そして、美少女魔王サロメは淫魔サキュバスである
―『くさい』―
―存在根幹に関わるかもしれぬ謎めいた事態であるのに、…
―私の思考は身も蓋もない言葉を呈するのだった。事実、然し『くさい』、それに尽きよう。
―異臭は私自身から漂ってもいる。
―腥い様な、また血臭の様な匂いが風として漂うのである。まず気付くのは此の無人駅の内部全域に満ちるだろう事だ。
所詮、駅員室は点的に所在する訳だから、理屈としておかしいのだが、本能的に『膨大なマッス』を私の嗅覚は察知している。
テロをさえ想定した。無人状態である事も加味すれば。生物兵器ではないか?
が、―
それにしては人の死体さえ見当たらない。
―何より、私自身も悪臭を発しているようだ。
美少女サロメは変わらずヒコヒコと笑い―裸足で灰色のデスクに腰掛けていたが、その愛憐な足が、動物のヒヅメの様に変化した。
其れは無毛でツヤツヤと照る肌色の蹄足であり、現実性を欠いていた。
相反して、私の舌から流れ出た血が、その先端に赤く付着しているのは―、妙にリアリスティックに生々しいばかり。
私は幻視をしているのか。
統合失調症などを発症したのかもしれない。
「おじさま、病気かも? 発狂したのかも? とか考えていらっしゃるのね。あわれ。発想が貧しいのね。貴方を聘して差し上げた以上は、教えてあげる。あたしは地獄の帝とも言ったけれど、サキュバスという魔でもあるの」
「やはり君は考えが読めるのか。サキュバスというのは聞いた事があるよ。所謂、淫らな夢魔ですよね。男を蠱惑しては吸精すると言う」
ファンタジー小説やゲームと言った二次元創作物で私も見知っている。
世代的にも私自身、ゲーム少年ではあったので、ロープレ脳(勿論、そんな語彙は汎用されていないだろうし咄嗟の造語だが、)に持っていったアタマで思案してみる。
―サキュバスという性的寓喩にかつて青い『男』を熱くした様にも思われる。
―それはそうと。私はいつの間にか遜った口調となっていた自身にそぞろ、少女の発する『覇気』を感得しなおす。
気圧されているのだ―、娘と同年齢の存在に。
「良かった、お話が進みそうで―、流石、あたしが見込んだおじさまね☆ 余はくるしうない☆ あたしはね、まあ、三千年くらい昔はノーマルな雑魚夢魔だったんだけどぉ、長年長年チクチク男のひと喰ってたら、何かラッキーって感じ? そーてーがいに呪力が高まってきてサぁ、徐に悪魔すら使役可能なチカラを蓄えたワケね―、」
昔語りとなると何故か少女は蓮っ葉な口調を呈した。謂わばギャルの様な感じである。
だが後顧する行為というのは如何やら魔物を問わず『隙』を生むのだろうか。
私を雁字搦めにしている不可視な繰り糸は、抗い切れるほどにたわまった。
空かさず、身を立てつつ同時に後退させる。
「哈ぁおッ!」(―渾身の気魄を籠めんとし、私のノドは吼えたのである。)
スポーツジムで始めたヨガの賜物かもしれん。―
―反射的に可成りムリな動きをしたように思われるも、アキレス腱ほかに疼痛は生じなかった。それにしてもスーツを着て瞬発的な運動をするのは骨である。相当、動勢に引っかかりを感ずる。…
―が。其れにしても。少女は―
私の躍動を意に介しもせず恬然としている、…表情に変化は微塵もない―…
何かの布石なのか、単純にスキを見せているのやら。或いは弱者の反旗など驚くに値しないのだろうか。
―所詮、追い詰められたネズミなのだろうか。
私を眺め、少女は細い脚を組んで、華奢なひざに頬杖をつくった。綽々と微笑んでいる。
「あらあら、逃げられちゃった☆ 呪縛が弱かったかしら☆ まあ―、おじさま、まだサロメのおはなし続くんだから聞いてよ。そのあとショータイムも予定してるし。えい☆」
―少女が可愛らしく人さし指を立てる。アイドルじみた仕草で―、その途端、…
私は直立不動となり、またして身じろぎすら出来ない。脂汗が流れた。再び見えぬ糸に縛られてしまった。
…原理は截としないが、超能力者さながら、サロメは私の運動を固定できるのらしい。
「ふふ。此処はね、あたしのおウチ、まあ詰まりおじさまに分かり易く言うと、地獄とか魔界みたいなモノね。『呪力空間』とあたしは呼んでいたりするけど―、此処はあたしの意思で成り立つ世界。
だから、おじさまはあたしの意のまんまよ。このおウチもね、―昔むかしは矮小なサキュバス―あたしってコトね―を一匹匿うだけの小異空間だったんだけど、―今や甚大な領土に化し果てたわ。
思うに―、呪力が拡大するとともに異空間・呪力空間も広がって、そのうちにホントの魔界にゴッツん☆ ぶつかって接続しちゃったのかもしれない―、まあ退屈な推論は此のあたりで良いわね。
ともかく―、
呪力空間に於いてあたしの呪力は泉の水の様なもの。泉に浸った以上は水の恩恵を受けなければ活動も出来ないのだわ。
魔界に接続した以上は悪魔のコたちも出現したのだけれどね、触媒作用の様に、あたしの呪力に浸ったコたちはみんな、あたしの軍勢と化したわ。差し詰め、あたしは―魔王―、地獄の帝ね。
こんなに強大になったサキュバスなんて、後にも先にもあたしぐらいじゃないかしら☆」
「聞けば怖ろしい話だね、サロメ。君は強く巨大だ。だがね、―君はきっと孤独なのではないか? 私を此処へ、―なんだったか、ええと『転生完了』、と君は宣ったかな? アレで私を魔界に引っ張り込んだのだろうかね。そうだそうだ、つまりね、転生さしたのも対話の相手が欲しかったのではないか? でなくては、魔王様が一介の中年オヤジを神隠しするのもヘンな話だ」
(虚勢である。歯の根が合わないのを文字通り噛み殺し、煙幕を張る私である。全身にフツフツあぶらこい汗が湧いた。舌にさえ言葉にさえ汗が玉を結んでいるんじゃないか。けれど、―
―読心術を使うわりに意外な反抗に驚いたのか、少女は、―年相応の―あどけなく―びっくりした顔をするのだ。)
魔物は青い髪をかきあげる。そして髪先は風に靡いた。
「―思ったとおり。素敵なおじさま。気骨があるわね。だけど、左腕をご覧。何か変だと思わない? 自分の体から異臭がするなって思っていなかった?」
ネズミを追い込んだ猫が尾を揺らす様に、サロメは背中の羽根を高下させたのである、言葉の流れをリズムに乗せて。
―左腕を?―、この娘、何を言って―、
「なんだ何だコレは此れはナンだ!」
愕然と、私は、した。―
「じゃああぁん! さぷらいず☆」
私の左腕の有った箇所には見慣れた左腕ではなく腐れた肉の薔薇が泡を吹いていた。―一瞬のうちに癌化してしまった組織の様に、ボコボコと隆起し不規則な赤い瘤やケロイド様の状態を並べている。―然もだ、食物のゼリーかの如く深緋に透きぷるんと揺れさえした。グロテスクと言う形容では足りない。
「続いてショータイムよ、おじさまっ☆」
少女は上機嫌にパチッとゆびを鳴らした。
…すると室内の温度が急激に下がった様に感ぜられた。いな実質、下がったかもしれない。何しろ魔物の仕業だ、私を化身させつつある怪異の動向など識る術もあるまい、…だが兎に角、室内の気配は変化したのだ。いやなものを観る予感が私の中に漲り、ドクドクと滾った。…
―「肉便器! カモン!」―
凛と。なにか動物園や水族館の催しに於いて飼育者のお姉さん等が弾けさせる様な明るくて屈託の無い声で少女は虚空に告げた。
其の声音が生物への呼応を連想させたには因果がまさしく有り、ポルターガイスト現象かくやという超常的運動で駅員室のドアが口を開いたのだが、其処からゾロゾロと蝟集してきた『群れ』は確かに生きた者の蠢きを私の目に伝えたのである。
小人と言ったら近いだろうか?
背丈は私の膝から腿くらいの高さをしている。腰まである者もチラホラしている―、丈で言うなれば、『小人』?―
いな其の語句が本来ふくむファンタジックな含味は無い―、『彼ら』、
現実世界に近似した駅員室のフロアは確かに異界に転じているのだ、
ノシノシと、いやヌルヌルと床面上を這い寄って来る中年男性の頭部を乗せた生物は、
首から下に手足と言うものを持たず、まるで芋虫の形態をしているのだ。―
―且つ、―
思いはばかるべき事だ。彼ら怪物の胴、つまり芋虫部分を成しているのは。―…
…赤い肉の腫瘤であり、それらは半ば透きとおり乍らゼレゼレと揺れたのである。
私の左腕と鏡写しであった。
とどのつまり。
先刻、魔王サロメは此の様に宣告していなかったろうか?
(おじさまをね〜☆ 『肉便器』に為に来たのよ―、
―…、いや―…、もう貴方、肉便器なんだけどね。―ふふ、ふぅ)
目を白黒させている私を睥睨して、机上の美少女は柔和に咲うのであった。
其れはいっそ高貴な美しい表情であった。