍てつかせる氷結術。それらは確かに美しい。でも、私にはその美しさを追求する余裕がない。子供の頃から体が弱く、大きな魔法を使えば一日動けなくなってしまう。一度、学校の実技試験で大魔法を放って倒れたことがある。保健室のベッドで天井を見つめながら、私は自分の限界を悟った。
とにかく、効率的に、安全に戦闘を終えたい。それが私の願いだった。
夕陽が地平線に沈もうとしている。空の色が徐々に変わっていく。オレンジから紫へ。そして、やがて深い藍色へ。この世界の色が、少しずつ失われていくように見えた。道端の花々からは、一匹の蜂が飛び立つ。夕暮れの中、最後の蜜を求めて花から花へと忙しなく飛び回る姿が目に留まる。誰にも気づかれず、ただ黙々と自分の仕事をこなしている。その姿に、どこか自分を重ねているような気がした。
***
「マヤ、起きてるか?」
扉を叩く音に、私は目を開けた。リーダーのタリオンが部屋までわざわざ来ている。
「実は、パーティの件で相談がある」
彼は言葉を選ぶように間を置く。
「これまでの君の貢献には感謝している。でも、これからはもっと……その、違った戦いが必要なんだ」
テーブルの上に小銭の入った袋が置かれる。これまでの報酬として、日数分の日当だけ。それは、私への評価を如実に物語っていた。話を明日にしなかったのもそのためか。
「新しい魔法使いが見つかったんだ。君は、少し休んだ方がいいんじゃないか?」
返事を待たずに部屋を出ていく足音。その直後から、階下の酒場から情熱的な声が聞こえ始めた。「バーン!」「ドカーン!」という擬音と共に響く笑い声。まるで、私という存在が消えゆく音のようだった。後任は若く元気な熱血魔法使いらしい。王都についた私が疲れ果てて、早々に宿屋の部屋に引きこもった後、酒場で飲んでいたメンバーと意気投合したのだろう。
おそらく、彼ははっきりゆっくりと長大な呪文を唱えるのだろう。その間、前衛は大きなダメージを受ける。でも、それはまた僧侶による回復余地も大きいということだ。大ダメージを受けて回復する。彼らはギルドに苦しい戦いであったと報告でき、ギルドは依頼者に予想以上に困難なクエストであったと報告し、依頼者は冒険者とギルドに深く感謝する。その繰り返しで彼らは「冒険」という物語を紡いでいく。誰もが幸せになれる。私のような効率重視の戦術など、この世界には必要ないのだ。
夜風が窓を叩く音に、我に返る。部屋の鏡に映る自分の姿。ひと目で魔法使いだと分かる衣装。ひらひらとした古臭くてカビが生えたようなデザイン。暗い部屋の中で、その姿は影絵のように不自然に見える。動くたびにカサカサと音を立てる布地。戦闘時の素早い動作を妨げるだけの装飾。動きにくい服を着ることが、なぜ「魔法使いの誇り」とされているのだろう。
その上に、魔法使いをあらわす装飾のついた重く長いローブ。それを羽織ることが「正しい」姿だとされている。学校でも、ギルドでも、そう教えられてきた。でも、本当にそうなのだろうか。
戦士たちが鎧にこだわるのは理解できる。敏捷性と防御力のトレードオフは永遠の課題なのだろう。鎧の重さと守りたいものの重さ。その天秤の上で、彼らは常に揺れ動いている。だが、魔法使いの薄っぺらな衣装はどうだろう。「伝統的な装い」という名の下に、実用性を無視した衣装を押しつけられる。
そういえば、過去に所属していたパーティでは、胸元が開いたミニスカートのヴィジュアル系衣装を指定された。チャーム系魔法の効果を増幅すると言われていたが、戦闘中に魅了されてしまうようなザコ敵は、普通に攻撃魔法で倒したほうが早い。それに、魔法が効かないと、自分自身が否定されているような気持ちになるのは辛かった。ビキニアーマーの戦士にいつまでも大人になりきれない薄い身体を凝視され、「あなたの魔法が効かないのは……」と言われたときの屈辱感は、今でも心に残っている。それに、いくら軽くても、夏暑く冬寒い、着ているだけで体力を消耗してしまうあのスタイルは、私の体には合わない。
部屋の隅に置いた魔法使いの杖が、月明かりを受けて淡く光る。それは私のアイデンティティの象徴であり、同時に呪縛でもあった。もう、しばらく冒険に出るのはよそう。
服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわる。私の体は、ようやく解放された気がした。天井の模様が、ぼんやりと目に入る。古い宿屋の天井には、無数の亀裂が走っている。その一つ一つが、私の中の何かを映し出しているようだった。
***
夢を見た。
魔法大学を卒業し、王国軍に就職して間もない頃、隣国との戦争に参加したときの記憶だ。
戦場に立つ人々は、どこか演劇の舞台に立つ役者のようだった。朝靄に包まれた草原で、彼らは所在なげに立ち尽くす。やがて日が昇り始めると、まるで決められた台本通りに動き出す。私だけが、その台本を渡されていない。
「我が名は第三騎士団、グレイブ・ストームブレイド!」
「貴様らを剣の錆にしてくれる!」
「焼き払ってやる!」
豪語が飛び交う中、私は陣地の後方に佇んでいた。こういう時は、叫んだり、名乗りを上げたりするものなのだろうか。そういえば、先週も、黙っていたせいで場の空気を壊した気がする。
「戦場での名乗りには意味があるのだ」
渋い声で言う上官の襟元には、輝かしい勲章が幾つも付いている。その輝きが、私の存在の薄さを際立たせる。
「己の存在を示し、敵の注意を引きつける。そうして歴史に名を残す。それが我々の誇りというものだ。昇進にも響くのだぞ」
上官の言っていたことは理解できる。部下の手柄は上官の手柄でもある。彼としては自部隊の戦果を取りこぼしたくはないだろう。でも、私には己の存在を示す勇気すらない。虚弱な私は、一撃でも攻撃を浴びれば死んでしまう。そんな舞台は上昇志向のある誰かに任せ、ただ、早く帰りたい。今日は、ここまで歩いてくるだけでも、相当に疲れた。
新人研修中の私には、魔法攻撃部隊の補助という役割が与えられている。まずは先輩たちの戦いぶりを学び、レポートにするようにと指示されていた。
冷たい朝靄の中、鎧の音が響いてくる。草を踏む音。金属の軋む音。それらが混ざり合って、奇妙な交響曲のように聞こえた。一瞬の静けさの後、前方で味方の指揮官が剣を抜き、高く天を指し、そして、大仰な動作で敵部隊を指し示す。
「突撃!」
前列で構えていた味方の戦士たちが鬨の声を上げる。まずは戦士が敵と切り結び、後方の魔法詠唱の時間を稼ぐ計画だ。
周囲では、味方の魔法使いたちが長大な詠唱を続けている。
「灼熱なる太陽の光よ、我が魂に宿りて……」
「天空を裂きし雷霆の力、いま解き放ち……」
巨大な魔法陣が、ゆっくりと回転しながら形を成している。
陣地後方から、地響きがする気がした。振り向くと、そこには――敵の騎馬隊が迫っていた。森を抜けて迂回してきた別働隊だろう。魔法部隊がターゲットなのは間違いない。
「戦場では詠唱の邪魔だけは決してするな、これは部隊全員の生命に関わる」
目を瞑り、呪文を唱え続けている上官からはそう厳命されていた。ただ、犠牲が出ても敵本隊への攻撃を優先するべきなのか、それとも計画は破綻しているとみなすのか。判断がつかなかった。私に判断できるはずもない。こんな重要な決定を、補助要員の私が下してよいわけがない。でも――。
ひとり木陰に身を隠した私は、静かに呪文を放った。
「……沈黙の印よ」
小さな呪文が、陣頭に立つ敵指揮官の喉元を直撃する。集団戦なのだから、指揮系統を奪うのが第一だ。本来は敵の魔法を封じるための呪文だが、声が出せなくなれば指示も出せない。魔法耐性を持たない戦士には確実に効く。
敵指揮官の口が動くものの、声は出ない。突然の指揮系統の喪失に、敵の部隊は混乱する。攻撃できずいつまでも走り続けるしかない彼ら。狭い空間で旋回できず隊列を乱して激突、落馬、自滅。馬の嘶きと、鎧の軋む音が交錯する。森の際まで後退した私の目には、まるで人形劇のように見えた。操り糸を切られた人形たちが、ばらばらと倒れていく。
これが私にできる戦い方だった。でも、それは「正しい」戦い方とは言えない。英雄譚に相応しい戦いではない。
味方の戦士たちと切り結ぶこともなく、混乱した敵兵の多くは、あっけなく倒れていった。そして、敵本隊は見かけだけの囮だった。魔法部隊の大魔法は空振り。前方から戻ってきた戦士たちによって、残っていた敵別働隊との戦闘は、あっけなく終わる。しかし、それは真の終わりではなかった。
白衣の僧侶たちが、倒れた敵兵たちの間を歩き始める。
「治癒の光よ」
「命の息吹を」
「傷を癒やせ」
次々と回復魔法が放たれ、敵兵たちが立ち上がっていく。そして――。
「我が剣の冴えを見よ!」
「炎よ、轟けっ!」
「必殺、灼熱地獄砲!」
戦士たちが再び剣を振るい、魔法使いたちが魔法を放つ。敵は派手に吹き飛び、また回復され、また倒される。治癒魔法の光が瞬く度に、戦果は積み上げられていく。歴史に名を残すには、派手な技で、大きなダメージを与えなければならない。そのためには敵を生かし続ける必要もある。これだけの大部隊を動員した成果が、小さくてはならないのだ。
草原に朝日が差し込み、露に濡れた鎧が虹色に輝く。倒れては起き上がる敵兵たちの呻き声。戦果を競い合う味方たちの声。白い霧の向こうで、誰かが新たな呪文の詠唱を始める。私は、戦場という舞台の片隅で、ため息をついていた。
私の目には、この戦場が茶番劇にしか見えない。でも、それを指摘できる立場にはない。むしろ、私こそが、この舞台の調和を乱す異物なのだ。
命令には違反していない。魔法攻撃部隊の補助という役割を、護衛の形で果たしたとも言える。そう、そこまではよかった。私は「レポートにするように」という指示も守ったが……それが、いささか、詳細すぎた。
上官のさらに上官、ウルリックの表情が、今でも忘れられない。彼の執務室。ぎらりと光る勲章の下で、彼は私のレポートを手に取った。
「これは、面白い分析だ」
意外な言葉に、私は顔を上げた。
「彼我の戦力配置、自軍の正当戦術に対する敵軍の迂回戦術の有効性。我が軍の内情も手に取るように分かる。予想外の回復魔法の利用法まで含めて」
その声は、妙に静かだった。
「だが、もし敵国のスパイが、このレポートを手に入れたらどうなると思う?」
「!」
部屋が、急に冷たくなった。背筋を伝う悪寒。これは、名誉を重んじる軍人たちにとって、もっとも知られたくない内容だ。
「裏切り者めっ!」
***
目が覚めた。
暗い宿屋の天井。また同じ夢を見ていた。いや、記憶だ。
私は前線から外され、軍の図書館の資料整理へと異動になった。戦術書や作戦記録の分類が主な仕事。そこには、先輩たちが新人研修で書いたレポートも保管されていた。味方への尊敬と称賛、敵への憎悪と軽蔑。自軍の強さと名誉を綴る、それが「レポート」だった。
酷く疲れているのに、どうやら、今夜はもう眠れそうにない。こんな夢を見るたびに、私は考えてしまう。あの時、もし違う書き方をしていれば。もし、みんなが望むような「正しい」レポートを書いていれば。
窓の外では雨が降り続いていた。その音が、まるで誰かの嘲笑のように聞こえた。窓辺の軒下には小さな蜂の巣があり、雨を避けた蜂たちが身を寄せ合っている。彼らには彼らの、私には私の居場所があるのだろうか。
***
朝靄の立ち込める通りを、私は歩いていた。昨夜の雨で路面には水たまりが点在し、足元に映る空は鈍色に濁っている。ギルドの建物が見えてきた。かつて希望を抱いて訪れた場所。図書館での仕事を辞め、冒険者になると決めた日のことを思い出す。
ギルドホールに入ると、いつもと変わらない喧騒が広がっている。朝一番から酒を飲む者、武器の手入れをする者、仲間を待つ者。そして、壁一面に貼られた依頼書の前で、次の仕事を探す者たち。
掲示板の前に立つ。目の高さにある依頼は、文字が滲んで見えた。どれも、私には向いていないような気がする。
「魔物討伐、報酬○○」
派手な戦闘が求められるに違いない。
「護衛依頼、報酬△△」
道中での戦術とパーティの連携が必要だろう。
「洞窟探索、報酬□□」
未知の敵との遭遇戦か。
窓から差し込む光が、掲示板に斜めに落ちている。文字の影が、紙の上で歪む。図書館での日々が、不意に蘇る。誰もが避ける古い戦術書の整理。そこには、意外な発見があった。
『五大元素の相互作用に関する考察』という古い論文があった。火、水、風、土、雷。それらの組み合わせによって、予想外の効果が生まれることがある。古の魔法使いの残した、研究の成果だ。
元素の組み合わせは、必ずしも力の足し算ではない。時には、掛け算のような相乗効果を生むこともある。だが、その地味な研究は時代と共に忘れ去られていった。一つの魔法を極限まで強化する方向に、魔道は発展した。派手で強力な魔法が使えることが、魔法使いのステータスであり、求人でも有利なのだ。
順番を待つ冒険者たちの列が、受付カウンターまで続いている。彼らの装備は、どれも立派だ。見栄えのする武器、綺麗な防具。剣の柄に装飾があっても、攻撃力は変わらない。防具を磨き込んでも、防御力は変わらない。だが、ギルドは冒険者の社交場であり、互いの値踏みの場であり、面接会場でもある。今の私の安物の杖と装飾の剥げたローブは、明らかに場違いな気がする。
ローブの装飾は、魔法使いの格をあらわす。魔法が使えれば誰でも「魔法使い」だが、国家資格としての「魔道士」というものもある。魔法の知識が深く問われる難関資格だ。実務経験豊かな魔法使いが、文字通り箔をつけるために取得する。魔道士の装飾をつけている魔法使いは、確かな実力の持ち主として人々から一目置かれるのだ。
軍に所属する魔法使いは、人材育成の一環として魔道士資格を受験することが義務付けられている。そして私は、図書館業務で身についた知識で、実力以上の肩書きを得てしまった。この試験には、実技がない。
「マヤ? あの役立たずが合格? しかも上級だと?」
「そりゃ、安全なところで試験勉強ばかりしてりゃ受かるよな」
そんな声が聞こえてきた。合格後、図書館の上司にもなぜか最低の勤務評価をつけられ、居づらくなって軍を辞めたのだった。
本の整理をしていただけなのに、王国軍出身の上級魔道士、と言うととんでもない実力者と勘違いされてしまう。だから、纏う者の出自を曖昧にするボロボロのローブが、私にはふさわしい。
空腹を感じ始めていた。朝食を摂るべきだったか。でも、宿の食堂は、あの新入りの魔法使いたちがいるかもしれない。
依頼を選ぶフリをしながら、私はただそこに立ち尽くしていた。掲示板の隅の、王国軍の退役軍人の受け入れを告知する張り紙が目に入る。最近、上層部の粛清があったとかで、街に流れ着く者も多いらしい。
一枚の紙が目に留まる。
「家庭教師募集──魔法使い。ただし、ギルドランクC以上であること」
他の派手な依頼書の間で、その一枚だけが妙に控えめに見える。羊皮紙の端が少し変色していて、インクの具合から、少し前に書かれたものだと分かる。図書館で古文書を扱っていた頃に会得した、年代特定の知識だ。
家庭教師など、普通の魔法使いは興味を持たないだろう。だが、安全だし報酬もそう悪くはない。よさそうだ。私は掲示板から目を離し、受付に向かっていた。ギルドランクの昇格試験の申し込み用紙に記入を始める。実技試験だが、Cランクならなんとかなるかも知れない。羽ペンが僅かに震えている。
「試験は受験者同士の模擬戦になります。試験日は、他に同じランクへの昇格試験の受験希望者が現れ次第、決定されます」
受験票を受け取る。羊皮紙のインクの染み。まるで、空から墨を落としたような形。そういえば、昨日の夕暮れの空も──。
「おい、見ろよ」
囁き声に、意識が現実に引き戻される。ギルドの入り口に、一人の男が立っていた。灰色に変わり始めた髪。屈強な戦士の装い。ウルリック・フォン・グレイブルック。かつての軍の司令官だ。
「あの人が何でここに?」
「知らないのか? 派閥争いで追い出されたらしいぜ」
「戦果を水増ししてたってな」
「証拠が残ってたんだとよ」
周囲の噂が耳に入る。体が強張る。証拠──きっと、私が提出したレポートだ。
「新規登録は、全員Dランクからです」
受付嬢の声が響く。
「なにぃ? 冗談じゃない!」
ウルリックの声が、怒りを帯びている。あわててギルドの規則を説明する責任者の声も聞こえる。そして──。
「ならば今すぐに昇格試験を受けさせろ!」
***
「Cランク昇格試験をはじめる」
審査員の声が、闘技場に響く。私の視線は、石畳の床の模様を追っている。六角形が規則正しく並び、光を受けて微かな凹凸を作る。
「受験者は所定の場所へ」
顔を上げると、対面に立つウルリックと目が合う。彼の目が見開かれる。
「お前か……!」
審査員が号令をかける。
「始め!」
「……まさか、こんな小汚い場所で貴様と戦うことになろうとはな」
憎悪の籠もった声。ウルリックの目が、獲物を狙う猛禽のように光っていた。審査員が減衰の魔法を両者に掛ける中、観客席でざわめきが起こる。
「あのウルリックの怪力だぞ。減衰があっても、まともに食らえば即死じゃないか」
「あんな殺気、普通の昇格試験じゃありえない」
「審査員、なんとかしろよ」
審査員たちの顔が青ざめていく。――開始後に試験を中断することはできない。実戦で戦闘不能相当となるダメージを与えたと判定されたとき、勝者が決定する――。そう受験票の注意事項に書かれていた。羊皮紙の文字が鮮明に思い出される。
「貴様のせいで全てを失った。このままでは済まさんぞ!」
戦斧の形を取った殺意が襲いかかってくる。観客から悲鳴が上がった。ローブの端が千切れ、風を切る音が耳元で響く。冷たい風。昨日も、こんな風が吹いていたっけ。木々が揺れて、影が地面で踊るように──。
「何をボーっとしている! すぐには仕留めん。じっくりと痛めつけてやる」
減衰魔法があっても、彼が力を込めれば一撃で致命傷になるだろう。僧侶たちが控えているとはいえ、回復魔法は治癒を早めるだけ。腕を落とされたら、二度とくっつかない。即死の場合はどうしようもない。
「お前のような格下と戦わねばならぬこと自体が屈辱だ」
そうだ。これは戦いだ。
戦い――。図書館の本にはこう書かれていた。相互に敵対する二つの勢力による暴力の相互作用であると。そうだ。暴力なんだ。
小さく呟く。「流れよ、水の矢」
放たれた魔法は、ウルリックの胸に命中する。しかし減衰魔法の結界の中、それはまるで水風船が割れたような効果しかない。
「こんな程度か! お前は軍にいた時から、いつもこうだった」
嘲笑う声。濡れた戦斧が光を受け、不思議な模様を描いていた。まるで、図書館で見た古文書の装飾のように。
「全然勝負にならない」
「あの魔法使い……なぶり殺しになるぞ……」
「かわいそうに」
観客の声。
提案、推薦、説得、命令、そして暴力。提案から命令までは、言葉の力。だけど、暴力は違う。自分の意志を相手に強制するための最後の手段。
長い詠唱を始める。誰にも聞こえないほどの、小さな声で。
「何をブツブツ言っている! 言いたいことがあるなら、はっきりと言え!」
戦斧が眼前に突きつけられる。
魔法の詠唱は、言葉なのか、それとも暴力か。
「お前のような臆病者が、私の栄光ある軍歴を台無しにしたのだ」
柄で脚を殴られる。激痛を覚え、地面に倒れ込む。
まずはお互いに名乗りを上げ、一般兵士やザコが先、司令官やボスは後という「正しい」順序での戦闘。それによって成し遂げられた彼の軍歴。彼は今日も、魔法使いに対して「正しい」戦いをしている。
砂の味。だが、動けなくても、立てなくても、まだやれることはある。詠唱に意識が集中していく。ウルリックの罵り、観客の声、風の音、鼓動。それらが遠のいていく。まるで図書館で本を読んでいた頃のようだ。外の世界は遠ざかり、文字の海に沈んでいく感覚──。
「何をコソコソと。トドメだ!」
振り上げられた斧。その時、詠唱が終わる。
「轟け、雷鳴の裁き」
大きな光が走る。
水に濡れた戦斧と鎧を通じて、雷撃がウルリックの全身を貫く。痙攣し、崩れ落ちる様は、夕暮れに散る花びらのようだった。
そして自らの視界も霞み、意識が遠のいていった──。
***
「まさか、Cランク昇格試験でこんな大魔法が出るとは……」
審査員たちの会話が流れていく。
「水で濡らしてから雷撃──。地味だが効果的だ」
「あれは古い戦法だ。今は使う者もいない」
「ウルリックは判定を無視して動き続けた可能性がある。心臓マヒなら動きを止められると……よく考えたものだ」
「しかし、減衰しても効果が残るほどの大魔法を……」
夢うつつにそんな言葉を耳にした気がした。幻覚だったかもしれない。
意識が戻ると、病室の天井が見えた。
「ああ、気が付きましたか」
ギルドの僧侶によると、私の魔力は完全に枯渇し、生命力まで魔法のために消費していたそうだ。治癒を早める回復魔法に耐えられる体力もないので、しばらく入院することになった。
ウルリックは、その場ですぐに心蘇生したそうだ。
模擬戦の結果は引き分け。ただし、特例として両者ともCランクへの昇格は認められた。
***
窓の外では、季節が少しずつ移ろっていく。ここへ来た時には若葉だった木々が、今では濃い緑に変わっている。体は徐々に回復してきたが、魔力の戻りは遅い。
病室の窓辺には、小さな鉢植えが置かれていた。茎を伸ばしきった花が、一輪だけ咲いている。もう、散りそうだ。蕾は二つほど残っているが、今咲いている花は明日には散ってしまうだろう。
「お薬の時間です」
看護師が持ってきた水薬を飲む。スプーンに注がれた液体が、一滴こぼれ落ちた。シーツの上で、小さな染みになる。あの時の水の魔法のように。あれは、本当に小さな水滴だった。
ウルリックへの攻撃は、まさに私が殺されようとする瞬間だった。その時、自分は本当に生きる覚悟があったのだろうか。それとも、死ぬ覚悟だったのか。もしかしたら、古文書の知識を試したかっただけなのかもしれない。
枕元で蜂が羽音を立てている。窓から迷い込んだのだろう。看護師が追い払おうとするが、私は制止した。攻撃しなければ刺すことはない。蜂は、まるで何かを探すように部屋の中を飛び回った後、突然、力尽きたように床に落ちる。
死にゆく蜂を見つめながら、ウルリックの痙攣する姿を思い出す。あの時、彼も死んでいたのかもしれない。蘇生魔法で生き返ったとはいえ、一度は死の淵を見たはずだ。そして私も、魔力を使い果たし、意識を失った。生と死の境界は、思ったよりも曖昧なのかもしれない。
窓の外では、風に揺られた花びらが舞い散る。今を生きる存在が、次の瞬間には過去のものとなる。蜂の死骸を、そっと窓の外に置く。小さな生き物が、自分なりの方法で懸命に生きて、そして力尽きる。その姿に、不思議な親しみを感じた。
***
ひと月後。自分への退院祝いを兼ね、ローブを新調した。安物だが「上級魔道士」を示す装飾もついている。古いローブは、丁寧に畳んでクローゼットの奥にしまった。
ギルドで、家庭教師の募集の貼り紙を剥がし、受付へと向かう。今はCランク魔法使い。募集条件はクリアしている。上級魔道士なら先生向きと思ってくれるかもしれない。安全だし、体力がなくても務まりそう。それに……。
受付嬢が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、この依頼なんですが……手違いがありまして……」
去年の魔法学校の入試対策のためだったらしい。応募者がなく、既に取り下げられていたそうだ。
なぜか、安堵感が広がる。そう世の中うまくいかないよな、と納得する。
礼を言って窓口を去ろうとすると、彼女の小さな声。
「マヤさん……私、あの昇格試験、見てました」
ウルリックが最初から全力だったら、私はもうこの世にいない。
「Cランク昇格おめでとうございます」
彼に油断があり、私の捨て身の魔法が、たまたま上手くいっただけのこと。
「格好良かったです」
戦いぶりだって、いいように遊ばれて、ボロボロの服がもっとボロボロになって、地面に転がされて。
「その、うまく言えないんですけど……」
詠唱が間に合ったからよかったようなものの、もう一度やったら、絶対に勝てないだろう。
「これからも頑張ってください」
生と死の境界は、やはり曖昧だ。あの戦いで私は死んでいたかもしれない。病室の蜂は死に、花は散ったが、それでも私は生きている。
図書館で古文書を整理していた日々は過去のものとなった。でも、そこで学んだ水と雷の二段戦法は私の中で生き続けている。だからこそ、あのウルリックと渡り合えた。そして今、目の前には他人同然の私に、こうして声を掛けて励ましてくれる人がいる。
「ありがとう」
彼女にもう一度、今度は心を込めて礼を言った。
ギルドを出ると、朝の空気が肌に心地よい。街は活気に満ちていた。露店で果物を売る商人、石畳を走る子供たち、荷車を引く労働者。誰もが自分なりの方法で生きている。
そうだ。私は戦士のように力強くもなく、「正しい」魔法も使えない。でも、そういう魔法使いなのだ。あの病室の蜂のように、一瞬一瞬を精一杯生きていこう。
朝日が街並みを照らし、新しい一日が始まっていく。