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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

静かな湖畔の森の影から男と女の悲鳴がする

作者: 印堂宗光

 積極的なのはヤブでおれは消極的だった。

「気分転換にちょうどいいとおもわないか?」

「指を咥えておまえたちを眺めてろって、か」

「月を称えるには地べたを這いずる泥亀が必要だよ」

「はっきりいうな、おい」

「せっかくの休みをひとりでいたってより惨めになるだけさ」

「違いねえ」

 おれはぬるくなったビールに口をつける。


 愚痴はいったが、腹のなかでは決まっていた。

 よかれとおもっての提案である。特に、おれを慰めるために居酒屋に呼び出し、テーブルにところ狭しとならぶ料理とアルコールがあいつの支払いとあればおれに嫌も応もなかった。

 ただ、ちょっとだけ情をつくして説得してもらいたかっただけだ。

 誤解されることが多いが、存外におれは繊細だ。


 ヤブとオタとおれは同じ空手道場で汗を掻いた仲だ。

 と、いっても二年たらずだけど。

 おれがギブアップする前に道場が根をあげちまった。

 数ある習い事のひとつと分類されたら空手は不利だ。わが子が殴られることを嫌う母親は多い。うちは例外だ。母の同級生がいじめで不登校になったのを見てるから、最低限、身を守る力はあったほうがいいという判断だ。

 

 母のアドバイスの十に九つは見当違いもいいところだが――背中が痒くて掻きむしって服が血で汚れたら洗濯が大変だから我慢しろっていうんだぜ。我慢できるていどの痒みなら血がでるまで掻かねえっつうの――これには感謝している。

 喧嘩はいけません、人類皆兄弟、戸締まり用心火の用心は置いといて、話せばわかるのお花畑精神を説かれてたらいじめっ子の格好の的だ。力があれば余裕が生まれる。いじめをする奴は従順なサンドバッグが欲しいだけで反撃される可能性のある相手は避ける。クズは想像力の欠如で他人の痛みに鈍感な代わりにじぶんの痛みに敏感だ。よくある、いじめられてた子がなにかがトリガーになって――弁当を捨てられたとか、伝書鳩を握り潰されたとかで――反撃に転じ、二・三発喰らっただけで威ばり散らしていた野郎が泣きわめいて許しを請うのはあながちない話じゃない。だから、おれが対象になることはなかったし、おれは空手経験者のなかでは下から数えたほうが早いレベルだから腕試しと不良に狙われることもなかった。


 それなりに楽しい学園生活が送れたのは空手のおかげだ。

 学区は違うが、年が同じで、三人とも親の意向で人を殴ることに情熱があったわけじゃないという共通項があってすぐに打ち解けた。

 道場が潰れてからも遊ぶ仲だ。

 それで、今回の旅行である。

 珍しく三人とも彼女ができたので、だったら同伴でヤブの親戚が経営するペンションへ割り引き料金で繰りだそうという話になった。


 おれに異論はなかった。

 三者三様でそれぞれ好みがまったく違う。面倒なトラブルになる可能性は低い。どこか旅行にでもとおもっていた矢先だったのでその提案は渡りに船だった。

 ところがである。

 直前になっておれはひとり身にもどった。

 振られた経緯は省く。じぶんで傷口に塩をすりこむことはしたくない。

 いかにおれが因果の縦軸でカサノヴァの霊統を継ぐ色男ロメオだとしても五日の猶予は厳しい。そもそも、たった五日で人里離れたペンションまで引っ張れるやさぐれ女などこっちから願い下げだ。誤解されがちだが、おれは存外にロマンチストだ。

 そこで、水を差すのもあれだと辞退しようとしたらヤブに留意されたわけだ。

 オタも同意見だという。

 なんなら、妹を紹介してもいいという。

 持つべきものは友とはよくいったものだ。

 罰ゲームはごめんなので気持ちだけありがたく頂戴することにした。


 おれの気持ちと反比例して空は雲ひとつない晴天だ。

 最寄り駅からバスで揺られて一時間。そこから天気もいいことだし歩こうということになって寝不足と昨夜の酒が残るおれは、

「おれに構わず先にいってくれ」

 ドラマの登場人物みたいな科白が喉からでかかったまさにその時に目的地についた。時計を確認すると十五分ほど歩いたことになる。もう五分ほど遅かったら、多分、吐いていたとおもう。


 湖畔にひっそりと佇む白亜の洋館である。

 真新しいところを見るに築浅かリフォームしたか。

 観光業は景気が悪いと聞いてたがここは例外らしい。

 オーナーはうっすらとヤブに似ている。食の細いヤブと対照的にコロコロと太っている。瀟洒しょうしゃなペンションのオーナーというより大衆食堂の大将といった趣である。ヤブが糖質を親の敵のように嫌う一端がこれで窺えた。神経を尖らせるオタと対照的にスーパー銭湯の髪が軋むシャンプーが平気な理由もわかった。

 おれは荷物を置くと釣り道具を手に部屋をでた。なんの因果か――水分補給に勤しんでいて希望をいわなかったからだが、左右をオタとヤブに挟まれる形だ。今夜も寝つきが悪くなるかもしれない。


 ロビーにオタとヤブがいた。

「これから遊覧船に乗ろうとおもうんだけど、一緒にどう?」

 ヤブが誘う。

「悪いね」

 おれは折りたたみ式の釣り竿を見せる。

「のんびりしようとおもって」

「歩いてた時、顔色悪かったしね」

「診察は医師免許をとってからにしろ」

 オタはオタ好みの黒髪ポニーテールの地味目な子と、ヤブは逆に眉毛の細い、無駄にサラシの扱いに手慣れてそうな茶髪の子を連れだってペンションをでる。


 遊覧船や商業施設は湖を挟んで反対側にある。またぞろ、天気もいいことだしふたり乗りの自転車を借りるという。これは朗報だ。曲がりくねった道を往復で六キロ。行きは好奇心で踏破しても、帰りは後悔にペダルを漕ぐ足が重くなる。バーベキューとその後の花火でこき使えば静かな夜になりそうだ。

 ついでにいうと、ふたりの女の名はしらない。一応、自己紹介したがすぐに忘れた。体調の悪さもあったが、覚える気がなかった。推定Bと推定C、実際は下のサイズの可能性が高い彼女らでは目の保養にもならない。どうせ、この先、関わることはないだろう。もし、披露宴で高島田の彼女らを見ることになったらお詫びに祝儀ははずんでやる。友人代表のスピーチは土下座されたって断るが。


 鬱蒼と水草が生い茂っている。その隙間を縫うようにタナゴが列をなして泳ぐ光景におれは少し、口の端が緩む。合理的な判断のできる者がいたらしい。いつだったか、義理がけついでに――三度目の披露宴となると祝儀という言葉は抵抗がある――寄った湖は、水草が多いと景観を損ねるという短絡思考で草魚を放流した結果、小魚が減って生態系に支障が生じている。資本主義の原則に則って観光客の眼汚しになる水草を減らして利益の最大化をはかった結果、不景気で客足は落ちているのに外来種の駆除に予算を割かねばならないとはなんとも愉快な話だと肩をすくめるおれは、懸賞で届いた蟹を貪り食らってめでたく甲殻類アレルギーを発症したマヌケだ。

 釣り場は先客がいた。

 よれよれのジャージ姿だから地元民だろう。痩せこけた老人だ。

 おれは軽く会釈する。

「旅のもんか?」

 ぶっきらぼうな声。観光業に従事していないことがこれで明白になった。

 おれは感じの悪い奴に愛想を振りまくほど人ができていない。

 無視すると、

「この辺はぶっそうなことが多い。夜は気をつけろ」

 そういうと興味を失ったようで因業爺はウキを見る。


 おれは二十メートルほど老人から離れた位置を陣どった。

 自前の釣り竿を持ってるのだからいうまでもないことだがおれは釣りが得意だ。小学六年の時に親の転勤で引っ越すまで、家の目と鼻の先に海があったのでよく釣りをしていた。金がかからない遊びだし、いいものが釣れたら晩ご飯が豪華になる。あの頃はアホだったから糸ミミズも平気で触れた。

 今でも、暇を持て余した時は釣り堀に行くので腕は落ちてない。

 今回は餌に芋ようかんを使う。

 釣具屋で売ってるのではなくて食用の芋ようかんである。デパートで買い求めた高級品だ。おれはこの世で、一番、うまい菓子は芋ようかんだとおもっている。それを食いながら、釣り針につける。


 魚も存外にグルメらしい。三十分のあいだにヘラ鮒が三匹も釣れた。

 おれは釣果に気をよくした。

 いつの間にか、偏屈爺はいなくなっている。

 もう、三十分ほど続けて五匹ほど釣ると切り上げた。

 部屋に釣り道具を置くとロビーにもどる。

 貸し切り状態だから誰に遠慮することもない。

 おれはソファーに腰をおろすとタブレットの電源をいれた。五百グラムに満たない機械に本が百冊以上はいるのだから読書家にはありがたい世の中である。

 ネットが普及する前の作家のエッセイを読むと、バッグに五冊ほど本をいれて旅行したとの記述があるが、重さもさることながら、選別が大変だったはずだ。その時の気分にあわなかったら徒労に終わる。

 とはいえ、電子書籍にも難点はある。紙の本と較べて積み本が増えた。いつでも気楽に買えるというのは罠だ。

 部屋でできることをわざわざ紙コップのコーヒーに金を払って外でする人がいるように、環境が変われば気分が変わる。

 BGMにジャズを薄く流す。歌はない。あるとそちらに気をとられる。

 おれはオタとヤブがもどるまで本の世界に没頭した。


 バーベキューについて特にいうことはない。

 あれは雰囲気ものだ。

 口さがない連中のいう、適当に焼いた肉を埃まみれのなかで食う蛮行は正鵠を射ている。

 その点、花火は文句なしによかった。

 人混みのなかで六尺玉を見るのも迫力があっていいが、眼前で可憐な黄色やオレンジの火花が散っていく光景もこれはこれで趣がある。おれは中学三年の夏以来の手持ち花火に熱中した。

 特に、オタがその名に恥じぬ凝り性で用意した国産の線香花火は情緒があった。


 ここらであだ名について話しておくとしよう。

 オタははそのままだ。オタクだからオタ。美少女アニメからマンホールの蓋までと総合商社なみに守備範囲は広い。

 ヤブは薮医者の藪から。

 医大生だからこいつがヤブかどうかはまだわからない。

 手先が不器用だからなんとなくだ。

 医者の息子だけあって金持ちだが、それをひけらかすことがないのがいい。ま、おれもオタもどちらかというと裕福の部類にはいるが。

 ふたりがあだ名なんだから、当然、おれにもある。

 おれはヘンだ。

 変人の変からきている。

 おれに自覚はないが、ふたりにいわせるとそうらしい。

「矯正で右手を鍛える人は多いけど、ハードボイルド小説の影響で左手を鍛えて器用に箸が使えるようになった人を普通とは呼べないね」

 これはヤブで、

「おれもいろんな奴と交流してきたが、SFアニメは小難しい世界観ときわどい衣装のヒロインたちのぶるんぶるん揺れる胸のマリアージュが最高なんてけったいな持論はおまえくらいだ」

 こちらはオタだ。

 失礼な話だが、訂正するのも億劫でおれは受けいれた。

 ヘンを断ったばかりに、紅顔の美少年のコウになったら気恥ずかしくてかなわない。


 おれはロビーに居残った。

 部屋にもどるのがなんとなく惜しかった。

 気分が高揚してるのだろう。

 おれはタブレットでテレビ番組を見ている。

 竹刀で脛を叩かれた芸人がのたうちまわる姿に腹を抱える。

 バラエティー番組の特番である。

 余計な情報を挟んでこない貴重な番組だ。顔ぶれも中堅どころなのがいい。そこまでガツガツしないし、なんでこんなのがと首を傾ける、若手のごり押しがないのも好感が持てる。

 ドラマの三番手が見たことのない新人で、しかも、棒読みで、なんでこんなのに美味しい役をと首をかしげていたら、後に親の七光りと判明したことは二度や三度では利かない。

 以前のそれと較べてセットが寂しくなった感じがするのは気のせいではないだろう。テレビ離れがいわれて久しい。娯楽が多様化すれば、相対的に地位が落ちるのはむべなるかな。なのに、昔の感覚が抜けきらずにブームはじぶんたちが作ると驕り昂っていたら、そりゃ、そっぽをむかれる。

 かくいう、おれの部屋にもテレビはない。

 表向きはそうなっている。


 ああ、そう、そう。

 一応、釣り場で遭った愛想のない老人のことをヤブにだけ話した。オタは験を担ぐタイプだから黙っていたほうがいいだろうという判断だ。

「からかってるんだよ」

 ヤブがいう。

「やっぱり、そうか」

「今のご時世、物騒な事件があったらすぐにわかる。そんな話は聞いたことがない」

「マナーの悪い旅行客がいて嫌なおもいでもしたのかもな」

「たしかに、ゴミの不法投棄はここでも問題になっている」

「じぶん以上のゴミはないから、バーベキューの炭やビールの空き缶をポイ捨てしても、悪いことをしているという自覚はないのだろう」

「最悪のゴミは持ち帰る訳だから大目に見ろ、ってか。相変わらず辛辣だ」

「ゴミについての言及だからさ。ヤブの彼女についてなら美辞麗句で飾ってる」

「よせやい。心にもないくせに」

 ヤブは苦笑する。

 

 世界が黒に染まったのは、くさやの臭いに坊主頭の芸人が嗚咽していた時であった。

 停電のようだ。

「まいったな」

 おれはひとりごちる。

 ペンションのオーナー夫婦は急な用とかで出払っている。

 スマホをとりだして、おれは柄にもなく舌打ちした。

 圏外である。

 ペンションのルーターが停電で使えなくなったのはわかるが、スマホはアンテナ三本あることを到着早々に確認している。それが消失したということは麓で大きな事故でもあったか?

 ドン、となにか大きいものが地面に衝突する音が聞こえた。

 おれはスマホをしまうと代わりにペンライトを手にした。

 金属製でぶん殴るのにも適した優れ物だ。玄関の鍵穴を照らすために買った。夜中に鍵穴がわからずに手間どるのはなに気にストレスが溜まる。

 持ってる理由を訊かれた時にそう応えると、

「百円ショップのプラスチック製で充分だろ」

 男のロマンは守備範囲外のオタは情れなかった。


 満天に星がでている。

 朴念仁のおれでも北斗七星くらいわかる。

 大きかった。街中でうっすらとわかるそれとは段違いであった。

 これならドルイドの神官が空が堕ちてくると怖れたのも頷ける。

 中天に浮かぶ月は幽鬼のように白い。

 長いこと人の営みを見てれば嫌気もさすだろうよ。

 おれは足元を照らしながら音のしたほうへ向かった。

 ――栞がいた。

 ヤブの彼女だ。バーベキューと花火の時に話して、紫色のジャージでコンビニに出没しそうな見た目に反して気だてがよかったので、推定Cから栞に昇格した。おれには人より格段に優れていることが顔以外にもうひとつある。おれは耳がいい。初対面の相手でも五分、十分も話せば微妙な声音の違いでそいつの精神状態がわかる。彼女は、終始、おれに好意的であった。おれはおれを好いてくれる者を好む。ちなみに、オタの推定Bは腹黒さが透けて見えたのでそのままだ。


 人は想定を遥かに超えるトラブルに見舞われるとかえって冷静になるようだ。

「せっかく、覚えたのに無駄になったか」

 首が人体の構造上、ありえぬ角度に曲がっていては脈をとるまでもない。

 できたてホヤホヤなので血色はよかった。

「こんなところで寝てたら風邪引くぞ」

 と叱ったら、不承不承ながらおきてきそうな……ふむ、どうやら落ちついてはいるが、まともからはかけ離れた精神状態にあるようだ。

 即死である。

 最小限の苦しみで逝けたのは不幸中の幸いである。

 普段なら助かる外傷も救急車が呼べないんじゃどうなるかわからない。おれにできる応急処置は誤飲と打ち身くらい。生きてたら無駄に苦しみが長引くだけになりかねない。かといって、介錯はご免だ。自殺幇助罪は懲役二年相当の犯罪である。苦しみ悶える栞の手をとってその時まですごすのもしんどい。

 酷薄なようだが、その任は出会って四秒――じゃなかった、出会って半日のおれじゃなく、家族や親友や突きあった果報者がするべきだ。彼女だってそのほうが心休まるだろう。


 びゅうと風が鳴った。

 顔から五センチほど離れた位置をなにかが飛燕の速度で通過した。

 危なかった。

 趣味は時に実用になる。アクション映画の模倣でペンライトを逆手に持っていて助かった。普通に持ってたら――近くにあったら、まず、当たってただろう。

 おれは音のした方向にペンライトを向けた。

 光輪に旧式のホッケーマスクをつけた野郎が浮かんだ。

 オーバーオールを着ている。着ぶくれしてなきゃ男だ。

 レーティングが厳しくなったこのご時世に古きよき殺人鬼ときたか。

 ゼロと一の世界を介してなら交流を深めるのもやぶさかじゃないが、人里離れた湖畔のペンションでそれは勘弁願いたい。

 ボウガンを手にしている。

 二の矢を継がれたらかなわん。

 おれは空手しか習ってないので返し矢はできない。

 強烈な光にホッケー野郎がたじろぐ隙におれは逃げた。

 胸のうちで栞に手をあわせながら。


 ホッケー野郎がいたのはヤブの部屋だ。

 栞はそこから突き落とされたことになる。

 ヤブは?

 真っ先に殺られてる可能性が高い。

 おれが殺人鬼の立場で男女がいたら男から殺る。女をまず撃てというのはテロリストの場合だ。リスクのより高いほうを先に排除するのはしごく当然のことである。九九が六の段までいえるていどの教養があればそうする。

 仮にホッケー野郎が、ゲームと漫画が教科書代わりの文化人だったとしても、殺人に快楽を覚えるふざけた野郎なら、美味しいものは時間をかけて堪能したいだろうから男から殺るはずだ。


 どこからかフクロウの鳴き声が聞こえる。

 おれは足音に注意しながら木々の間を歩いている。

 ペンライトの光量は最小に絞ってあるので視認性はきわめて悪い。

 力つきる目前の常夜灯みたいな音は周囲を飛ぶ虫の羽音だ。前もって、虫除けスプレーを噴霧しといてよかったとしみじみおもう。

 開けた場所は歩きやすいが、いかんせん、目だつ。

 湖を挟んで反対側――遊覧船や飲食店のある側を目指して道路を進むのは鴨がネギ背負って向かうようなもんだ。

 太陽が東から顔をだすまで気息を絶って隠れるのが懸命だ。

 明るくなればなんとかなる。

 憧れてホッケーマスクをつけてるのだとしたら人目くらいで諦めやしないのかもしれないが、その時はその時だ。台所で包丁なり、物置小屋からスコップなり得物を拝借して返り討ちにするとこともできるし――第二次世界大戦のモスクワ攻防戦の塹壕で役だったのがスコップである。野暮を承知でいうと、この場合はデカイ穴を掘る用だ。シャベルとスコップは地域によってサイズが変わるのでややこしい――湖を泳いでわたることもできる。おれは泳ぎは得意なほうだ。授業で水泳部の連中を歯噛みさせていた。

 

 要するにかくれんぼである。

 こんなにひりついた勝負は初めてだが――。

 朝になれば攻守交代でおれが鬼だ。仲間の敵だ。膝を潰してやる。これくらいなら正当防衛ですむ。国選は心もとないが、高層階に事務所を構える弁護士ならお手のものだろう。かくして、ホッケー野郎は獄中で、スウェットと即席麺を交換したり、大型洗濯機の影で尻を掘られたり、その広がった尻の穴を活かして運び屋をすることになる。せいぜい苦しめ。膝が故障してるんじゃカーストの上位は望めまい。そうじぶんを鼓舞して足のとられやすい隘路を進む。

 三つ子の魂百まででステルスゲームをするおれならうまくやれるはずだ。


 悲鳴が聞こえた。

 それはオタの声であった。

 クソったれ。おれは心内で毒づいた。

 あの莫迦、浮かれて外でいちゃついてやがったのか。

 おまえらはオタクで、アメフト部員とチアリーダーのカップルじゃないんだから、おとなしく部屋にこもってアニメを見るなり、ヘコヘコと腰を振るなりしてりゃいいんだよ。

 それは殺ってくれといってるようなものだ。

 こんなことなら因業爺の件をオタにも伝えておけばよかったと後悔が……ま、部屋にいたら安全とはならないか。栞は窓から落ちて脛骨を折った。

 おれの美点であり欠点は切り替えが早いことだ。

 後悔は、その名の通り、後でたっぷり悔やめばいい。

 おれが生き残ることが先決だ。ついでに助けられる者は助ける。

 おれは気配を消して音のするほうへ向かった。


 そこはバーベキューに使った場所から少し奥まったところである。

 ソーラー式の常夜灯があるので視界も開けている。

 物好きがキャンプする場所か?

 自立式のハンモックがあった。

 用意のいいことで。ペンションから引っ張りだしてきたのだろう。オタでこれだ。解放感とはげに怖ろしいものである。高校時代、夏休み後に隣の席の女が急に色気づいたのもむべなるかな。

 さて、そろそろ現実と向きあいますか。

 矢が白樺とオタを繋いでいた。

 栞と違ってこちらは断末魔の形相だ。

 戦利品が欲しかったのか、左の小指のつけ根から緋色の液体が垂れている。

 こうべを垂れている姿は聖職者然としている。やや、小太りなのがそぐわないが。

 おっと、茶化してるわけじゃないんで非難がましい目はやめてくれ。

 真摯に受けとめたら心が保たない。

 ホッケー野郎はボウガンから鉈に持ちかえている。

 腰が抜けて、声をあげることすらできずにいる推定Bを切り刻む腹だ。

 女の恐怖に歪む顔が嬉しくてしょうがないらしい。

 もったいぶってやがる。


 おれは慎重に背後から近づいた。

 チャララーンと脳裏にトランペットの音色が流れる。

 ここにくる途中に折った枝をホッケー野郎の首筋に――クソッたれ、弾かれた。なにか硬いものを着こんでやがる。

 銀線が宙を薙いだ。

 振り向きざまに放ってきた鉈をペンライトで払うと、おれはホッケーマスクの――ちょうど目のあたりに拳を叩きこんだ。

 クソ痛え。

 指のつけ根の皮膚が裂けて出血してる。これ、ヒビがはいったかもしれない。拳は存外に脆い。だが、ホッケー野郎も目を押さえてるので痛みわけということで。

 ホッケー野郎が駄々っ子みたいに鉈を振り回す。

 痛みで目が開けられないようだ。

「逃げろ。朝になるまでどこかに隠れてるんだ」

 推定Bが呆けた面でおれを見る。

「――連れてってくれないの?」

「小便臭いガキは苦手でね」

 オタの彼女だから相応に扱った。そのオタが亡くなった。小便を洩らした腹黒女に配慮は不要だ。こんなのと同行したら死亡率が跳ねあがる。狭い世界だからもてはやされているだけの、容姿と釣りあわない気位の持ち主など、おれにいわせりゃ雨ざらしで錆び錆びの放置自転車一台の価値もない。――極度の興奮状態にあるから柄にもなく口が悪い。


 おれは大きな木に登った。

 そこで夜が明けるのを待った。

 睡魔はおれの怒りに怖れをなしている。

 脳裏で音楽がガンガン流れている。

 当然、アップテンポの曲だ。なんでもいいから記憶の引き出しから引っ張り出したって感じだ。バラードは意地でも断る。切ないだの、会いたいだの、震えるだの、作り手の腹のたしにしかならない陰気な言葉に耳を傾ける余裕はなかった。

 近くでなんどか足音が聞こえた。

 真下にきたら飛び降りてやろうとおもったが、残念なことにその機会はなかった。


 鶏の鳴き声に初めて感銘を受けた。

 そこで一句。

 友だちが殺らてたけど、ぼくは辛くも逃げおおせたので○月○日は鶏の鳴き声記念日。――才能がないな。チキンバーレルで祝うにとどめておこう。人間だもの。

 空は光と闇がせめぎあい、薄墨を流したような様相をていしている。

 おれは木から降りた。

 慎重に慎重を重ねてペンションにもどる。

 またぞろ、ペンション裏手の木を登り、そこからベランダへ跳び移る。

 入り口で仁王立ちするホッケー野郎と鉢合わせしたら洒落にならない。

 窓ガラスを割って侵入する。

 少しだけ悔しかった。またとない機会である。どうせなら、ライターで炙ってから水をかける手法を試してみたかった。


 おれの部屋へ向かう。

 部屋は荒らされた形跡はなかった。バッグからフィッシングナイフを取りだす。刃渡りは短いが、格好はいかついので押しだしが利くそれを身構えながら、足音に気をつけながら、階下へ。

 ヤブの部屋を覗こうか、一瞬、迷ったが進んで嫌な気分になることはない。

 おれは額の汗を手の甲で拭う。

 まずは、キッチンだ。

 冷蔵庫を開けてコーラのペットボトルを手にする。

 つまみはどれがいいだろう。

 食い物がいっぱいあるのに我慢しなきゃならないとはツラい話だ。今なら糖尿病患者の悲哀がよくわかる。腹いっぱい食いたいがそれをすると動きが鈍くなる。眠くなる。ホッケー野郎の土手っ腹に風穴あけたはいいが、おれも刺されて腹膜炎で死亡じゃあの世でヤブに笑われる。

 おれはチーズを選んだ。

 猫と仲よく喧嘩する茶色のネズミが好みそうな穴だらけのそれを、すっかりぬるくなった黒液で胃の腑に流しこんだ。

 小さくゲップする。

 血糖値を気にしてゼロキロカロリーにしていたのがアホらしくなるほど、砂糖とカフェインの濃縮液は美味かった。


 せっかくだから包丁を探すが見つからなかった。

 おれは首を傾げた。

 用心して鍵のかかる戸棚にでもしまったか?

 どっちが?

 オーナーか、ホッケー野郎か。無難に考えれば前者だろう。

 外からエンジン音が聞こえた。

 音から察するにオーナーの車だ。

 ここからじゃ見えないので反対側の空き部屋の窓からそっと覗く。

 車から降りたのはやはりオーナーであった。

 酢を飲んだみたいなしけた面をしてる。

 同乗した奥さんの姿はなかった。

 ロビーでおれと対面したオーナーがたじろぐ。

「早いね」

「ろくに眠れなくて」

「わたしもだよ。どこかの工場が火災で停電だ。復旧の目途はまだらしい」

 肉や魚が台無しだ、とオーナーはこぼす。

「眠れないのはそれだけじゃないけど」

「喧嘩でもしたのかな?」

「オタの野郎をぶん殴ってやりたい気持ちはあるが」

 おれはポケットに忍ばせたフィッシングナイフの柄を握りながら、

「殺人鬼に襲われた」

「――?」

「ホッケーマスクにオーバーオールの古式ゆかしい殺人鬼に襲われた」

「冗談……だよね」

「嘘が下手だな」

「おいおい、なにを――」

 残りの科白は口中に留まった。

 おれのスニーカーを腹でうけとめたオーナーは崩れ落ちた。

 

 夜食の残滓が床に散る。

 肉の塊があった。のっぴきならない用事で飛びだして、停電に見舞われたっていうのになんとも優雅なことで。

 おれは希少な髪の毛を掴むと首筋にフィッシングナイフを当てた。

「おれが生きていることに納得がいかないようだな」

「なにか誤解してるんじゃないかな。わたしは別に」

 皺深い首筋に細く緋色の線がはしった。

 オーナーは小さく悲鳴を洩らす。

 金切り声でおれの神経をすり減らさなかったのは及第点だ。

「晩ご飯が食べたかったら変なことは考えるな。この手荒い歓迎会にいらだってるんだ。今ならカリギュラも羨む方法であんたをもてなすことができそうだ」

 双眼にナイフが大写しのオーナーが小さく頷く。

「背格好からしてあんたがホッケー野郎じゃないのはわかっている。声音にうっすら嫌悪感があることから察するに、共犯ではなく、従わざるをえなかったってのが真相だろう。誰がなんの目的でこのくだらないパーティーを開いたのか包み隠さずいうのなら命は見逃してやる」

「――しかし」

 オーナーは床と情熱的なキスをした。

「いらだっているといったはずだ」

「いえば、妻と子が殺される」

「それが?」


 起死回生の手が空振りに終わったオーナーが口ごもる。

「脅されて一回こっきりなら同情の余地はあるが、たぶん、そうじゃ、そうじゃないだろう。人の生き血で育ったガキなんざクソ食らえだ」

「女房、子どもに罪はない」

「おれたちはカインの末裔さ」

 髪を掴む指が白い。

「十秒以内にいわないと、そのひん曲がった鼻を削ぐ」

 おれの剣幕にオーナーは怖れをなす。

「わたしに命令したのは――」

 重い口を開いた次の瞬間、小さな痛みを背中に受けると電流が全身を駆け巡った。こういうのはいい女を見た時に感じたかったな。

 おれは倒れた。

 映画のお約束だと気絶するところだが、意識は健在である。

 四肢が脳からの電気信号を拒絶している。

 視認できないが、得物は想像がつく。

 テーザー銃だ。わかりやすくいうと遠距離攻撃ができるスタンガンである。細い銅線の先についた棘状の電極を相手に飛ばす。

「ヘンは妙に察しがいいから細心の注意を払うよういったはずですよ」


 おれは両手両足を拘束された。

 水道管の補修テープでグルグル巻き。欧米か。

 椅子に座ったヤブがおれを見下ろしている。

 サングラスで目を隠している。おれのパンチは効いたようだ。

 オーナーは背後にいる。使用人然である。仲のいい叔父と甥の関係はやめらしい。他人の空似だったわけだ。

「驚いた?」 

 その通りなので、おれは素直に頷いた。

「虫も殺さないタイプだとおもってたんだがな」

「必要に迫られたら嫌でも手を汚すよ」

「冥土の土産に理由を教えてくれないか」

「たしかに知る権利はあるね」

 ヤブは頷いた。

「ちょっと長くなるよ」

「ちょっとでも長生きしたいんでかまわないさ」

「さすがはヘンだ。腹が据わってる」

「そうでもない。今なら誰よりもうまくシェーカーが振れそうだ」

 必要に迫られて――ビジネスライクな奴に泣き落としは無駄なのでおれはやせ我慢を貫いた。友情を再確認すりゃ楽に殺ってくれるかもしれないという一縷の望みを賭けて。断じてストックホルム症候群なんかじゃない。機会があればヤブの首筋に歯をたてている。だが、おれは両手を縛られているので、幸運の神がミノキシジルで現状維持に努める前髪を掴めそうになかった。


 ――おれは大学を卒業すると大手の銀行に就職した。

 おれが在籍した大学は比較的、上位なのでそこに就職した者はそれなりにいるが、おれが選ばれたことは事務員に驚きをもってうけいられた。

 驚いたのはおれも同じだ。

 もっと驚いたのは弟だ。

 大手銀行なら文句のつけようがない。かくして、弟が親父の会社を継ぐことになった。絵が描きたかったのにとぼやいているが仕方がない。人生とはままならないものだ。おれよりいい大学をでて、おれより頭のいい同僚をさしおいて、馬子にも衣装でオーダーメイドのスーツを着て、お偉いさんの鞄を持ってあちこちの食事会やパーティーに参加して人間嘘発見器ポリグラフになるなど誰が想像できよう。


「いわゆる成人の儀式というやつだよ」

 ヤブがいう。

「これをしないと一族とみなされないんだ」

「野蛮だな」

「仕方がないさ」

 ヤブは肩をすくめる。

「うちは傍流の傍流だからたいしたことないけど、卑弥呼の時代より古くからこの国を裏で支えてきた一族ともなれば時代錯誤の風習のひとつやふたつ残っているものさ」

「中二病は中学で卒業しろ」

「やっぱり、気があうね」

「なら、拘束を解いて飲みに行こうぜ」

 まだ、話が終わってないよ、とヤブは苦笑する。

「ぼくも最初に聞いた時はそう思ったよ。しかも、殺る相手は誰でもいいわけじゃなくて、心にダメージを負う相手――深い交友がある人がいいときた」

「それでおれとヤブを。――だったら、なぜ、女たちを?」

「手にかけた? 慣らし運転さ。いきなり、オタとヘンを手にかけるのは気が引けて」

「心遣いに感謝するよ」

「いえいえ、どういたしまして。ついでだからいうけど、ぼくがこのことをしったのは三ヶ月前なんだ。重要な家のひとつが嫡子の急逝で後継ぎがいなくなってぼくに白羽の矢がたったんだ。皮膚科医になって粉瘤でも潰して小銭を稼げればいいかなっておもってたのに――うまくいかないものだね」

「まったくだ。おれも親友に踏み台にされるとはおもってもみなかった」


「それなんだけどね」

 朗報があるんだ、とヤブが相貌をほころばせていう。

「ヘンは気づいてないだろうけど、あちこちに監視カメラがしかけてあったんだ」

「雲の上の存在はペルシャ猫を抱いてブランデーをくゆらせながらマンハントを楽しんでたってことか。――で、おれは面がよくて機転が利いて動きに切れがあるから、殺すのは惜しい、タレント事務所に突っこんでアイドルさせれば金の卵を産む鶏になるとでも判断したか?」

「惜しい。半分はあってる」

「そりゃどうも」

「顔は置いといて、優秀な若者をあたら散らすのはもったいない。朝まで逃げおおせたのは百年ぶりの快挙ってことで、うちの一族に迎え入れようって話になった」

「そりゃ、光栄だ。三顧の礼で迎えてくれるというわけか」

「信じていないね」

「うまい話は信用するなというのが小豆で下手うった先祖の遺訓だ」

「百聞は一見にしかずさ」

 ヤブが顎をしゃくる。

 後ろに控えていたオーナーが恭しくノートパソコンを差しだした。


 ――うっかりぶつかりそうになったおれは慌てて身をひるがえした。

「すいません」

「気にしないでください」

 女が艶然と微笑んだ。おれと同年代くらいの女だ。背丈も同じくらい。着ている辻が花でどういう立場の者か一目瞭然であった。

「疲れているようですね」

「疲れがないといったら嘘になりますが」

 嘘をついても仕方がないので正直にのべる。

「それより、戸惑いが強いですね。急に生活が一変しました。あまりにトントン拍子なので、時々、夢でも見てるんじゃないかと疑ってしまう時があります」

「そうかもしれませんね」

 吊り書きでおれの近況をしる彼女は首肯する。

「目の前に美しい女性がいる時は、特にそのおもいが強くなります」

「お口が上手だこと」

 おれは日本庭園を散策している。

 いわゆる、後は若いおふたりに任せてといやつだ。見合いである。

 茶番である。

 おれに拒否権などない。おれの意向を聞いたうえで選んだ相手だ。彼女も、花を生けることより、内弟子を愛でることに忙しい父親にくれぐれも粗相がないようにと念を押されているはずだ。

 彼女の声から嫌悪感は感じられなかった。

 いくばくかの諦観は仕方がない。おれだって含むところはある。

 ヤブの一族になるための通過儀礼である。

 

 あの日、ノートパソコンの画面に映る顔ぶれにおれは言葉を失った。

 百聞は一見にしかずとはまさにその通りだ。

 政治経済芸術にとんと興味のないおれでも顔と名前の一致するトップクラスがそこにならんでいた。

 おれの命をとらずに、金までくれるとなれば尻尾を振ることに抵抗はなかった。おれはおれに好意を持つ者を好む。徒手空拳で戦える相手ではなかった。

 それにおれ好みの愉快な組織でもあった。

 大物政治家や、頭取や、経団連の会長を差し置いて、一族の頂点に君臨するのが一介の畳職人というのがいい。しかも、若い。当主は能力で決まる。人智を超えた力があるらしい。見たわけじゃないので断言はできないがありえる話だ。驕れる者は久しからず。ただ、春の世の夢の如しは平家物語だ。ちょっとやそっと金と知恵と度胸があったくらいで天と地の境界が曖昧だった黎明期から連綿とこの国の支配者であり続けるなど無理がある。

 

 当主に会ったことはある。

 謁見がかなったのはペントハウスの茶室というけれんみたっぷりの場所で、おれは平蜘蛛のように這いつくばった。

 床の軸や茶碗や茶杓、なつめのことは不調法者のおれにはわからない。おれにわかることは繰りあがって正客になった次客はお家騒動のとばっちりで毒殺される可能性が高いという二時間サスペンスの受け売りと、薄茶というわりに苦かったということだけだ。

 当主は気さくないい男ですぐに打ち解けることができた。他人が羨む厚遇っぷりは彼の後押しがあってのことだ。

 表向きの肩書きなんかどれも同じと畳職人にしたっていうから変わってる。一応、弟子入りしてひと通り覚えてきたとのことだが――教える側の心労は察して有り余るものがある。その前は筮竹をいじくり回して穏田の行者気どり――無難にフィクサーをしてたそうだが、品性下劣なホスト狂いや容姿と歌で勝負できないから逃げてきたアイドル崩れや芸人もどきと同じくくりが業腹で転職したのだと。

 その当主さまいわく、おれの声でひととなりを判断する能力は人智を超えたものらしい。いわれてみればそんな気がする。努力とかせず、物心ついたときには自然とそなわっていた。

「大海にスポイトで水滴を垂らすようなていどだが、一般人にもわれわれと同じ血が流れている。きみは、それを濃く継いだようだ」

「それで認知するわけですね」

 無論、軽口のつもりだったが、能力があるのは家族でおれだけである。今はキルトに嵌まっているが、若かりし頃の母はタレントの追っかけをしていたという。

 あの手の連中は往々にして貞操観念が希薄だ。

 嫌な予感が氷と化して背筋を這う。だが、今さら蒸し返したところで誰も幸せにならない。疑念はおれの胸にしまっておくことにした。


 おれがかかさずしている習慣のひとつにオタの墓参りがある。

 表向きは手こぎボートに乗っていちゃついてたら、うっかり、弁財天の受忍限度を超えてしまった──溺死ということになった。

 おれがそう懇願した。

 黄ばんだティッシュや野菜クズといっしょに焼却処分は忍びなかった。

 酒の勢いで夜中にボートを拝借して湖上で青姦しようとして──当然、邪魔な救命胴衣なんか着っこない──湖に落ちて命を落としたじゃ悲喜劇もいいところだが、それでも行方不明より死体があったほうが遺族は救われるだろう。

 年に二回では寂しいだろうから月命日も通う。

 萎れた花と持参した花束を入れ替えるとおれは手をあわせる。

 薄くたなびく線香の煙が蒼天に吸いこまれて行く。

 胸の内でいうことは決まっている。おれだけ生き残ったことを詫びる。焼け太りじゃないが羽振りのいいことを詫びる。そして、最後にオタの家族の近況を伝えて寛恕を願う。オタの父親がリストラを免れたのはおれとヤブの口利きがあってのことだ。ひけらかすつもりはなかったが、そのことをオタの父親はしっている。好奇心に負けた役員が関係を問いただしたらしい。会うとおかげで娘を大学にいれることができたと涙ながらに感謝されるのが心苦しく、お盆の時は鉢合わせしないように時間をずらすことにしている。


 おれは墓参りをすませると足早に去る。

 仕事が残っている。

 おれの美点であり欠点は切り替えの早いことだ。

 ただ、そんなおれでも引きずっていることがある。

 あの日以降、人と深い繋がりを持つのが苦手になった。

 仲よくなったら、成人の儀式をしろといわれるような気がして踏みこめずにいる。

 そして、近頃はもうひとつの疑惑が心内で熾火のように燻っている。

 ヤブの成人の儀式はおれの見定めを兼ねていたのではないか?

 それだと、ますます、オタが浮かばれない。

 世間的におれは成功した部類にはいる。

 高給取りで、お偉いさんの信認は厚い。たぶんにおれの忍耐力によるところが大きいが夫婦仲は良好だ。義実家との折りあいも悪くない。親父の会社は業績がいい。降ってわいた好景気に気分をよくしている。

 幸せを絵に描いたような生活である。

 だが、おれに実感は薄い。

 見合いの席でいった夢を見ているような感覚がつきまとって離れない。

 砂を噛むような気分である。

 趣味の釣りも、漠然と水面を眺めていることが増えた。魚に餌だけ食われてばかりいる。魚にとっては慶賀である。口さがない連中は部下の女性社員に飽きたらず、魚にまで奢るのかとからかう。おれは笑ってごまかす。

 カルキの匂いが鼻孔を刺激する。世間一般的には苦手な臭いなのだろうが、おれは郷愁を誘われるのでそんなに嫌じゃない。

 近くの幼稚園からだ。

 子どもたちがプールで泳いでいる。にぎやかであった。

 なにがそんなに嬉しいのやら。

 心が汚れっちまったおれにはわからなかった。

 利害関係などなく、裏も考えずに、莫迦話に興じられたあの頃がひどく懐かしかった。

老人は、じぶんたちの生活のためとはいえ、人の道に反する行為を黙認し続けることに忸怩たるものがあったのでしょうね。

「かくれんぼの次は――」もお時間が許すのでしたらどうぞ。

こちらはオーソドックスなホラーです。毛色の違いに驚かれることでしょう。

追伸 

マナーの悪い観光客のくだりはじぶんで書いててニヤリとしました。

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[一言] 出来は良いと思います! 面白いしよくまとまってるし、先が気になって一気に読んでしまいました。 でも、ホラーか?と聞かれると自信が無くて評価に二の足を踏んでしまうのも事実。 面白いけどコメディ…
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