第9話 自嘲の笑みすら
「ほむらくん……!」
全く予想だにしていない声が僕の名を呼んだ。
この場所にいるのは僕一人だけだと思っていたから、横面を張られたような驚きに襲われて、沈んでいた気分が一気に覚醒する。
鈴の転がったような、迷子の子供が親を見つけた時のような、弾んだ声だった。
脳裏に、とある光景が否応なしに浮かぶ。
木の根元に座り、膝を抱えて泣いていた。白い、少女の光景。
首を捻って声の主を探す。
ーーどうか、別の人であって欲しい。
そんな思いが、首の動きを緩慢にさせる。
しかし、相手はすぐに見つかった。
その人物は、灯り一つないこの場所で一際目立っていたから。
背後の木の裏から小走りに。こちらに向かってくる声の主は、真っ白だった。
まるでそれ自体が光っているかと錯覚するくらい、月明かりを浴びて輝く白髪は背中まで伸びている。
濡れて、艶めく瞳は宝石みたいなエメラルド。
嬉しいと叫び出しそうな表情は、可憐と綺麗のちょうど間のよう。
背が低くて、近づいてくるにつれて動きを追う僕の視線は下がっていく。
ふっ。と、ため息にも似た何かが勝手に漏れた。
ーー合わせる顔がない。
声の主は、櫛木小桃乃だった。
「久しぶり……だね」
弾んだ声と、親しみを込めた目線。それが心をズキズキと刺す。
「久しぶり……」
笑顔を浮かべたつもりで、返した言葉は小桃乃にどう伝わったのか。不安で仕方がなかった。
「ここ、よく来るの?」
小桃乃は前屈みになっていた姿勢を戻してから聞いた。記憶にある身長差は、ニ年じゃさして変わらなかったらしい。
「いや、来るのは2回目だよ。偶然見つけたんだ」
嘘を、ついた。
教官と来たと言ったら、きっと何があったか聞かれる。それに答える言葉を僕は持たない。
「そうなんだ」
それっきり、沈黙が降りた。たまに吹く風が木の葉を揺らす音だけが僕らを包む。
前会った時、小桃乃はあまり自分から喋らなかった。きっと今も僕から喋らないといけない。
この時間に居心地の悪さを感じて、僕はなんとか話題を探す。
「そういえば、研修団に選ばれたんだよね?」
ギシッと。聞こえる筈のない音がはっきり聞こえた気がした。
「……うん」
頷いた小桃乃の表情は笑顔のまま。
きっと気のせいだ。少し困ったように、眉がカタカナのハのようになる笑顔は、彼女が以前見せた表情と変わらない。
「凄いよ。みんな小桃乃の話をしてる」
「あはは……」
小桃乃は曖昧な表情で笑って、それきり口を閉じた。二度目の沈黙の時間。
自慢も、得意気な表情もしない彼女に、劣等感をじわりと抱く。
(僕とはまるで違う……)
喋れば喋るだけ、小桃乃に触れれば触れるだけ、胸が痛んで血が流れるようだ。
まるで、焼けた鉄を握るような心地。
不意に、月明かりが弱まった。雲が動いたんだろう。
それと時を同じくして、小桃乃が口を開く。
いつの間にか、後ろで組んでいた手を胸に抱いた小桃乃の表情は、前髪に隠されていた。
「ね、ほむら君。私、本当は怖いの……」
あの日聞いた、弱々しい声によく似た声だった。
まだ声変わりもしていないその声に、幾つの感情が込められているのか、僕にはわからなかった。
「そう……なんだ……」
とりあえずそう言っておいて、次に何を言うべきか考える。
こんな馬鹿な僕が、天才の小桃乃に、言えること。
(そんなの、あるんだろうか……)
昔の僕みたく、何かできるわけじゃない。
落ちこぼれで、周りのみんなに迷惑をかけて、決して許されない、こんな罪人に。
勝手に視線が下がる。小桃乃の方を見れない。
その数秒に、雲に隠れていた月がまた顔を出して、月明かりが再び差した。
風が一際強く吹いて、木の葉が鳴く。
「ごめんね、急に。こんな遅い時間に」
はっと顔を上げる。
目に映った光景は、小桃乃が僕に背を向けた光景。
それを追うように、広がるスカートと長い白髪。
ーー月明かりを反射する透明な雫。
「こと……」
「おやすみほむら君。ごめんね」
僕の声を遮って、小桃乃は走っていってしまった。
いくらなんでも、わかってしまった。
ーー僕は彼女を、裏切ったんだと。
「あぁ……」
悔いても遅い。手を伸ばしても届かない。
走り去る白い背中は、もう見えない。
『じゃあ僕が、その怖いのから守ってあげる』
記憶の中の小さな僕が、胸を張って言ったセリフが脳内に響いた。その後小桃乃が見せてくれた、花が咲いたような笑顔が思い浮かんで、ピシリと崩れた。
嘘にしてしまった。
ありがとうの言葉も。笑顔も、温度も、あの時間も。
吐き気が込み上げてくるようだった。
ノロノロと木に背中を預けて座り込んで、目を閉じる。
目に浮かぶのは、小桃乃の顔。
ここで会って最初に見せた明るい表情。
隠して、見せなかった泣き顔。
最後、口元は笑っていたようにも見えた。
悲しかっただろうに、悟らせまいとしていた。
無力感に苛まれる。
あの事件を起こさなかった僕なら、小桃乃は涙を見せてくれたのかもしれない。
あの夜、馬鹿なことをしなかった僕なら、小桃乃を笑わせられたのかもしれない。
頭を乱暴に掻きむしって、虚しくなってすぐ止める。
いつだって僕は、後から失敗に気づく。
「……本当に、最悪だ……」
月も星も、木も風も。
僕を裁くことも慰めることもせず、変わらずそうあり続ける。
静かな夜に僕だけが、たまらなくちっぽけで。
ーー自嘲の笑みすら、出てこなかった。
次の日、小桃乃を含む研修団は、トラックをガタガタ言わせながら前線の基地へ旅立った。
見送りとかそんなものはなくて、あっさりと2台のトラックは走り去っていった。
遠目でも、彼女の白髪はよく目立っていた。
幸せなキスをして終了。とはなりません。




