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第10話 研修

*小桃乃視点でのお話です。



「っ……っ………!」

 泣いちゃダメだ。

そう言い聞かせても流れる涙は止まらなくて、ならばせめてと私は唇を噛み締めて、漏れそうになる声を堪える。

 どれだけ怖くても、辛くても。泣かなかったのに。

 今日の胸の痛みは、別だった。

記憶の中の暖かい笑顔が、昼の星空が、火の温度が。奇跡のように輝いていたあの日が、色褪せていくようだった。


ー櫛木に甘えは許されない。


 父の言葉がどこからか響く。

きっと、ダメだったんだ。

櫛木の苗字を持った私が、人の優しさに触れようなんて。甘えたいだなんて。救って欲しいだなんて。

『僕がその怖いのから守ってあげる』

 あの言葉は、嘘だった。

ほむら君は、私の苗字を知らなかったのかも知れない。それで、この施設に入って知って、距離を置きたかったのかもしれない。

 そう考えると、かつての彼とはまるで違う今日の様子にも合点がいく思いだった。

 櫛木。この名前は、絶対だ。

小桃乃とて、施設に流れる黒い噂は知っている。でも、そんなものに屈することは許されない。

 でも、でも。


ーー痛い。


 どこをどう走ったのか。

気づけば私は次の朝を。

ーー出発の朝を、自室で迎えていた。



 私を含めた23人の生徒と、4人の教官がトラックに乗り込んでいく。

わくわくするね、と談笑する生徒。硬い表情で無言の生徒。それぞれの思惑を乗せたトラックは、あっという間にガタゴトと走り出した。

 もう、逃げられない。

この研修は、不安の中始まった。


「怖いか?」

背後から声がかかる。振り返ると、金に近い茶髪に負けないくらい、明るい表情の男子と目があった。

 確か、名前は池野君、だった気がする。六年生で、人気者らしい彼の名は噂でよく聞いていた。

「いえ……」

「無理すんなよ。いくら櫛木と言えど一年生だ。なんかあったら俺に言ってくれ」

そう言って眩しい笑顔で手を差し伸べてきて、私はおずおずとその手を握る。

「俺が守ってやるよ」

ニッと笑ったその顔は、自信に満ちたそのセリフがよく似合う。握った手を軽く振って、彼は別の生徒に声をかけた。

 人気者と言われる理由がわかった気がする。

(守ってやるよ……かぁ)

握られた右手に残る感触がと、ちょっと芝居がかったその言葉が、記憶の中の黒髪の彼と重なる。

 ツンと鼻の奥が痛んで、私は膝に顔を埋めた。

身体に伝わる振動が、戦場への歩みを口数うるさく物語る。

(頑張るしか……ない)

一人でも。私は、櫛木。

 碌に眠れていない反動で、私はいつの間にか寝てしまっていた。

 目が覚めた時にはもう、トラックは止まっていて。

 目の前にあるのは、施設よりも仰々しい。一目でそうだとわかる、軍の建物だった。


「授業でいうより肌で体験する方が学べることは多い。各自この研修を活かせ。以上」

 短い挨拶で始まった軍の建物での生活は、半分予想通りで、半分予想とは違った。

 まず、予想通りだった部分は、軍人さん達がみな大きくて、強そうだということ。見下ろされながら敬礼をされるたびに、私は一瞬怯んでしまう。

右手の肘を肩と同じくらいの高さまで上げて、掌が相手から見えるように額の右側に当てる。その際左手は真っ直ぐ伸ばし、掌を太ももにつける。授業で習った通りの敬礼を返すと、軍人さんは頷いて歩いていった。

 右手の掌を見せるのは、神術などでの不意打ちを防ぐためだと教わったから、敬礼をされると思わず右手に視線がいってしまう。

 次に、施設のように明るい会話は殆どないこと。皆無では無かったけど、1日に数回あるかどうかだった。

 予想とは違った部分は、人が死なないこと。禍獣と戦わないこと。そして、思ったよりも研修団のみんなは、怖がっていなかったことだった。

「なぁ、今日こそ禍獣見れるかな!」

お昼ごはんを食堂で食べながら、五年生の男子が隣の男子に話しかける。

「だといいな!戦いてぇ!」

話しかけられた男子も笑顔で答える。

周りの生徒達には、その会話を聞いて表情を歪めたり、注意したりする人はいない。きっと、みんな心のどこかでは似たようなことを思っているからだ。

 みんな、この研修に選ばれる生徒は優秀な生徒だということを知っている。

だからこそ、自分の力を試したくなる。

 初めはトラックの上で硬い表情だった女子や、あの池野くんでさえ3日目の今日には、もう緊張感は薄れているようだった。

「そういえば櫛木さん、属性2つ使えるんだよね?」

急に話を振られて、私は反射的に頷いた。

 おぉ……と起きたざわめきは、物珍しさからか同情か。

 2つ属性を操れる人は、一般的にはあまり神術が上手じゃない。

私も上手く扱えなくて、大変だった過去があるから、みんなの微妙な温度には理解があった。

「何属性と何属性なの?」

「水と、風です」

おぉーと今度は、さっきよりも興味の色合いが強いざわめきが起きる。

「見せて見せて!」

「え……でも許可のない使用は禁止で……」

「バレないって!」

私をぐるりと取り囲む目は、期待に染まっていた。

 思わず食堂の中を見渡す。

軍人さん達はこちらに興味が無いようで、誰もこっちを見ていない。教官は、今はいない。

 もう一度周りの目を見る。

みんなの目からは、逃げられなさそうだった。

「じゃあ、少しだけ……」

右手だけをかざして、目を閉じる。左手は目立たないとはいえ、あまり見られたく無い傷がある。

イメージするのは、ジョウロから流れ落ちて草花に注ぐ、霧のように小さな雨。

「っ……」

目を開く。掌を上に向けて、その上に渦を巻くような風を発動する。

その時点で覗き込む生徒の髪が揺れて、その生徒は目を丸くした。

 次に、その渦に目に見えないほど小さな水滴を混ぜ合わせる。言うなれば、風で飛んで行かないようにコントロールした、ミストシャワーのようなものだ。

「凄い……これ、どうなってるの?」

「なんかひんやりする〜」

 みんなが口々に言う感想に答える余裕はあまりなく、みんなが満足そうな様子を見せてから、発動していた神術を止める。

 ふぅ、と一息。緊張した。

「凄いね、双属性持ちって神術苦手っていうじゃん?」

 双属性持ちとは文字通り、二つの属性を持つ人のことだ。

頷くと、話しかけてきた女子は頭の後ろに手を組んで話を続けた。

「なのに使える人もいるんだねぇ。私ももう一つ属性欲しかったなぁ」

お、俺も。私も。と続いた声に、私は微妙な笑顔で答えることしかできなかった。

 脳裏をよぎった父との訓練の記憶は、今もまだ心に恐怖と冷たさを残している。

(もしかしたら、みんな凄いから、あんなことにはならないのかも……)

中断していた食事を再開させながら、私は蘇ってくる恐怖に耐える。

 左手が、冷たく痛んだような気がした。


 その夜だった。

私は同室のみんなが寝静まった後も、上手く寝付けなくてたまたま起きていた。

 頭の中から、怖い顔をした父が消えない。

こういう夜はよくある。子供の時からずっとそうだ。

でも、その度にいつも助けてくれた、記憶の中の彼の笑顔は、もうあの夜の辛そうな表情で上書きされてしまっていた。

まるで、暗い夜を照らしてくれた月が、雲の後ろに消えてしまったようだ。

 だから、今日はなかなか眠れなかった。

「ー!」

そんな私の耳が、何か音を捉える。

 今日は出撃があったはず。それについていくことはなかったけど、全員が無事に帰ってきていた。

だから、軍人さん達も今日は笑顔がよく見えた。喧嘩が起きる気はあまりしない。

「なんだろう……?」

思わず呟いてしまったのは、不安のせいか。

気のせいかもしれない、と呼吸を殺して聞き耳を立てると、今度ははっきりと音を捉えた。

 何かが、壊れたような音。

胸騒ぎがした。思わず息を飲み込んで、私は布団から這い出る。

それと時を同じくして、廊下をバタバタと走る靴音が聞こえてきた。

 靴音は、私たちの部屋の前で止まり、続いてドアが叩かれる。

「起きろ!襲撃されている!」

 開きざまにそういった教官は、珍しく慌てているようだった。

冗談では無いことが、開け放たれたドアの先から聞こえる音が伝えてくる。

悲鳴、怒号、何かが倒れる音。

心臓が早鐘を打ち、咄嗟に私は動けなかった。

しかし、教官は一人だけ布団から出て警戒していた私を見て満足気に頷いたようだった。

「流石だ……。櫛木、部屋の生徒を起こして裏口に集まれ」

「っ……!はい……!」

私の返事を聞き届けて、恐怖はまたバタバタと走って行った。

「ん〜……何……?」

寝ぼけたような声を聞いて、私は慌てて行動を開始する。

「み、皆さん起きてください!禍獣に襲われています!!」


 建物の中の喧騒を他所に、私たち研修団は裏口から出て集まった。

「いいか、我々が何かしても邪魔になる。このままトラックに乗り、施設に帰る。研修は中断とする。質問はあるか?」

いつも以上にきびきびとした教官の声に、生徒が一人手を上げる。

「あの、戦わないんですか?」

「死にたいのなら貴様一人でここに残るか」

他の教官がその生徒を叱りつけた。

「他に質問はないな。いくぞ」

早足で歩き出した教官を追う生徒たちには、いまいち実感がないようだった。

私だってそうだ。実際に禍獣の姿を見たわけじゃないし、人が戦っているところも見ていない。

 何か訓練のようなもので、本当は襲われたなんてことは、嘘なんじゃないか……。

現実逃避気味な思考が、頭をぐるぐると回る。

 だけど、いつも冷静な教官達の様子や、早鐘を打つ心臓。消えない胸騒ぎが、私を嫌でも警戒させていた。


 だから、気づけた。


闇夜に紛れて、横合いから飛び出してきた、大型の獣の姿に。


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