8諦め
「どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるのですか?ご主人になんと申し開きをしたらいいか」
荀は黙々と書物を読み続けている凛に突っ掛かる。
「大丈夫。死ぬのは私一人よ。あなたと、角家には迷惑をかけないようにするから」
「当然です!」
凛が謹慎処分を受けて部屋に閉じこもってから、荀の情緒は乱れっぱなしで、女官という立場も忘れたように凛を叱り飛ばすことが多くなった。
それを見かねて、陽が彼女を連れ出したりするのだが、この時間二人は部屋を外している。だから、荀は自身の不安を発散させるように凛に向かって怒鳴りつける。
冬殿には人が寄り付かなくなってしまったので、怒鳴り声を聞くものはいない。
それもあって荀は感情を爆発させることが多くなっていた。
感情的な怒鳴り声、女性のものであれば、凛は聞き流すことができた。後宮に入ってから毎日のように聞かされた嫌味、キーキーという叫び声、それらを彼女は無視してきた。
怖いのは角家の主人の怒鳴り声と鞭だった。
(明日は約束の三日目。翠も陽も頑張ってくれているみたいだけど)
二人が忙しくしているのを凛は知っている。
けれども彼女自身はすでに諦めていた。
(旦那様はきっと私との関わりを断つだろう。だから、死ぬまでもう二度と会うこともない)
それは凛にとって喜ばしいことだった。
例え明日死罪と言われても。
「荀様。夕餉の時間でございます」
扉越しに陽の声が聞こえると、荀は口を閉ざした。
くるりと扉の方を向き、高い声を上げる。
「ご苦労。私の食事もあるのかしら」
「もちろんです。凛様の夕餉は翠が、荀様の食事は私が用意させていただきました」
「それは嬉しいわ。凛様。それでは私はこれで」
荀はまるで別人のように微笑みと、頭を下げ部屋を出ていく。
入れ替わりに翠が夕餉が乗った膳を持って入ってきた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
以前は角家の主人を気にして、四妃らしく尊大に振る舞っていたが、死期が見えてきた今、凛は仮面をかぶるのをやめていた。
「さあ、今日は凛様の大好きな杏仁豆腐が付いてますよ」
「美味しそうね」
戯けてみせる翠に凛は笑顔で答える。
それを見て翠が悲しそうな顔をしたのだが、彼女は気がつかないふりをして食べ始めた。
謹慎処分の凛に対して、食事等は以前と変わらぬ豪華なまま。これは皇后が命じたもので、他の四妃は皇后の命に逆らうことは皇帝の怒りに触れるとわかっているため、抗議するものはいなかった。そのほかにも皇后から細かな命令が出ていて、冬殿を出ることはできないが、待遇は変わらなかった。
「この蒸し餃子も美味しいわ。海老がぷりぷりしてる」
凛は謹慎になってから、食事を楽しめるようになっていた。角家の養子になり、後宮に入り、食事がどんどん豪華になっていった。けれども凛はその美味しさを味わうことができていなかった。どんなに美味しいものを口にしても、味を感じることができなかったからだ。けれども、こうして冬殿に閉じ込められ、角家の主人と会うことも二度とないと思い始めてから、食事を楽しめるようになっていた。
「翠。私は大丈夫よ。もう無理して証拠を探さなくても良いから」
「凛様!諦めないでください。陽や私が必ず証拠を見つけ出しますから」
「本当にいいの。寧ろもう何もしなくてもいいわ。このまま私は終わらせたい」
「凛様。そんなこと、どうして」
「……疲れてしまったの」
(そう。もう終わらせてしまいたい。今回助かっても、私は冬殿の妃のまま。皇帝陛下のお子を孕む努力をし続けなければならない。角家の旦那様のために。そうでないと、鞭で打たれてるわ)
「凛様?」
鞭で打たれた衝撃、痛みを思い出し、体を震わしていると、翠が気遣わしげに名を呼ぶ。
「なんでもないわ。気にしないで。お茶のおかわりをいただける?」
「はい」
翠の訝しげな視線を交わして、凛は茶杯を差し出した。
(明日、私は楽になる。この生活から解放されて。もう誰に怯えることもなく、誰に媚びることもない……)
「凛様」
名を呼ばれ、顔を上げると陽が部屋に入ってきていた。
「陽。無礼よ」
「失礼いたしました」
陽の髪色は、四年前にあった雪の精と同じ。銀色だった。
(美しい人。私が拾ったあの人。雪のように溶けて消えてしまったのかしら)
「公明」
「凛様?」
陽と翠に同時に名を呼ばれ、凛は我に返った。
「考え事をしていたわ。ごめんなさい。陽、何か用かしら?」
「翠を少しの間お借りしてもいいでしょうか?」
「勿論よ」
「陽」
「大事な用なのです」
不服そうな翠に陽が畳み掛け、彼女は仕方なく了承したようだ。夕餉を片付け、部屋を退出する。
(本当、面白い二人。仲がいいわ)
女性と男性機能を失った宦官しかいない後宮。
女性同士で仲が良すぎる女官を見ることも珍しくない。通常は宦官に熱を上げる方が多いけれども。
(罪は私だけに。二人に、紫国にまで罪が及ばない様にしなければ)
荀が不在の場合、二人と他愛のない話をすることもあり、紫国の話もよく聞いた。噂と異なり、蛮族ではないと知り、その生活様式を教えてもらい、興味を持った。
さまざまな髪色の民がいて、陽の様な白銀の髪の民も一部いるとか。
(……公明が人であれば、きっと紫国から来た人だったのね。人であればだけど)
彼と過ごしたのは一週間ほどの短い期間。
けれども凛の人生の中で一番輝いていた頃だった。
華やかを上げれば後宮生活がそれだ。けれども、彼女は心を偽り、皇帝の娼妓として暮らしてきた。心穏やかであるはずがない。
「あの頃に戻りたい」
叶わぬ思いであるが、そう願わずにいられなかった。