5雪の精
「何が、順調だ」
輝火帝国から届いた書簡を読み終わり、紫国の王・黎光は苛立ちを隠さなかった。書簡の差し出し人は陽。後宮から外に出される書簡は検閲が入る。それを踏まえて陽は後宮の日常、凛の様子を問題がない範囲で書き綴っていた。
「疑われず、凛様の側に仕えることができてよいことではありませんか」
王を諌める様に言葉をかけるのは、宰相の志立だ。翠の父親で、赤族の家長の弟に当たる。
紫国は紫族を中心に五つの遊牧民がまとまった国だ。王位は紫族にあり、他の四つの部族には重要な地位が与えられている。
宰相は王に継ぐ地位である事もあり、世襲制ではなく、代変わりの際は別の部族の者が引き継ぐ。
前任者は青族の者。現在は赤族の翠の父・志立が宰相の地位に付いていた。
「それはそうだけど。ところで志立はよいのか?陽が翠の側にいて」
黎光は何気なしにそう聞いて、言葉を止める。
(まずったな)
彼にとって、陽は頭の切れる有能な片腕だ。けれどもその性格の軽さが少しだけ問題で、志立も眉を顰めることがあった。翠が気に入っているため、口に出すことはないが、陽に対して複雑な感情を抱いているのが見てとれた。
「……今回はいてくれたほうがいいでしょう。なんせ帝国の後宮ですから」
「そうだな」
紫国と輝火帝国の力の差は歴然としている。紫国が帝国の属国であることは事実。したがって、翠が皇帝に求められた場合、断ることができない。蛮族と侮られている紫国の女官だ。皇帝のお召があっても待遇は他の嬪と格差が付けられ、ひどいものになることは目に見えていた。
陽は社交性に富んでおり、彼が傍に入れば翠を皇帝の目から逸らすことも可能だろう。また皇帝から恋人を必死に守るであろうことも予想でき、志立は今回は陽には感謝するしかなかった。
「それで、凛様のご様子は?」
「皇帝の御渡りがすでに一ヶ月ほどないそうだ」
「それは、それは」
志立はそれ以上何も言わなかった。
本来であれば、紫国の王には同族のものが相応しい。まして、皇帝の愛妾である四妃など、すでに手垢がついており、好ましくない。
けれども彼はそれを口にしない。
以前、それを言葉に出したものがいて、黎光の逆鱗に触れた。
もはや首を刎ねるところまで行きかけ、志立が必死に止めた。
「凛が望めば、紫国に連れ帰る。わかっているな」
「はっ」
黎光に一段と低い声でそう問われ、彼は首を垂れた。
☆
「美凛様。角家より文が届いております」
「そう」
「私どもは邪魔だと思いますので、ごゆるりと文をお読みください」
荀は口調とは異なる鋭い視線を凛に投げ、文を差し出す。それから紫国からの女官二人に退室するように促し、部屋を出て行った。
(催促ね。御渡りがなくなって一ヶ月近く。陽と翠のおかげで荀に何か言われることはないけど、旦那様は違うわね)
文をそのまま破ってしまいたい衝動に駆られたが、そんなことすれば荀から角家に連絡がいく。
(旦那様に鞭で打たれる)
想像するだけで体が縮こまり、凛はゆっくりと文を開けた。
全てを読み終わり、大きな溜息をつく。
口調が前回より荒ぶっているが、内容は一緒だった。
御渡りがないことの質問、努力はしているのかなど。
(皇帝陛下はあの日を境に来られなくなってしまった。公明の夢を見てしまったあの日から)
四年前。
白銀の髪に透き通った水色の瞳。
ほっそりとした顔立ちの美しい男性。
拾った時は情けない顔をしていて、捨てられた犬みたいだと凛は思ってしまった。
(夢よ。夢。彼を見たのは私だけ。痕跡はなにも残っていなかった。一緒に過ごした思い出だけを残して、彼は消えてしまった)
公明と過ごした日々は楽しく、思い出すと心が温かくなった。
(陽は同じ髪色だわ。もしかして、いえ。公明は存在しない。彼は私の元へ訪れた雪の精)
雪がちらつく日に現れるという雪の精。
美しくて人を騙すと言われている存在。
(彼と過ごした時間は楽しいものだったわ。騙されてもよかった。ずっと一緒にいてくれたらよかったのに。たとえ私にしか見えない存在でも、一緒にいてくれれば)
角家に養女に入ったことを凛はひどく後悔していた。
貧しくても女中として働いていたほうが、自由があり、人としての尊厳があった。
(救いは陛下が暴君ではなかったことかしら)
夜伽は凛にとって好ましいものではなかった。
子を孕む行為、それは愛する人と営む行為。
初めて以外は痛みを伴わなかった。皇帝黒龍の手解きは優しく、時折甘美な喜びまで見出すことができた。
けれども、その度に彼女は自身が娼妓になった気がして、嫌悪感を抱いた。
(愛する人としたかった)
そう強く思い、浮かんだのは公明の顔だった。
(馬鹿ね)
涙が出そうになり、凛は目を閉じてその衝動を堪えた。
(返事を書かなければ)
返事はいつも荀に代筆させる。
怯える自身を奮い立たせ、凛は荀を呼んだ。