表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

幕間・壱 罪過

※一部過激、グロテスクな表情があります。苦手な方はご注意下さい。




「そこにいるか?」



 後ろを着いてきているであろう、同行者の声は、しかし返らない。

もう何度目かもわからない程繰り返したことだが、慣れることなんてなかった。


 自分の息遣いと、心臓の音がやけにうるさく聴覚を塞ぐ。

 嫌な汗がまた滑り落ちてきて、忌々しくそれを拭う。


 どれだけの時間そうして歩いてきただろう。

この熱くも寒い、何処まで続くかもわからない暗闇の中を。

踏み出す足は、何かに引っ張られているんじゃないかと思うほどに重く、吸い込む空気は絞り忘れた雑巾のように、不快にベタつく。

ともすれば、気がおかしくなってしまいそうな時間だった。



「なぁ、いないのか」


 声は、虚しく闇に消える。

喉の奥を、掻きむしりたくなるような焦燥だけが増していくばかり。


 まさか、こんなにも苦しいものだったとは。

話に聞いた時、さほど難しくは感じなかったというのに、この試練は間違いなく我が人生で最大の難関だった。

 しかし、乗り越えなければまたあの笑顔は見られない。

もしかしたら、また得られるかもしれないその幸福を目指して、今はただ進むしかなかった。



 そして、その瞬間は、唐突に訪れた。

 視界の先、永遠に続くかと思われた闇を切り裂いて、真っ白な光が眼を焼いた。

あぁ……。と勝手に声が溢れていった。

超えた。この試練を。ついに。


「ついたぞ……着いたんだ」

 この時のために、この無限地獄を歩き続けた。こうして光の世界に、二人で戻るために。

「君のためなら、どんな試練だって超えられる……。帰ろう、我が妻よ」

 万感の思いで振り返って、目に飛び込んできたものは。




 かつて共に笑い合った妻の姿ではなかった。

目があった場所は、黒く虚な穴だけがある。

頬は痩け、体はやせ細り、至る所から骨が除く。

白骨にぶら下がるのは腐った肉。

 かつての面影は何処を探そうとも、見当たらなかった。


 ひくっ、と喉の奥が鳴る。

鳥肌がゾクリと全身に立ち、足が笑い出す。

妻だったものが、ついに口を開いた。

 あれだけ聞きたかった声。しかし、今は聞きたく無いと思ってしまった声。

しかし、目の前のものの口は止まらなかった。


「ミナイデクレト、イッタノニ」


 その声は、怨嗟と憤怒で染まっていた。

おどろおどろしい奇声をあげ、腐った肉をぼたぼたと落としながら、それはこちらに走ってきた。

 殺す気か。間違いなく、今心に飛来した感情は恐怖だった。


「すまない……」


 試練を失敗した私に、できることなんてもはや無いと、どうしようもなく痛感してしまった。

 すまない、すまないと。命乞いのように謝り続け、私は妻だったものに背を向けて、逃げ出した。



 光の中に飛び込んで、近くにあった手頃な岩で、その道を塞ぐ。

少し遅れてたどり着いたらしい相手は、岩をどんどんと叩きながら声ならぬ声を上げていた。


「すまない……。許してくれ……」


私は必死に岩を押さえつけながら、泣いて謝ることしかできなかった。

 数瞬にも、数時間にも思われた時間が過ぎた後、やがて衝撃が収まり、奇声が止まった。



「マイニチ、オマエノクニノニンゲンヲ、センニンズツ、コロシテヤル」

 歯軋りするような、治らぬ怒りを含んだ声音だった。

悔しさ、情けなさ、悲しさ。私はもうどうにかなってしまいそうな程の感情の波に攫われた。


「ならば、私は毎日千五百人を産もう。君と作ったこの国を、君自身に滅ぼさせるわけには、いかない……」


 応えた声はもう意味を宿していなかった。

その寄声は数時間も続き、いつしか眠るように収まっていった。


 呆然と、私は岩に背を預けて座り込んだ。

どうして振り返ってしまったのか。

どうして、妻を助けてやれなかったのか。

後悔の念がひたすらに胸の中で暴れていた。





 ふ、と。甘い香りが鼻腔をくすぐった。

ちらと匂いの元を探ると、そこには一本の桃の木が生えていた。

 枯れたはずの涙が、再び溢れてくるのを抑えられず、視界が濡れて歪み出す。


「あぁ……我が妻は……イザナミは、桃が好きだったな…………」


 彼女が亡くなった日の朝も、桃を食べていた。火を司る神を産み、その炎に撒かれて死んだ日に。

「イザナギ……我が夫よ、泣くな。きっとこの子は人間にとって大事な役割を果たしてくれる筈だ」

火炎の中で、彼女は愛しそうに産まれたばかりの神を抱いていた。

「名はカグツチ。きっと、優しくて……暖かい神になる……筈…………だ……」

「イザナミ!」

「さらばだ……我が夫よ」

 死ぬ瞬間まで。いや、死んでからも彼女の表情は柔らかな愛で満ちていた。

焼け落ちていく彼女の姿はよく覚えている。それがどれだけ辛い光景だったかも。



「カグツチ……」

 妻を死に追いやった神。

 燃え盛りながら産まれ落ち、親を殺す禁忌を犯した神。



ーーどうしても、私は許せなかったんだ。






 何処か、暗くて寒い、無限に広がる黄泉の何処かで。

自責と後悔に苦しみ続ける神が、今日も独りで静かに座っていた。


 ああ、私は何故。


 何百と繰り返した言葉を今一度。


 何故、産まれてきてしまったのだろうか。


 永遠に答えの出ない自問自答。

それが心を蝕み続ける。


何故。何故。親である神を殺し、親に神殺しの罪を背負わせただけの私は。

何故、産まれてきてしまったのだろうか。



 その神の名は。

火を司る神、カグツチ。

黄泉の何処かで、彼女はただ、苦しんでいた。






 人の寿命は、こうして決まった。

この神話は、その限られた時間で人から人へと伝わっていき、今も語られる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ