07.
それからクライドはソファにうつ伏せに寝転んでそっぽを向いてしまった。
感謝とか謝罪とか、来る途中であれこれと考えていた台詞が全部飛んで行ってしまったじゃないか。
クライドが拗ねている。
正直アリサにはどうしていいか分からない。
「えーと、……殿下?」
「……」
アリサは仕方なく、クライドの背に手を置いた。
温かい背中がびくりと反応する。
アリサは先程のクライドの行動から考えられるものを予想した。
口にするのも憚れはするが、聞かねば話が先に進まない。確信を得るために、アリサは躊躇いがちに口を開いた。
「殿下……もしかして私の事、好きなんですか?」
「……」
クライドは何も言わない。
けれど背中に手を置いているアリサには、その心拍が凄い事になっているので言わずともがな。
アリサは溜息を吐いた。
(やっぱり。嘘がバレて動揺してるわ。私を好きだなんて、言える筈がない)
アリサの曲解は留まる所を知らなかった。
「……君は?」
やがて観念したようにクライドがこちらに顔を向けた。
「私の事が、好きか?」
「……はい?」
アリサは思わず首を傾げる。
そんな質問が来るとは考えてもいなかった。
クライドの気持ちに重点を置いていたけれど、逆に言うとそれ以外は考えていなかった。
(私の気持ち……?)
アリサが答えあぐねていると、クライドが再び顔を背けた。
「……いいんだ、分かっているから……君は『婚約者』に誠実だけれど、それ以上の感情を私に向けていない事は分かっていた。君は、私に依存しないからな……」
「え……」
思わぬ言葉にアリサは動揺した。
以前話した「誰にも頼りたくない」という気持ちは、例え相手が婚約者であっても同様だ。何故ならエイダンを当てにしていたら、やがてアリサは立ち行かなくなる。それは家族も同様で、アリサが心身を預けられる者などどこにもいない。
そんなアリサの事情を、抜け目ないクライドは勿論理解していると思っていた。だからこそアリサを選んだのだとも。
(私は殿下にとって、ただ都合の良い相手だった、のよね?)
でも……とアリサは思い直す。
一抹の同情くらいはあったとは思う。
(殿下は案外、部下思いなところがおありだから……)
ふと在園中にクライドに庇われた事を思い出す。
あの時絡んできた女生徒たちはその後どうなっただろう。アリサの視界には入らなくなったので記憶は無いけれど、多分それが答えなのだ。
クライドとアリサの、双方の事情を汲んだ婚約。
そう考えればクライドの所業はそれ程悪行に思えなくなってしまう。
(でも、約束したから……)
兄王子たちとの約束を思い出し、アリサは俯いた。そんなアリサにクライドが潤んだ目を向けてきた。
「あの男が君に相応しいとは思えなかったんだ。アリサ……私は、やりすぎたと思うかい?」
「……」
そう言って上目遣いで見つめてくるクライドにアリサは閉口した。同時にクライドに対する躊躇いがスッと冷める。
(……あざとい)
おかげで罪悪感に駆られていたアリサの心は持ち直した。
(殿下って産まれる性別を間違えて来たのではないかしら)
ついでにそんな悪態も吐いてやる。
でもそうしたらきっと、この容姿も相まって希代の悪王女になっただろう。……というか今ですらこの人は本当に男だろうか。なんて、思わずそんな失礼な疑惑を向けてしまう。
しかしそんな疑いは一旦脇にやり、アリサはこほんと空咳を打った。まずはやらねばならない事がある。
「──ええ、そうですね。確かに殿下の仰る通りです」
「……うん?」
ピシリと姿勢を正すアリサの眼差しに、クライドがひくりと引き攣った。
「えーっと、アリサ……?」
「いいえ殿下。殿下のしでかした事に対して、確かに私はほんの少し怒りを覚えましたが、それだけですからお気になさらず。婚約も継続しましょう。但し条件があります」
喜色を浮かべた後、すぐさま顔色を無くすクライドに、アリサは人差し指を立てた。
「単純な事です。殿下もご存知のように私は浮気が嫌いです。よって今度、婚約から婚姻期間全てにおいてそれを禁じます。発覚した場合は速やかに婚約、或いは婚姻を解消し慰謝料、を請求します」
慰謝料のところで語気を強める。
つまり、むしりとってやる。
である。
兄王子たちはアリサの名誉を守ると言っていたが、実家の後ろ盾のないアリサには先立つものの方が尊いのだ。
そもそもアリサは確信していた。
目の前の男は富も権力も美貌も持ち合わせ、しかもそれを自覚している。
(──浮気しない、筈がない!)
アリサがクライドにとって都合がいいのは、つまりそういう面も合わせているのだろう。彼はいつか愛妾を迎える心づもりもあったに違いない。クライドとアリサの間に恋愛感情など生まれる筈がないのだから。
そう考えると舌打ちでもしたくなるし、この約束に容赦など必要ないと、アリサは勢いづいた。
驚きに目を丸くするクライドに、アリサは更に指をもう一つ立ててみせる。
「次いで、私たちの婚姻は三年後とします」
「えっ」
これはまもなく行われる兄王子たちの婚姻時期と被らない配慮であるのだが、クライドの尻尾を掴むに充分な時間だと確信する。
(三年以内に彼の恋人を見繕うのよ。それこそ殿下のやった美人局でね。そうなれば文句もなく破談に応じるでしょう)
これで兄王子たちの期待にも応えられた。双方合意の円満離縁。
内心でガッツポーズを取るアリサの手を、クライドはそっと取った。それに違和感を覚えたアリサは首を傾げる。
「殿下?」
「……アリサ、嬉しいよ。私との結婚を真剣に考えてくれて」
「はい?」
一瞬固まったものの、相違を主張すべく手を引っこ抜こうと試みたが……抜けない。身体ごと後ろに引いたが、取れない。
「……」
取られた手はしっかりと握られたまま。クライドとの距離は開かない。
何故か恍惚とした表情のクライドに背中に汗が流れ、アリサは再び問いかけた。
「あの、殿下? もう一度聞きますが……殿下は私の事、好きではありませんよね?」
先程彼の背中から感じた心拍は真実を語っている筈だ。まごう事なき罪悪感。クライドがそんなものを抱くか甚だ疑問ではあるが、クライドだって人間だ。怖いものくらいあるだろう。兄王子たちからこっぴどく叱られたようだし──
そう、恐怖。確かに彼から感じた鼓動はそれだった。
けれどクライドは顔を蕩かせたまま不思議そうに首を傾げた。
「何を言ってるんだアリサ? 当たり前じゃないか。好きなんて生優しいものじゃない」
「……???」
──意味が分からない。
分からないがクライドの妙な圧力にアリサは思わず仰け反った。が、やはりクライドとの距離は開かない。
「……」
なんだろうか、この「離さない」と言わんばかりの態度は。
「そうと決まれば早速誓約書でも作ろうか? 約束を反故にされては困るからね!」
「え? ええ……」
それを行い利を得るのは自分の筈なのに、何故だろう墓穴を掘っている気がするのは……
自分の発言が元ではあるが。クライドの想定外の反応に、アリサはともかく困惑した。
一応確認してみるが、クライドがサラサラと書いた誓約書はアリサにとって充分過ぎる内容だった。しかもクライドに非があり婚約、婚姻が解消になった暁は、彼の私財の九割がアリサに譲渡される、と記されている。
「きっ──?」
(……こんなにいらない)
重すぎる。
アリサは目を泳がせた。
「殿下、流石にこれは多すぎます」
だがクライドは首を横に振り、頑として受け付けない。
「その代わりそれ以外の解消は認めないから」
品良く笑うクライドにアリサは首を傾げた。
「……それ以外って、例えばどんなものがありますか?」
「まあ、世に言う性格の不一致とか……相性ってヤツだね」
「それはまあ……言いませんけど……」
「……へえ。それは良かった」
クライドがにたりと笑ったが、誓約書を注視しているアリサは気付かない。
元よりクライドの性格が多少アレなのは在園中に分かっているし、今更だ。
笑みを深めるクライドと誓約書を見比べて、アリサは意を固めた。
(例え殿下が私に同情を抱いているとしても、情って長く続かないって言うし。三年もあるのだもの、兄王子たちの要望にも、これで応じているわよ、ね……?)
何だか変な方向に話が進んでいる気がするが……
自分に出来るのはこれくらいだと、アリサは一人納得し、誓約書にサインした。




