第12話 凍の涙・下
その研修は、血の匂いと共に終わりを告げた。
「おい、あれ見ろよ」
もう夜中だというのに廊下で誰かの声がして、それから施設の中は騒然となった。
なんだろうと窓の外を見てみると、そこにはつい三日前に出て行ったばかりのトラックが、2台列を成して戻ってくる光景があった。
「あれ、研修団の……?」
「二週間の予定って言ってなかった?」
ざわざわ。ざわざわ。
夜更かしがしたい年頃の、生徒の好奇心を止めることなんて誰もできなかった。
「おい!見に行ってみようぜ!」
誰かの声が呼び水となって、生徒はバタバタと玄関に向かって走り出した。
胸騒ぎがした。
言いようのない不安に、居ても立っても居られなくなった僕も、その流れに乗った。
ざわざわ。ざわざわ。
普段走るなと言われている廊下を、駆け足で通り抜け、辿り着いた玄関の周りには、色んな学年の生徒が集まっていた。
「みんな無事かな……」
「向こうの基地の不備とかかな?」
「誰か怪我したんじゃ……」
飛び交う声には、不安と好奇心が入り混じって、狭い玄関ホールに暗く響いた。
どくん、どくんと心臓が存在を主張してくる。不安、緊張、それらの感情を誤魔化しきれなくて、僕の握り拳に汗が滲む。
照明が明るく照らしているのに、何故か灰色にくすむ様な視界の先。ついに、玄関の扉が開いた。
つん、と。
嫌な臭いを、鼻がとらえた。
それは、鉄か、何か腐ったような臭いにも思えた。
誰かが咳き込んで、その音で我に帰る。
あれだけ騒ついていた玄関ホールの中は、かなり静かになっていた。
ガチャガチャと音を鳴らして、研修団が一人ずつ中に入ってくる。
「おい、邪魔だ」
先頭の教官が、手を払って道を開けるような仕草をした。
目は逸らさぬままノロノロと、けれどしっかりと両脇に集まった生徒たちは避けて、その間を研修団が通っていく。
隣を通った時、嫌な臭いがより強く臭った。
纏っていたのは研修団のみんなだった。
「何、この臭い……」
僕の三列ほど前に位置する女子が、鼻を摘んだ。
同調するような声が漏れ始めるが、それは先程のざわめきと比べて、遥かに小声だった。
ひそひそ。ひそひそ。
落ち葉が道の両脇に掃かれるような格好で、廊下の両脇に並んだ生徒たちの中。
不意に、誰かが声を上げた。
「あれ……?あの人は……?」
ゾクっと、全身に鳥肌が立つ。嫌な寒気に、僕は思わず首を縮める。
「いない……いないよ!?」
誰かが叫んだ名前は、噂話によく出てきていた、六年生の人気者。
「あいつもいねぇ……どこだ?」
続いた名前は、五年生の努力家の名前。
パタリと扉が閉じて、最後の生徒が入ってきた。
遠巻きにもわかる小柄なシルエットは、間違いなく小桃乃の姿だった。
僕は、思わずそろそろと息を吐いて、そしてやっと気づいた。
(人数が……足りない……?)
足元が急に不安定に思えてくる。
(いない?帰ってこない……?)
どくどくと、心臓の鼓動が速くなる。
確認するように、小桃乃の後ろ。既に閉じられた玄関の扉に、誰か入ってこないかと目をやる。
が、フードを目深に被り、俯いて歩く彼女の後ろには誰一人として続かなかった。
23人。確か研修団はそんな数だった。
今は、17人。
「どうして……?」
「そんな……嘘だろ……」
「……どこいったの……?」
ざわめきの声量が上がってきたのを感じた。
きっと、みんな同じ気持ちなんだと思う。
どうして、なんで。今すぐにでも問い詰めたいと。彼らはどこに行ったのかと、聞き出したいと。
きっと、そう思ってる。
誰かが声を上げれば、それが皮切りになるんだろうと、漠然と僕は思った。
そして、その時は直後に訪れる。
「ねぇ!ちょっと!」
小桃乃の肩を、気の強そうな女子生徒が叩いた。小桃乃は怯えるように身を縮こまらせて、はい。とか細く返事をした。
「池野君は何処?」
小桃乃は俯いたまま言葉を返さなかった。
代わりに近くに居た男子が顔を上げた。研修団の一人だ。
「池野君は……戦いの中で……」
小桃乃が身を小さく震わせた。
「櫛木を庇って死んだ……」
あ。
心臓の音がピタリと止まる。
嫌な予感が確信に変わる。
まずい。
小桃乃が、危ない。
小桃乃に伸ばそうとした手が、人混みを割るよりもずっと速く。
女子生徒が息を吸い込んで、小桃乃が処刑を待つ罪人のように頭を下げて。
「まっ……!」
僕の声を掻き消して、怒りと悲しみの声が玄関ホールに響き渡った。
「嘘よそんなの!そんなわけない!」
まずい。これは、止まらない。
堰を切ったように溢れ出る、不安の声。怒りの声、嘆きの声。
「あんなに強かったのに……!」
「そんなぁ……嘘だよ……」
「くそ!!なんでだよ!」
人が、叫ぶ。
それぞれの抱え切れない想いを。
教官の静止の声も、かき消すほどに。
「戦いの最中で……櫛木は動かなくなって……」
研修団の誰かが言った言葉で、ボルテージが更に上がる。
異様な臭いと、渦巻く真っ黒な感情に、玄関ホールは完全にパニック状態だった。
こんな状態では、小桃乃に近づくことも難しい。不安に突き動かされながら、僕は必死に人混みの中をもがく。
きっと、良くないことが起きる。
小桃乃のためだったのか。はたまた自分の抱く不安から逃げるためだったのか。
がむしゃらに、僕は手と足を動かす。
「そうだ……」
これだけの騒ぎの中、その声は不思議と存在感を放った。
低くて、しわがれて、それでいてよく通るその声は、皮切りになった女子生徒のもの。
その生徒の、小桃乃を見下ろす視線は、まるでギロチンの刃のように冷たく無表情だった。
「全部、全部さ……」
世界から音が消えた。
比喩ではない。誰もが小桃乃と女子生徒に釘付けだった。
まずい。まずい。その先を言わせちゃならない。
小桃乃まで、あと数人。目の前の人壁を押し退けた瞬間。
ギロチンの刃は、無常にも振り下ろされた。
「あなたが悪いんだ」
「お、おい……」
近くの男子が止めようと声をかける。しかし、女子生徒は止まらなかった。
「だってそうでしょ!?一年生なのよこの子!足を引っ張ったに決まってる!!」
女子生徒は泣いていた。その声は、感情がこれでもかと詰まっていて、名演説かのようにこのホールを包んだ。
「そ、そうか……そうだよ!」
誰かが続いた。
「きっと彼女のせいで……!」
また一人。
「なんでよ……!返してよ……!」
「お前のせいで……」
「でしゃばったから……」
不安や怒り、悲しみ。強い感情を紛らわす時、人は原因を作ろうとする。
敵がいるなら敵を攻撃する。居ないなら作る。それが、どんなおかしなこじつけでも、感情に突き動かされる時、そんな常識は存在しない。
玄関ホールに渦巻いた、数え切れない黒い感情。それらは、全て。
櫛木家の天才、一年ながら研修団に選ばれた。この上なく目立つ、小桃乃に向けられた。
騒ぎの渦中に居て、小桃乃は俯いたきり何も言わない。
女子生徒が、小桃乃の肩を掴んで揺すっても、カクカクと頭だけが動いて、表情すら見えない。涙一つも見えやしない。
僕は、間に合わなかったことを理解した。
遅かったんだ。気づくのも、声をかけるのも。
小桃乃への罵倒が飛び交う中で、同情しかできない僕の姿は、なんと間抜けなのか。
ずるくて、情けなくて、弱い。
無力な僕には、今この場を収めて、小桃乃を救い出せるような力も、そんな勇気も無い。
悲しくて、そんな自分が許せなくて。
ーー握った拳を振るわせる。ただそれだけしかできなかった。