幕間・壱 罪過
※一部過激、グロテスクな表情があります。苦手な方はご注意下さい。
「そこにいるか?」
後ろを着いてきているであろう、同行者の声は、しかし返らない。
もう何度目かもわからない程繰り返したことだが、慣れることなんてなかった。
自分の息遣いと、心臓の音がやけにうるさく聴覚を塞ぐ。
嫌な汗がまた滑り落ちてきて、忌々しくそれを拭う。
どれだけの時間そうして歩いてきただろう。
この熱くも寒い、何処まで続くかもわからない暗闇の中を。
踏み出す足は、何かに引っ張られているんじゃないかと思うほどに重く、吸い込む空気は絞り忘れた雑巾のように、不快にベタつく。
ともすれば、気がおかしくなってしまいそうな時間だった。
「なぁ、いないのか」
声は、虚しく闇に消える。
喉の奥を、掻きむしりたくなるような焦燥だけが増していくばかり。
まさか、こんなにも苦しいものだったとは。
話に聞いた時、さほど難しくは感じなかったというのに、この試練は間違いなく我が人生で最大の難関だった。
しかし、乗り越えなければまたあの笑顔は見られない。
もしかしたら、また得られるかもしれないその幸福を目指して、今はただ進むしかなかった。
そして、その瞬間は、唐突に訪れた。
視界の先、永遠に続くかと思われた闇を切り裂いて、真っ白な光が眼を焼いた。
あぁ……。と勝手に声が溢れていった。
超えた。この試練を。ついに。
「ついたぞ……着いたんだ」
この時のために、この無限地獄を歩き続けた。こうして光の世界に、二人で戻るために。
「君のためなら、どんな試練だって超えられる……。帰ろう、我が妻よ」
万感の思いで振り返って、目に飛び込んできたものは。
かつて共に笑い合った妻の姿ではなかった。
目があった場所は、黒く虚な穴だけがある。
頬は痩け、体はやせ細り、至る所から骨が除く。
白骨にぶら下がるのは腐った肉。
かつての面影は何処を探そうとも、見当たらなかった。
ひくっ、と喉の奥が鳴る。
鳥肌がゾクリと全身に立ち、足が笑い出す。
妻だったものが、ついに口を開いた。
あれだけ聞きたかった声。しかし、今は聞きたく無いと思ってしまった声。
しかし、目の前のものの口は止まらなかった。
「ミナイデクレト、イッタノニ」
その声は、怨嗟と憤怒で染まっていた。
おどろおどろしい奇声をあげ、腐った肉をぼたぼたと落としながら、それはこちらに走ってきた。
殺す気か。間違いなく、今心に飛来した感情は恐怖だった。
「すまない……」
試練を失敗した私に、できることなんてもはや無いと、どうしようもなく痛感してしまった。
すまない、すまないと。命乞いのように謝り続け、私は妻だったものに背を向けて、逃げ出した。
光の中に飛び込んで、近くにあった手頃な岩で、その道を塞ぐ。
少し遅れてたどり着いたらしい相手は、岩をどんどんと叩きながら声ならぬ声を上げていた。
「すまない……。許してくれ……」
私は必死に岩を押さえつけながら、泣いて謝ることしかできなかった。
数瞬にも、数時間にも思われた時間が過ぎた後、やがて衝撃が収まり、奇声が止まった。
「マイニチ、オマエノクニノニンゲンヲ、センニンズツ、コロシテヤル」
歯軋りするような、治らぬ怒りを含んだ声音だった。
悔しさ、情けなさ、悲しさ。私はもうどうにかなってしまいそうな程の感情の波に攫われた。
「ならば、私は毎日千五百人を産もう。君と作ったこの国を、君自身に滅ぼさせるわけには、いかない……」
応えた声はもう意味を宿していなかった。
その寄声は数時間も続き、いつしか眠るように収まっていった。
呆然と、私は岩に背を預けて座り込んだ。
どうして振り返ってしまったのか。
どうして、妻を助けてやれなかったのか。
後悔の念がひたすらに胸の中で暴れていた。
ふ、と。甘い香りが鼻腔をくすぐった。
ちらと匂いの元を探ると、そこには一本の桃の木が生えていた。
枯れたはずの涙が、再び溢れてくるのを抑えられず、視界が濡れて歪み出す。
「あぁ……我が妻は……イザナミは、桃が好きだったな…………」
彼女が亡くなった日の朝も、桃を食べていた。火を司る神を産み、その炎に撒かれて死んだ日に。
「イザナギ……我が夫よ、泣くな。きっとこの子は人間にとって大事な役割を果たしてくれる筈だ」
火炎の中で、彼女は愛しそうに産まれたばかりの神を抱いていた。
「名はカグツチ。きっと、優しくて……暖かい神になる……筈…………だ……」
「イザナミ!」
「さらばだ……我が夫よ」
死ぬ瞬間まで。いや、死んでからも彼女の表情は柔らかな愛で満ちていた。
焼け落ちていく彼女の姿はよく覚えている。それがどれだけ辛い光景だったかも。
「カグツチ……」
妻を死に追いやった神。
燃え盛りながら産まれ落ち、親を殺す禁忌を犯した神。
ーーどうしても、私は許せなかったんだ。
何処か、暗くて寒い、無限に広がる黄泉の何処かで。
自責と後悔に苦しみ続ける神が、今日も独りで静かに座っていた。
ああ、私は何故。
何百と繰り返した言葉を今一度。
何故、産まれてきてしまったのだろうか。
永遠に答えの出ない自問自答。
それが心を蝕み続ける。
何故。何故。親である神を殺し、親に神殺しの罪を背負わせただけの私は。
何故、産まれてきてしまったのだろうか。
その神の名は。
火を司る神、カグツチ。
黄泉の何処かで、彼女はただ、苦しんでいた。
人の寿命は、こうして決まった。
この神話は、その限られた時間で人から人へと伝わっていき、今も語られる。




