6疑惑
角家の主人に返信を出した翌日に、その事件が起きた。
凛が昼餉を終わらせ、部屋で寛いでいると幾つもの足音が冬殿に鳴り響く。
「美凛様。ご同行をお願いできますか?」
宦官たちは前触れもなく、扉を開けそう言い放った。
「無礼な。冬殿の主をなんと考えているのですか?」
「皇帝陛下の命により、美凛様をお迎えに上がりました。ご同行願います」
「こ、皇帝陛下の命ですと?」
宦官たちの顔は冷たいもので、それが荀を落ち着かなくさせているようだった。
凛は内心動揺しながらも、落ち着いた様子で構えている。
「わかったわ。参りましょう。けれども皇帝陛下の御前に上がるのです。衣装を召し替えをする時間を与えてくれるかしら?」
「申し訳ありませんが、早急に来ていただけますか?」
「な、なんですと」
荀は顔から血の気が引いており、体も幾分か震えている。
「仕方ないわね。陽に翠、長衣を選んでもらえるかしら」
今の荀は頼りにならないので、凛は二人を呼ぶ。
「私が選びます。陽は荀様についていただいたほうが」
「そうね。翠、お願いするわ」
動揺する荀を陽に任せ、凛は翠が選んだ長衣を纏う。
「このような長衣あったかしら?」
「ありましたよ。美しい水色ですね」
「そうね」
公明の瞳の色によく似た色の長衣で、凛は少しだけ嬉しくなる。
(何かが起きたから私を呼ぶのね。どこかの妃がまたおかしな企みをしたのかしら。それもいいわ。旦那様に怯えて暮らすのはもう十分よ)
諦めの境地で、凛は宦官の後について、冬殿を後にした。
凛に同行するのは、翠だけだ。
荀は動揺が激しく、陽に預けるようにして冬殿に置いてきた。
回廊を足早に歩く宦官の後ろを、彼女は遅れない様に着いていく。
すれ違う女官達は道を譲り、首を垂れるが、その直前意味ありげな笑みを浮かべる者が数人いた。
凛は自身が後宮内で成り上がり者と蔑まれているのを知っている。女官への態度も舐められないように横柄だったため、嫌われていることも知っている。
なので女官達の視線に納得しながら、宦官の背中に目を向けた。
(本当に、もう十分だわ。十分)
後宮に入って僅か一年と少し、けれども凛の心は疲弊していた。そもそも、角家の養女になったあの日から、彼女の心は削られ始めたのだ。
怯えることもなく、彼女は真っ直ぐと前を向き、足を進めた。
「皇帝陛下。冬殿の美凛様を連れてまいりました」
「ご苦労。下がってよいぞ」
皇帝黒龍が執務を行う書殿に到着し、宦官が扉の奥へ伺いを立てる。直ぐに黒龍から返答があり、扉が開かれた。
宦官は皇帝に首を垂れると、書殿から退室する。
部屋に残されたのは、黒龍その人、彼の護衛を務める武人の宦官二人。凛と翠だけになった。
(皇帝陛下だけ?四妃の誰かが待ち構えていると思ったのだけど)
妃たちの煩わしい囀りを聞くのも面倒だったので、これは幸いと凛は平伏して、皇帝から声を掛けられるのを待った。
「美凛。涼葉が毒入りの菓子を食べて倒れた。なんでもそちから送られた菓子だったとか」
皇帝黒龍は、その黒い眼に感情を乗せることなく、淡々と凛に状況を伝える。
涼葉とは四妃の一人、春殿の主で、凛を目の敵にしている。同期で時折嫌味を言う蘭はその涼葉の女官だ。
(そういうことね)
凛は驚かなかった。
後宮ではよくあることだったからだ。
毒入りのお茶、お菓子。凛の先代の春殿の主、花梨は病死扱いになっているが、凛は毒殺だと疑っている。
荀を連れてくるべきだったかと一瞬彼女は考えた。
けれども、鞭をもった角家の主人の姿を思い起こし、覚悟を決めた。
(もういいわ。妃への毒殺未遂は、死罪。もうこんな人生は終わらせたい。旦那様に怯えて、娼妓のように媚をうる生活。張りたくもない虚勢をはり、傲慢に振る舞う日々。もう十分)
顔を上げる許可はもらっていない。
しかし、凛は心を決めた。
そうして顔を上げて答えようとしたのだが、それより早く後方から声が上がった。
「僭越ながら、皇帝陛下に申し上げたいことがあります」
それは凛の後ろに控えていたはずの翠だった。
皇帝の護衛たちが女官如きが声を上げたことに不満を表す。
その憤怒の表情に対して、皇帝は唇の端を持ち上げ、楽しげに微笑んだ。
「ほう、そちは紫国からの女官だな。この我の許可なしに声を上げるとは度胸がある。それとも単に礼儀を知らないだけか」
「大変申し訳ありません。皇帝陛下。翠はまだ帝国の礼儀を十分に弁えておらず、私の不徳とするところ。お許しを」
紫国の女官はこの件は関係ない。
凛は自分が罪を認めて、この件を終わらせようとしていた。だからこそ口を挟んだ翠に驚きしかなかった。けれども彼女たちと過ごしたこの数週間はとても楽しく、凛は二人を好きになっていた。
(巻き込むわけにはいかない)
そうして申し開きをしたのだが、凛が声を上げたことに、皇帝黒龍は意外そうな反応を示した。
「美凛は随分、紫国の女官たちを気に入ってるようだな」
「そのようなことは」
「大方、夢の相手に類似した容姿に絆されたか」
「な、何をおっしゃって」
「隠さずともよい。美凛。さて、そちの名をなんと言う。言い分を聞いてやろう」
皇帝は動揺する凛にきっぱりそう言い、平伏したままの翠に目を向ける。
(やはり、私はあの時寝ぼけておかしなことを言っていたのね。だから皇帝陛下は。けれども、その姿まではわからないはず。どうして、そんなことを言うのかしら)
凛は皇帝黒龍の言葉の意味を考え始め、深い思考に陥りそうになった。
けれども、黒龍が翠に詰問を始めたことで、再び現実に戻された。
「さあ、顔を見せてみろ。紫国の女官よ」
凛は口を挟むこともできず、二人のやり取りを眺める。それは護衛たちも同様らしく、翠の反応を待つ。
彼女はゆっくりを顔を上げると、皇帝を見据えた。
「皇帝陛下。私は、凛様の女官、翠でございます」
「翠とな。気が強そうな女だ。面白い。さあ、そちの主人を守るため、我に最もらしいことを言ってみろ」
「発言の機会を与えていただき感謝しております。皇帝陛下」
感謝の気持ちなど一切籠もっていない声でそう言い、翠は話し始めた。
「凛様が春殿の主様に贈り物を贈ったことなど、一度もありません。なんでもいただいたことはあるようですが」
そこで言葉を一旦止め、翠は口元歪め冷笑を浮かべた。
(翠。そんな顔もできるのね。けれども不敬に当たる)
凛は心配して皇帝の反応を窺うが、彼は意に介さず頷く。
「だろうな。だが、涼葉の女官は美凛から菓子を受け取ったと主張している」
「女官?」
「そうだ。涼葉本人は意識不明だからな」
「薬師はついていらっしゃるのですか?」
「無論だ」
「その薬師は、先代の冬殿の花梨様のことも診ていらした方でしょうか?」
「なぜ、わかる。まさか」
「そういうことでしたの」
不意に落ち着いた女性の声がして、皇帝の背後から龍が刺繍された長衣を纏った女性が現れる。龍を戴くことができるのは、皇帝かその横に並ぶ者、皇后だけだった。
凛は声を聞いたときから、誰が声を発したかわかっていた。
けれどもその姿を実際に目の当たりにするまでは半信半疑だった。
「皇后陛下」
凛が平伏して、それに倣い翠も形ばかりの平伏をした。
「最後まで黙っていられなかったか。麗華よ」
「当然でありましょう?哀れな花梨のことよ」
皇后麗華は先代の冬殿の花梨を妹の様に思っており、気にかけていた。それもあって、花梨は皇后の次に皇帝より寵愛を受けていた。
他の三妃からは面白く思われておらず、嫌がらせを受けていた。花梨自身が話したことはなく、それらの情報はすべて皇后の影から聞いた話だった。
(陛下は皇后陛下にも聞かせるために、衝立の後ろに隠していたのね)
「それで、翠。お前は春殿の妃が飲んだ毒と、花梨の死に関連があるといいたいのね。その根拠は?」
「根拠はございません。けれども、あの薬師は花梨様がお亡くなりになってから、随分羽振りがよくなったのは事実です」
「そう。それだけね。それだけで、涼葉が盛られた毒と、花梨が盛られた毒が同じだと言いたいの?もしかして美凛が両者に毒をもったかもしれないわね」
「違います」
皇后は翠の返事を聞くと笑いだす。
「紫国の女官。花梨の死が毒殺だったと証明するだけでは足りないわよ。このままだと、美凛の罪が二つになるわ」
(証拠がなければ何も証明できない。その証拠も私に不利に働く可能性もある。私の後ろ盾、角家が私のために何かするわけがない。トカゲの尻尾のように切られるだけだわ)
皇后の高笑いを聞きながら凛がそんなことを思っていると、背後からぎりっと歯軋りをする音が聞こえた。
(翠?)
「私どもに時間をくださいませんか。皇帝陛下、皇后陛下が納得されるような証拠を掴んで参ります」
「面白い。いいだろう。なあ、麗華もよいであろう?」
「良いでしょう。三日でどうにかしなさい。その間、美凛の身はわたくしが守ってあげましょう」
「感謝しております」
翠が頭を下げ、凛も慌ててそれに倣う。
「美凛。よかったわね。お前を想う誰かさんに忠義の厚い部下がいて」
「忠義?」
「麗華。今は話すべきではない。楽しみが減るではないか」
「陛下は本当に性悪ですわね」
「それは褒め言葉だな」
皇帝は嬉しそうに笑い、皇后は虫ケラを見るような視線を黒龍へ向けている。
(皇后陛下ってもしかして陛下の事を……)
二人並んでいる所はよく拝見してきた凛。けれでもこうして少し砕けた態度の皇后麗華を見るのは初めてで、皇帝への態度がこんなに刺々しいので驚いていた。
そんな彼女に気がついたようで、皇后が意外そうな顔をした。
「美凛。お前の印象が随分変わったわ。それともそれがお前の本当の姿なのかしら。それであれば、皇后の位を譲ってあげてもいいわ」
(は?)
驚きで声に出しそうになり、凛は慌てて俯いた。
(皇后陛下は何を言ってるの?)
「麗華。やめないか。そちは我の唯一無二の皇后だ」
「美凛は毒にはなりそうもないし、若さもありますし、無事男子を産んでくれるはずですわ」
「麗華」
「皇后陛下」
皇帝が諫める、その声に被さって翠が皇后を呼んでいた。
「翠。お前、首を飛ばされたいの?」
「とんでもございません。皇后陛下」
「まあいいわ。花梨の死の真相が分かるのであれば見逃してあげる」
「翠。ここは輝火帝国。我は皇帝だ。そのことを忘れるのでないぞ」
「畏まりました」
翠は平伏しているが、その声には心が籠もっていない。
(紫国は属国に過ぎないのに、大丈夫なのかしら)
彼女の態度は凛が心配してしまうほどだった。