ルビーの沙漠
―妙に見覚えがある。何故だ。
肺から血を噴きそうなほど走ったが、いわんや火事場のなんとやらと言うものか。
…私の。
運動不足に違いない―
体脂肪率21%の肉体が―
(自覚があるゆえ二ヶ月程前からジムに通い始めたのである―)
音を上げたあたりは、『赤い砂を湛えた沙漠』の様な所であった。
景色の変化から推し量るに、『地獄の帝サロメ』、あの恐怖の源泉からだいぶ離れたように思われる。
…遠目にさえ人為の建造物は見当たらない。
スーツのパンツは砂塗れであるし、また革靴の内部にもザラザラと混入している。
盛大なものだ。砂祭りだ。私は砂の衣まとう唐揚げオヤジだ。
汗で濡れたソックスは付着した砂をダマにしており、もう使い物になるまいし、非常に不快な感覚が両足末端を包んでいるのだった。
また私の足跡だろうか、背後には形を崩した砂が不細工な轍を成していた。
その不細工さが私の迷走を物語っている。
沙漠に来たのは初めてだが、革靴で疾駆したり、スーツで蹌踉めく場所ではあるまい。
―間違い、ない。
日本的な砂浜とか砂丘みたいな雰囲気では決して無く、砂の質も粗く尖っているため、それ自体が浸透力でもあるかのごとく衣服に食い込む。
独特の浸蝕のチカラを呈するのだ。
例えば泥水を吸って乾燥した様に靴もズボンも重い。
けれども『地獄』の『沙漠』なのだから灼熱でありそうな気がするのに、漠々とした赤い色が目を打つばかりで、さほどの熱射ではない。
―と、言おうか、―
上京して早や二十六年―、物馴れた関東地方・都市近郊の気候に類似しているのだった。
―疲れ果てている体を確かめるが、とりたてて怪我をしている様な部位は無い。
(失神したくらいであるし、捻挫や打撲ほか、無意識のうちにこうむったろう様々なダメージを懸念したのだ。
倒れ伏し意識を失った感覚があり。―
そのブラックアウトから醒めると、忽然と沙漠に居たのだ。
前行性健忘と言うものだろうか? あまりの極限状態によるのか、何処をどう走ってきたのか曖昧である。)
―いな。いや。ウソだ。―
とりたてて怪我は無い、…
…などとお為ごかしにも言えまい。
…私の左腕は悪臭を放つ深緋の穢らしいゼリーに変貌しているのだから。
私は赤い砂を掬う。私の赤い手で。
良く見れば砂粒もまた私の上膊や掌同様に透き通り、ルビーを想起さした。
無心に眺めれば美しい光景ではあった。
幽かに発光する様な赤い砂。
―満々と静かに静かに横たわり、私の他には何者も存在していなかった。
少し先には其れも静かな常緑帯の様な、碧い色彩が見えた。
考えてみれば、仕事に追われるばかりで、自然に触れたのは久しぶりの気もした。
絶体絶命というのに、私の心はノンキに感想した。
…そうだ、少年の頃に親しんだ文学作品にこんな一節があったか。
心と言うのは、―
不思議な奴である。
…だけども、同時に、一般社会人としてのアイデンティティ。
―財布や運転免許証などの貴重品やら。
マイナンバーカードやら紙幣やら。
銀行のキャッシュカードやらクレカやら。
スマホやノートパソコンを詰め込んだ―
通勤カバンを、―
紛失していることにヒヤリとして、自身の狭小に苦笑する。
(―どこに置いたやら。どこまで手にしていたか。
電車を降りた時には離さず持っていたろうが、あの駅員室に置きっぱなしと考えるのがまあ妥当だろう。)
窮極の状態で、こんな事柄を思惟するとは、どうも私は社畜というやつらしい。
―今時、社畜も死語なら、『死語』自体も『死語』だろうけれど。
いや、しかし。あの状況で忘れじとカバンを持ってダッシュしていたら、より怖ろしい、―ものすさまじい社畜だろうが。
そうでもなると、―
…ブラックジョークであり、スラップスティックコメディの域である。
なんだか可笑しくなった。
はは、
と声が出て、誰もいない沙漠にカラリと吸収された。
私は胡坐し、最近、ジムのレッスンで習い覚えたヨガの呼吸をした。
それから、祖母に教えてもらった般若心経を胸中に誦した。
痩せ我慢の様だが、いくぶんか私の気持ちは落ち着いたのである。
但し、落ち着いた上で猶も引っかかりと言うか、疑念めいた感覚が残るのだった。
私は『此処』にどうにも見覚えがあるのだ。そんな感じがどうしてか拭えない。
―妙に見覚えがある。何故だ。