ある男 2
──名前がないのか?
──あぁ、『おい』とか『お前』とか……そんな呼び方しかされたことがない
周りの人間にとって、自分はその程度の男だからと答えると、まだ幼かった頃の彼の顔が、悲しみの涙に歪んだ。
──ここじゃ普通のことだ。俺と似たような境遇の奴は、腐るほどいるからな
悲観するわけじゃない。今までだってそうやって生きてきた。なんて話せば、ますます表情が暗くなる。男は考えた。なぜ他人の為に、彼は涙を流してくれるのだろうかと。しかし、考えても分からなかった。ただ、男の胸の中には経験したことのない温もりが、じわりじわりと全身へ広がるのを感じていた。
「楽しい時間というのは、あっという間に過ぎていきますね」
ゆらゆらと揺れるカップの水面。そこに写った儚げなアリの表情に、犬飼は気づかない。
「ご当主は賑やかな人ですから」
──私はこれで失礼しますが、ゆっくりして下さいね
──はい、ありがとうございます
ついさっきまで隣で笑っていた虎之助は、会議へ出席する為に先に席を立った。
──いつかまた此処に来て下さい……というのは、意地悪ですかね?
意味ありげな言葉を残して。その問いにアリが答えることはなかったが。
「不思議な人でした。たった数時間ご一緒させていただいただけなのに、私の全てを見透かされたみたいで」
まるで母のようだと笑う。どうやらアリ自身は、虎之助の能力について何も知らされていないらしい。
「……不思議といえば、」
そこで一端言葉を切る。アリの瞳は犬飼の背後を捕らえていた。
「あなた方の運命の流れも変わっていますね……」
複数を指す言い回し。一人は犬飼、恐らくもう一人は、向こうの方から歩いて来る狼子のことだろう。父親を見送るため彼女は、しばしの間席を離れていた。
(全く同じだ……寸分の狂いもない。まるで──)
「王子……?」
黙りこくったまま話そうとしないアリに声をかける。
「僕と狼子さんが何か……?」
「……いえ、」
偶然じゃなく必然。例えそれが修羅へ続く道だとしても。今はまだ彼がその事実を知る必要はない。
(運命の流れは変えられない。でも、あなたなら──)
この男なら……と、そんな気を起こさせる。
「あなた方は、互いに運命の相手なのでしょうね」
叶いはしなかったが母とあの兵士のような。そんな相手に自分が出逢うことはない。アリは二人が純粋に羨ましい、そう思った。
(なんだかはぐらかされたような……でも、)
自然と目尻が下がる。犬飼自身、彼女が運命の女だということは自負している。けれど逆もまたしかりで、いつか狼子もそんな風に思ってくれたなら、どんなに幸せだろうか。
「王子、お待たせいたしました。お部屋へ戻られますか?」
「はい」
「……犬飼、行くぞ?」
(僕と狼子さんが運命だということは、もしかして彼女は、僕のお嫁さんに──!?)
幸せな妄想に浸っている彼に、狼子の声は届かない。
「……い、犬飼?」
「狼子様、先に王子を連れてお戻り下さい。新入りは私が連れて行きますので」
気持ち悪い笑みを浮かべる犬飼に若干引いている。そんな狼子に笑顔の鹿乃が話す。
「こういった任務は久しぶりなので、少しばかり疲れてきたのでしょう」
2、3発気合いを入れれば治ります、なんて物騒な物言い。冗談ではなく、きっと彼女の本音なのだろう。
「そうか、なら頼んだ」
「えっ? いいんですか?」
言葉に甘えてと、心配そうな王子に問題ないと伝え、共に先へ行く。ヒラヒラと手を振り見送る鹿乃、狼子たちの姿が見えなくなると、たちまちその表情は一変した。
「……『おかえりなさい、あなた』なんて言われたらどうしよう!」
「そんな日は一生来ないから、安心して死ね!!」
袖口に隠したナイフを手に取ると、妄想を戯れ言として垂れ流す犬飼に向かって、一目散に投げ捨てる。シュッと右頬を掠めたナイフは、キーンと甲高い音を立てテーブルへと突き刺さった。
「────っ!?」
「ちっ、外したか」
流石は元エリート警官。掠りはしたが殺気を纏ったナイフを寸でのところで避けられ、思わず舌打ちをした。
「し、しかのさん……?」
一体何を……。そう尋ねる。
「決まってるでしょ? 腑抜けの新入りに気合いを入れてるのよ」
「いや、でも……今のは明らかに」
「は? なに?」
「いいえ、なんでもないです……」
自分を殺そうとしていたような気がするとは、口に出せなかった。
「あ、あれ? 狼子さんたちは?」
「先に部屋に戻られたわよ、あんたがぼけっとしてる間にね」
「すいません!」
テーブルに刺さったナイフを抜き、また袖口へと戻す。
「本当は2、3発殴ってやろうかと思ったけど、目は覚めてるみたいだから許してあげるわ」
愛しい主君の声を無視する輩は万死に値する。次はないと警告して鹿乃はさっさと歩いて行く。
「あ、待って下さい!」
(何が運命よ……笑わせるんじゃないわよ)
この世で一番嫌いな言葉。狼子にとって、運命がどんなに苦しい言葉か知らない癖に。鹿乃は唇を噛みしめ泣きそうな表情を見せまいと、後続の犬飼を振りきるように、歩くスピードを速めるのだった。
◇◇◇
──なら、お前に名をつけよう
一頻り悲しみに暮れた彼は、何かを吹っ切るようにそう言った。
──名前? 別にいい
誰かに必要とされるわけでもないのだから。
──今まで通り『おい』とか『お前』で構わないさ
だだの男のまま死んでいくのも、存外悪くない。
──それじゃ駄目だ
──なぜ?
──私が呼ぶ時に困るだろう? いつも『おい』とか『お前』じゃ、私の家臣達も困るしな
──あんた、何を……?
──そうは言っても私のセンスは破滅的だしな
よく長兄に馬鹿にされるのだと、彼は笑った。
──下の弟とさして変わらないのだがな
──ちょっ、待て……それじゃあ、
自分を必要としているみたいじゃないか。困惑する男に彼はこう続けた。
──そうだ! ラジュル……なんて、どうだろうか?
──ラジュル?
──あぁ、言葉の意味は『男』。ただの男で在りたいと言うのなら、ピッタリだと思うが?
──ラジュル……
男は何度も口ずさむ。ラジュル、ラジュル……と。まるで呪文のように。
──す、まない……そんなに嫌だったか?
やはり自分のセンスは破滅的なんだと、彼は落ち込んだ表情で男の顔を覗き見た。
──泣くほど嫌なんだろ?本当にすまない……
──えっ?
そう言われ初めて気付いた。頬を伝う熱い涙に。
(泣いて、いるの……か?)
なぜ自分は泣くのか、手に取った涙を男はジッと眺める。
──おい? どうした
(……そうか俺の名はラジュルだったのか)
涙を流すことなんて、生涯一度もないと思っていたのに。
──気に入ったよ、ラジュル。今日から俺をそう呼んでくれ
シンファ。そう伝えると、彼はとても嬉しそうに笑って、泣いていた。
──そ、そうか! 気に入ったか!
──あぁ、
──ラジュル! 今日からお前はラジュルだ!
──あぁ……シンファ。今日から俺はラジュルだ
そうして二人でまた笑って泣いた。空っぽだった男に生命が宿った瞬間だった。