誇り
一日のはじまりと共に日が昇るころ、遊女たちには束の間の夜が訪れる。犬飼は、雅家を出ですぐ南区へと足を運んでいた。
「せっかく来てもらって悪いけど、ルリハには会わせられないんだよ」
犬飼が、どうしても会いに来たかった人はハチドリがルリハと呼んだ少女、またの名をグレース。
「どうしてですか?」
やはり兄を殺した原因を作った男の顔など見たくはないのか、そんな負の考えが犬飼の表情に影を落とす。
「そうじゃないよ、旦那。あの子は年齢的にまだ禿なんだ」
禿とは、遊女見習いの少女のことを指す。
「楼主の言い付けでね、せめて新造に上がるまでは男とは一切会わせられないんだよ」
「……そうなんですか」
ちゃんと会って謝りたかった。謝って彼女の兄が、家が、思い出が還ってくるとは思わないが。
「グレ……ルリハさんは元気ですか?」
「あぁ、元気だよ。今はあたしについて色々と遊廓のことを勉強している最中さ」
「あの、その……」
辛くはないでしょうか、なんて聞けない。辛くないわけがないのだから。無力な自分が情けない。その気持ちを圧し殺すように唇を噛んだ。そんな犬飼の肩に手を置き、ハチドリは言った。
「……旦那、あの娘は大丈夫さ。遊廓にいる女たちはみんな強いけど、ルリハは遊廓たち中でも一番強い心を持ってる」
だから心配するな、ドンと一つ肩を叩いて笑う。
「それにルリノ様も気にかけてくれているんだよ?」
「ルリノさんが……?」
「一見キツい性格に見えるかもしれないが、あの人はとても優しい人なんだ」
いくら綺麗でも声が出せないならと渋る兄に、頭を下げグレースを極楽鳥へと引き入れたのは、他でもないルリノだった。彼女なりに思うところがあったのだろうか、それとも早くに両親を亡くした自分と重なったのだろうか、何かと気にかけてくれているそうだ。
「『マメルリハ』という源氏名を与えたのも、ルリノ様なんだよ」
「そうだったんですか……」
ここでの待遇が聞けて少し安堵する。
「それに狼子も、」
そう言いかけてハチドリが口をつぐんだ。
「狼子さんがどうしたんですか?」
彼女も遊廓へ来ていたのか、ハチドリに言葉の続きを促した。
──全額は無理だが、借金の半分ならあたしが肩代わりしよう
そうグレースに申し出たそうだ。
「あの子の兄が亡くなった責任の一端は、自分にあると言いはってね」
あの時、無理やりにでもマリアを連れ帰せば、彼女には違う未来があったはずだと。狼子もまた悔やんでいたのか……己が知らぬ事実に、犬飼は手にしていた鞄を握りしめる。
「それで……ルリハさんは?」
「もちろん断ったよ」
自分自身がルールであり、何をするにも自己責任。それがrebirthでの掟。
「『兄の死は兄自身が招き、自分が遊廓に来たのは、人の死を願った代償』そう紙に書いて狼子に渡してたよ」
だから……と、ハチドリは続ける。
「旦那が持ってる鞄を、ルリハはきっと受け取らない」
プライド。遊廓で生き抜くと覚悟を決めた女の。そんな女を見るのは、人生で二度目。
「楼主は認めないかもしれないが、いずれルリハは、極楽鳥で一番の太夫になる。……あたしには分かるんだ」
ハチドリは目を閉じた。彼女の脳裏には、伝説の太夫と謳われた女性の姿が──。長く美しい銀糸のような髪に、真っ白い肌。その顔立ちは人形のように美しい。だが、誰もが絶望し嘆くしかない鳥籠の中でも、彼女の持つ深紅の瞳には、けっして消えない希望という名の光がいつも宿っていた。
「誰よりも小さい背中なのに……あの人の歩く姿を後ろから見ていたら、誰よりも大きく見えたんだ」
(あの人……?)
ふと狼子の髪を眺めていた時の事を思い出した。今の彼女の表情は、あの日と同じだ。
「旦那とルリハの間に何があったかは知らない。でも、あんたがあの娘を想ってくれるなら、その袋の中身は胸の内に納めておいとくれ」
そして、グレースに何か困ったことがおきたら、その時は何でも屋として彼女の力になって欲しいと、ハチドリは頭を下げた。
「分かりました、その時は必ず──」
彼女を助ける。そう固く約束を交わした。