第11話 凍の涙・上
*過激な描写、表現を含みます。一番えぐいと思います。読む際は、自己責任でお願いします。
咄嗟に発動した風属性の神術が、運良くその獣を捉えて、弾き飛ばした。
本能的に不快だと感じる、聞いたことのない声をあげて、獣ーー禍獣は私たちに相対した。
「気づかれたか……!総員戦闘準備!授業を思い出せ!死ぬぞ!」
教官は声を張り上げて、指示を出しながら神術を発動した。通り道にあるものを切り刻む、風属性の神術。
風切り音がして、禍獣の体がスパリと切れた。まるで豆腐か卵焼きのようだった。
「う、うわ!」「本物だ……!」
みんなにもやっと緊張感が満ちたようだった。流石に優秀な生徒たちだから、恐怖に負けてしまうような人は、誰もいなかった。
唸り声が、そこら中からする。
木々の生えたこの夜道では、月明かりはあまり役に立たない。
「教官!何も見えないです!」
「火つけてもいいですか?」
「ダメだ!自分から居場所を教えてどうする!」
禍獣は、賢い。
人間が生活している所に現れるのは、その頭脳あってこそだと、授業で習った。
「うわ!!」
列の後ろの方で声がして、思わず振り返るとまた新しい禍獣が木々の間から現れた所だった。
「くそっ……!」
後ろを守っていた教官の神術、石飛礫のようなものが、その禍獣に殺到した。
「やっと、戦える!」
教官の手際を見て、元気が出たのか。
はたまた、戦場に立つ不思議な高揚感からか。
ある生徒が、どこか楽しそうに神術を発動する。
飛んでいった火の玉が、禍獣を捉えて燃え上がる。
「やった!」
しかし、喜んだのも束の間。その禍獣はまだ動いた。
「危ない!」
それを仕留めたのは、池野くんの水。
私の手を貫いた、父の術によく似た術が、燃え上がる禍獣の動きを止めた。
「あ、ありがとう……」
「いいよ。俺が守るって言っただろ?」
こんな状況でも、池野くんは頼もしかった。
ガサリと音がして、次から次に禍獣が現れ始めた。
私の目の前に現れた禍獣を、今度はしっかりと集中して、水属性で撃つ。
細く鋭く。水を一本の線のようにして。
「ふっ!」
放つ。それは狙い違わず禍獣をまっすぐ貫いた。誰が呼んだか、この術は水鉄砲と呼ばれて、水属性を持つ生徒は授業でよく教わった。
真っ黒な、血のような霧を吐いて、禍獣は姿を消す。
死んだ禍獣は姿を残さない、と授業で習っていたが、こうして見ると不思議な光景だった。
だから、弱点や生態を研究できないんだ。と教官が呟いていたことを思い出す。
「やるな、櫛木!」
「ありがとうございます……!」
池野くんは凄い。こんな状況でも、周りが見えてるんだ。
私は池野くんの声に、気を引き締め直した。
どれくらい経ったのだろう。
数秒にも、数時間にも思える戦いは、こちら側が断然有利だった。
禍獣には遠距離から攻撃する術がない。だけど、私たちには神術がある。
円形になり、外側を向いて神術を撃てば、禍獣は近づけない。距離が取れているから、私たちは誰も欠けていない。
しかし、禍獣の攻撃は止まない。
こちらの口数は減っていき、それと反比例して禍獣の数は増えていくようだった。
状況だけ見れば、私たちには傷一つなく禍獣はもう沢山倒している。
だというのに、胸騒ぎは止まなかった。
「拉致があかん……!トラックまで逃げるか?」
「その方がいいかもしれん……」
「やるなら早くだ。動けるうちに」
「間違いない。みんな!トラックまで走れ!逃げるぞ!」
教官達にもこの戦闘の長さは予想外だったのだろう。
少々急ではあるが、私たちは撤退することになった。
ふぅ、と溜まった息を吐き出す。良かった、逃げられる。
走り出した教官に続いて走りながら、襲いかかってくる禍獣を神術で撃ち落とす。そんなことは簡単にはできないから、教官達が禍獣の注意を引いてくれた。
「疲れた……」「でも楽しかったね」
まだ喋る余裕があるのが、素直に凄いと思ってしまった。
とても私にはできない。体力的にはまだ大丈夫でも、私は精神的に疲れ切ってしまった。
「見えた!」
誰かが叫んだ。それに釣られて目線を上げると、確かに私たちが乗ってきたトラックが見えた。
(良かった……)
安堵から、どっと疲れが襲いかかってきた。
思えば、私はちゃんと寝ていない。疲れるわけだ。
(生き延びた……誰も、死ななかった……)
胸騒ぎが消えていく。まだ禍獣の足音は聞こえるけど、教官が守ってくれている。
トラックに乗れば、施設まで帰れる。
抜けそうになる足の力を、なんとか入れ直して私は走る速度を上げた。
今は一刻も早くトラックに乗りたかった。
「え」
それは、あまりにも唐突だった。
視界の先、頼みの綱のトラックの姿を覆い隠すように。
飛び込んできた禍獣が、前を走る生徒に飛びかかった。
「う、うわっ!!助けて……!!」
食堂で、私の神術を覗き込むようにして見ていた彼だった。
目があって、私は夢見心地のまま右手をかざして神術を放とうとした。
ーー神術には、神様に今からこのような術を発動するんだ、と伝わるほど強いイメージと集中が必要になる。
今の小桃乃には、そのどちらもが欠けていた。
不発。神術を放つ時特有の光すら出なかった。
そして、無様に固まった右手の先。
目があったままの彼は、禍獣に噛みつかれた。
「うわああああああ!!」
悲鳴が夜空を劈いた。
彼の身から飛んだ、生暖かいものが、私の右手にピチャリとついた。
「うわっ!」「きゃあああ!」
悲鳴が合唱となってこの雑木林に響き渡る。
教官の声が聞こえない。
ならば当然、禍獣の足音も聞こえない。
「いやぁ!!」
背後から悲鳴。双属性が羨ましいと呟いていた女子生徒。
「わああ!!」
また悲鳴。バレないって!と笑った男子。
あっという間に、私たちは23人から20人に減った。
「お前ら!しっかりしろ!!」
教官の怒鳴り声がやっと耳に届いた。ノロノロと私は右手を下ろした。
雷に打たれたように、慌てて神術を発動したり、倒れた生徒の安否を確認しだした他の生徒たちは、一瞬前とはまるで別人の表情だった。
私は、動けなかった。
最後まで合っていた、彼の目が消えない。
私が、神術を発動すれば、彼は助かっていた。
「櫛木!大丈夫?」
池野くんの声が後ろからして、ぎこちなく振り向く。
禍獣を今まさに神術で貫いたらしい彼も、その額には脂汗を浮かべていて、いつもみたいな優しい表情は何処にもない。
「彼は……。ダメか……くそっ……」
歪んだ顔を見て、私の頬を勝手に何かが滑り落ちた。それは冷たい涙だった。
「泣くな。今はそれどころじゃない」
「……はい」
そうだ。泣いている暇はない。
ーーみんな、死んでしまう。
目を拭って、周りを確認して。
ピシリ。と体が固まった。
さっきまでの冷静な戦闘はどこにもなかった。
「うわあああ」
火属性の男子が無茶苦茶に神術を乱射して、辺りの木が燃え上がった。
「ひいぃ……!!」
金切り声を上げて、しゃがみ込んだ生徒がいた。
「みんな!大学だって!!戦おう!!」
池野くんの必死な声がした。
「ぎゃああ!」
誰かの、断末魔がした。
足が、笑い出した。
くらり、と頭が揺れた。
「おい!」
と、隣の池野くんの声が遠く聞こえた。
「っ!くそぉ!!」
どん、と。
衝撃が体を襲って、私は右手から地面に倒れ込んだ。
「……っ」
何が起こったのかと左側を見ると、私を突き飛ばした格好で、禍獣に飛び掛かられる池野くんの姿があった。
「池野くん!」
悲鳴にも似た声が自分の口から飛び出した。
池野くんが視界の先で、簡単に禍獣に組み敷かれる。
池野くんだって、私から見たら大きい人だったのに、禍獣の大きさは軽く上回っていて池野くんはもがいても抜け出せない。
「お願い……!」
右手をかざして、神術を発動する。
イメージするのは、先ほども放った水鉄砲。
目を開いた私が捉えたのは。
炎に照らされて、真っ赤に染まった自分の右手だった。
「あっ……」
いけない。と思った時にはもう遅い。神術は不発、池野くんの上の禍獣が池野くんの肩口に噛み付いた。
「ぐっ……」
悲鳴を堪えたらしい池野くんは、必死の形相で私を見る。
「頼むよ……お前は櫛木家、だろ……?」
さっき発動できなかった水鉄砲が、私を貫いたような衝撃。
止めようもなく体が震え、歯がカチカチと鳴り出す。
「っ……!っ……!!」
神術を発動しようと何度も試すも、掌には光一つ産まれない。
「なんで……!!!」
泣いても、叫んでも。
神術はついに発動できなくて。
禍獣は、池野くんに噛み付いたまま、無造作に首を横に振った。
「がっ……」
嫌な音がして、池野くんの腕が体から外れた。
飛んできた鮮血が、私の顔や体に降り注ぐのが、やけにゆっくりと見えた。
池野くんの、もう動かなくなった顔が横倒しになった。開いたままの目が私をじっと見つめてくる。
ーーお前は櫛木だろ。
その言葉が、体を駆け巡る。
櫛木家に生まれたからには、神術は誰よりも優れていて、誰からも尊敬されるようでなくてはいけない。
父の教えが脳裏に蘇る。
ほむら君の、無言の言葉が聞こえた気がした。
(あぁ……私は……)
他の生徒の悲鳴と怒号。禍獣の唸り声と悲鳴。神術の炸裂する音と、木の焼ける音。
それらに包まれて、私はバランスを崩して地面に倒れ込んだ。意識が遠のいていく感覚。
赤に染まった前髪が、視界を遮るその向こう。
池野くんの目は私を捉えて離さない。
父の目。ほむら君の目、池野くんの目。みんなの興味深そうな目。
教官の感心したような声。池野くんの必死な声。ほむら君の無言の声。
全部が、全部。私にこう言う。
お前は、櫛木だ。と。
私に、甘えは許されない。
でも、私は弱い。弱くて、泣き虫で、怖がりだ。
なら、そんなのは要らない。
私は小桃乃なんかじゃない。櫛木、だから。
みんなが認める天才でなくてはいけないから。
暖かさなんて、求めてはいけないから。
ーーあの小さな火なんて、求めたらいけなかったから。
施設での夜、火群君の目はどこか悲しそうに私を見ていた。間違ってたんだ。私が怖いだなんて縋り付くのは。
あの小さな火が凍りつく。
昼間の星空が凍りつく。
怖くて、震えて泣いていた、さっきまでの私が凍りつく。
施設での彼の顔が、初めて会った彼の笑顔が、音を立てて凍りつく。
手放しかけていた意識を、頭を振って取り戻して。
私に迫ってきていた禍獣に、神術を放つ。
心も、頭も凍りつかせた私の手から放たれた神術は。
冷たく無情に舞う吹雪。
炎に囲まれた戦場を、急激に冷やしたその吹雪は、触れた禍獣を即座に黒い霧に変えて。
私の頬を伝った一滴の涙も、氷に変えてポトリと落として消えていった。