肉便器おじさま、美少女の前に咆哮する 後編
痙攣する中年者の頭部を、サロメは聖母然と慈愛の面持ちで見守り―、
―す、と床に降りた。涼やかに踵を鳴らした。それは詩的にさえ聞こえる音である。
(音は靴音。―矢張りそれもまた、サロメいうところ『呪術』『呪力』に拠るものか、少女ははだしであった筈なのにヒールのある靴を履いているのだ。黒いエナメル塗りのハイヒールを。―寸刻も目を離さなかった筈なのに。いつの間にやら。…)
かつり、かつり。したん。した、した。
した。した。かつり。
ブレザーの衣擦れと黒く照りながら歩を進める跫音がないまぜになる。
催眠的な反復である。
さしたる距離が無いだろうに、美少女サロメが落ちた飛頭蛮の付近に辿り着くまで長い時がかかる様に思われた。絵空事めいた時間感覚であった。
ところで。
こんな局面で此の様な感想を持つのは妙だが。
あどけない風情のブレザー姿に、素足にハイヒール履きというアンバランスな格好をした少女は、―一種いびつな艶やかさを発散している。
娼婦の様な。甘やかな。
それでいて妖精の様な。さやかな。
半眼にした目はキラキラと無我であり、薄く開いた脣は無垢であった。―妖しいオーラが充溢していたのである。
二律共存の女怪は無言で脚を上げると、相当な勢いで踏み下ろした。
ハイヒールの踵をである―、その鋭く尖がった先端は凶器でしかない―、
どこへ振り下ろしたのか?
怪鳥のクチバシめいた凶器を?
哀れな犠牲者、あの首だけの凶兆、肉便器おじさんの顔面へ―、だった。
金縛りの私は目を覆うことも出来ない。
絶叫。
血飛沫。
凄惨をきわめた仕打ちなのだけれど、少女のほうは恍惚としているのだ。不可思議な静謐さえ漂うのだ。
私もまたアドレナリンを分泌していた。格闘技の修羅場にある種の甘美さ、エロスが生起する様な感じだろうか。分からない。怯懦・畏怖と同時に確かにとある上昇感覚をおぼえたが、今はそれを名付けるすべもない。私は見入っていた。これこそ魔界に毒された験なのか。
「―この様に、」
少女の囁く程度の声が耳には大きく響く。私は漸く我に返った。
サロメのほうは…、醒めやらぬ陶酔のうちに穂を継いでいく。
「肉便器は死なないの、不死身なのよ。この魔界ではね。何億回でも蘇生するし、何億回でも損壊できる。何億年だろうと生きるのよ。―壊れないあたしのオモチャなのだわ。―いっっっくら! ランボウに扱っても壊れなあぁい! ん! だから!」
踊る様なリズムをつけながら、美しき少女のハイヒールは肉塊を更にグシャグシャの赤い水溜りへ変化さしていく。
おぞましい呵成さでストンピングを繰り返していた。サッカーボールでさえあんなに手酷く扱われまい。が、いわんや不死身の存在は死する気配なく、悶えつつも元気である。肉片に近いものを元気と表現して許されるならば、だが。
少女の白い初雪めいた足が赤いドットを纏っていく。
その鮮烈なコントラストに私の網膜は刺青をされた様に痛んだのである。ジンジンした。
「あたしの黒呪術で縛め、創世した『異世界』―、
『呪力世界』を、―…
『肉便所』
、そう最近は愛称しているわ」
と、高らかに笑うや、サロメは次なる嗜虐の儀式を執り行うのであった。彼女の顔はめらめらと火照っていた。
「おまえ、屎になぁああぁれ!」
可成りの声量で魔法句の様に放った木精が、いつまでも反響する。
その残響をさらに飾る追奏のごとく、―
ぶぢゅん!!!
サロメの足下で、肉の塊は溶解した―、いな。残土の様な。
吐物の様な。
腐った泥濘の様な。
糞便の様な―、スカトロジーでしか括れないだろう事物に変貌したのであった!
「あっは! は! 見てる? おじさま! こいつ! ウンチになっちゃいましたあぁああァ! 猛毒のクソよ! ウンコやろう!」
さきほど迄のクールさの影も見当たらん。
青い髪を振り乱し、眼を爛々と光らしているサロメはまさしく鬼女であり―、魔王と呼ぶのが相応しかった。狂気を横溢さしていた。
待てよ遁走するのなら今かも知れない逐電するんだエノケン! ダッシュだ!
私自身もきっと狂気していたのだ!
ケモノの激しさで筋肉を声帯を震わせたのである!
「哈あアァァッ!!!」
あらゆる感情を振り払う様に咆哮して、私は猛然と場を離脱したのである。―
金縛りの呪術は、…あまり術者サロメの官能が深いためなのか…、先刻とは比ぶべくもない弱々しいものだったのだ。
―其れから、無我夢中に見送った点景の美少女は、驚くべき無意味な行為を堪能していたのである。
熱っぽい瞳をして、彼女は立ったまま黄金の体液を垂れ流した。両脚の間から滴るそれは湯気を立てており、―魔の者でなければ明白に排泄にあたる行為だろう。魔性の存在にとり、何ういう行動かは確と分かりはしないが。
群らがる肉便器たちはと言えば、―
さも美味そうに、仔犬がきそってミルクの溢れたのにがっつく様に、それをピチャピチャ啜るのだった。
彼女が猛毒のクソと呼した物質は事実、有害であるのか、―何体かの芋虫は液体に融解した泥団子にあたった様であり、異様な七転八倒を舞っていたけれども、きっと苦痛が遷延し続けるばかりで永劫に死の恩寵は降りてこないのだろう。
何十メートルも走って水をあけたところで、然しサロメは間近にいるかの声で私に囁くのだった。
「おじさま、今回は敢えて逃してあげる。―ふふふ、鬼ごっこしましょう!? 見つけるのは簡単なんだけれどぉ、震えながら首を洗って待っていてね! また来るからサロメと遊んでね!」
私は数キロを(革靴を履いてだ、)全速力で駆けたあと、ドウと昏倒したのである。