幕間・参 そんなの、ずるい。
ーー危なかった。
木陰に隠れていた私は、生徒が去っていくのを見て、やっと息を吐き出した。
施設に来てからすぐに見つけたこの場所には、木が沢山生えていて、施設の灯りもあまりないから、暗くて星がよく見える。
眠れない時、苦しい時、私は決まってここに来て、落ち着くまで一人で過ごす。
ここで過ごしている時に、誰かが来たことなんて一度もなかった。
だというのに、今日は二人も来るなんて。
生徒の背中が曲がり角の向こうに消えて、やっと木陰から出る。
私の髪は暗がりでも目立つから、隠れている間も緊張しっぱなしだった。
「ほむら……くん……」
私に温もりをくれた少年の名を、小さく口に出す。
暗がりで顔はよく見えなかったけど、あの生徒の髪も黒だった。
「元気かな……」
施設に入ってすぐ、一度だけ彼を見かけた。その時の嬉しさと言ったら、なかった。
また言いつけを破って、他人の温もりを求めてしまうところだった。
声をかけようとする自分を、穴の空いた左手を握って必死に堪えて、その時以来彼を見かけたことはなかった。
きっと彼のことだから、友達が沢山いて、成績は凄く良くて、もしかしたら研修にも選ばれるかもしれない。
「だったら……いいなぁ……」
視線を星に向ける。
記憶の中の昼間の星空よりも大きくて沢山の星。でも、どこか冷たい。
研修まで、あと1ヶ月を切っていた。
話でしか聞いたことのない、禍獣のいる前線に行く。
そこでは、当たり前に人が死ぬ。
神術があっても、禍獣に襲われて、毎日人が死んでいる。
きっと、私なんかよりももっと大きくて、もっと早くて、それでいて大量。
研修に選ばれてから、禍獣に襲われる夢を毎日見る。
頭を噛みちぎらんと、大きな口が迫ってくる夢。
沢山の禍獣に取り囲まれる夢。
私の神術を気にも止めず、突進してくる禍獣の夢。
何度も夜中に目が覚めて、私は最近寝不足気味だった。
「怖い、よぉ……」
弱音を口に出すと、まるで叱るように左手が痛んだ。
穴の空いた左手。父の、氷のように冷たい神術に貫かれて、できた穴。
その穴が私に語りかけてくる。
お前は、櫛木なんだぞ。と。
甘えは許されない。と。
家を出て、施設に入った今でも追いかけてくる櫛木の呪縛。
みんなの、私を見る目もそういう目だった。
「あいつは櫛木だから」
「櫛木様よ」「櫛木」「櫛木」
友愛のような暖かさを感じたことは一度もなかった。それは学校にいた時だってそうだった。
思い知るようだった。
私は櫛木家の娘であって、小桃乃ではないことを。
「あ……」
しまった。と思った時には手遅れ。
家のことを考えてしまうと、私はもう心が安らぐことなんてない。
この私だけの時間は、いつも癒しをくれるけど、今日は失敗したみたいだ。
「かえろ……」
誰に聞かせるわけでもなく、私はそう呟いて歩き出す。
丁度、さっき去っていた生徒と、似たような格好になってしまって、面白くないのに私は笑った。
少しでも、気を紛らわせたかったから。
寝ても禍獣が、起きても家が。
恐怖から逃れることができる時間はごくわずかで、日に日に私は疲れていった。
普段はしないような神術のミスをした時は、周りの目が怖くて顔を上げられなかった。
夜、寝るのが怖くて、意味もなく眠気に抵抗してしまう日が増えた。
でも、私は櫛木だから。
そんなことではいけないと、必死に背筋を伸ばし続けた。
そうして研修が、ついに明日になった今日。
時を同じくして、私に限界が訪れた。
体の震えが止まらない。今夜が冷えるわけではないのに。
私は自分の体を抱くようにして、木陰に座り込む。
裏門の近くの、私の秘密の場所。
ここ1ヶ月、この場所に来なかった夜は一度もない。
「大丈夫……しっかりしろ……」
うわ言のように繰り返して、震えが収まるのを待つ。
「私は櫛木……」
こんな姿は許されない。
カチカチと鳴り出した歯を、唇を噛み締めて強引に抑える。
「大丈夫……」
自己暗示、と言うものがある。
本当は怖い。全然大丈夫じゃない。
眠くて仕方ない。吐きそうなほど体調が悪い。
でも、大丈夫じゃなきゃいけない。
「私は、櫛木……なんだから……」
余裕なんてなかった。
だから、私は周囲に気を配ることはできなかった。
聞こえてきたのはサク、と草を踏む足音。
あまりにも遅く、私はこの場に誰かが近づいてきていることに気づいた。
「っ……!!」
慌てて視線を這わせると、どうやら足音は後ろから聞こえてきているらしいことがわかる。
(なら、まだ気づかれてはいないはず)
恐る恐る木の裏を確認する。
果たして、私の目に飛び込んできたものを最初は信じられなかった。
(あぁ……)
そんなの、ずるい。
我慢なんて、できるはずもない。
この瞬間だけは櫛木の責任も、左手の痛みも、私の頭から抜け落ちていた。
だって、歩いてきたのは彼だった。
私に、なによりも綺麗な星空を見せてくれて、なによりも暖かい温度をくれた、彼だったんだ。
涙を流すのは、カッコ悪いから必死に堪えて。滲んだ部分は乱暴に払って。
私は震える足ももどかしく、木の裏から飛び出した。
変な声にならないように、注意しながら口を開いてーー。
小桃乃視点でのお話です。
鬱屈とした世界に差す一筋の光ですね