Belief
犬飼は走った。脇目も振らず。途中で躓きそうになっても何とか踏ん張り、走り続けた。
(どうか、無事でいてくれ──!!)
話しは遡ること数時間前、偽造IDの件でハイエナの巣を訪れていた犬飼は、店主に仕事の依頼をして帰ろうとした時の事だった。
「それじゃあ、僕はもう行くよ」
「そうか、なら……2時間だな。2時間したら取りに来い」
自分が持っているIDの中からマリアたちに相応しいモノを身繕い、それを知り合いに依頼して本国のシステムにハッキングし、データを改竄してもらう。
「それでしばらくは騙せるだろ。本国に入って、よっぽど馬鹿な真似しなきゃ見つかることはないだろうぜ」
「ありがとう、恩に着るよ」
「礼はまだ早いぜ、こっからが時間勝負だ。あんたの話しから察するに、あんたやゴリラ女の他に、マリアらを狙ってるヤツがいんだろ?」
「うん。けど居場所までは知られてないから大丈夫だよ」
「今、ソイツらどこにいんの? 誰か側についてやってんのか?」
「ううん、マリアさんたちは家で待ってる。僕は巣に、神父は依頼料やマリアさんたちの逃走資金を用立ててくるって言って、どっかに行っちゃったから」
一介の神父のどこに、そんな経済力があるのかは不思議だが。
「だからそんな急がなくても大丈夫だよ。いろいろ準備しなきゃいけないし、明日の朝でも……」
問題ない。そう口にした犬飼に、ハイエナが眉を潜めて言った。
「あんた本国じゃエリートだったか知んねーけど、頭悪いんだな?」
時間勝負、そう今しがた口にしただろう。呆れた様子でこう続けた。
「マリアって女の居場所は、本国から来た男には、もう知られちまってるだろうよ」
「──えっ? でも、」
ヘンジーを尾行していた狼子によると、自分たち以外で彼を着けていた者はいない。巣で彼を待っていた時だって、他の人間の気配はなかった。
「相手は本国の人間だぜ? しかも国の中枢に関わるような大物。ソイツが正攻法で娘を探すと思うか?」
国家規模による盗聴、そして衛星による監視。この島に住む住人たちは、本国のあるゆる機関によって、その行動を逐一注視されている。
「俺に掛けた電話の内容はこうだ。『ブローチを売りたい、真ん中に赤いルビーがついた金のブローチを』たったこれだけ」
けれど、特定の誰かを指すには充分な内容。いつ、どこで、誰が掛けたものなのか、彼らが調べればあっという間に分かってしまう。
「まぁ、rebirthに来たばっかのあんたじゃ仕方ねーけど、あの偽善者野郎がこんな事にも気付かねぇなんて……神様ってヤツに現を抜かして、焼きが回っちまったな」
遊女が話した男は恐らく囮。囮役が動き回ることで、マリアたちが何らかのアクションを起こすと計算されていたのだ。
「でも、どうして……?」
犬飼には理解できなかった。政府は何をそんなに怯えているのか?確かに未だ両者の因縁は深いが、何の力も持たない島の住人たちが、本国の脅威になるとは思えない。
「島じゃねぇ。本国が恐れてんのは」
雅家の人間。古より不思議な力を持つ一族。
「もともと雅家の為に造られたんだよ。rebirthはな」
「狼子さんたちの……? 雅家と何の関係があるんですか!?」
理由を聞かせて欲しいとハイエナに詰め寄る。
「教えてやってもいいけど、あんた暢気に話してる時間あんのか? 早く戻らないと手遅れになるぜ?」
狼子はもちろん、犬飼やアルカスがいない今がチャンス。敵はすでにヘンジーの家へと向かっているかもしれない。
「あんたが相手にしてんのは人じゃねぇ……国だってことを忘れんな」
そしてヘンジーやグレースは、彼らにとってほんの小さなゴミ。犬飼はハイエナの店を飛び出していた。
◇
「う……そ、……だ……」
息も切れ切れに走り続け、ようやくたどり着いた先に待っていたのは、無惨にも変わり果てたヘンジーの家。燃え盛る炎と共に黒い煙が天へと上っていく。
「う゛ぉぉおおお……!!」
まるで地鳴りのような音は、大熊と化したアルカスが、その怒りと悲しみをぶつけるかのように叫ぶ声だった。数メートル先で荒れ狂うように泣き叫ぶ彼と、焼け焦げた肉と骨の何ともいえない臭いに、犬飼は膝から崩れ落ちた。
「さすがに7人分は強烈だな。服も髪もこの臭いは、しばらく落ちそうにもないな」
そうして音もなく背後に現れる。それ見たことかと。
「見てみろ、神父様を。悲しみのあまり我を忘れて本来の姿に戻って……実に滑稽だな」
愉快そのものだと嘲笑って。爪が折れそうになるほど地面を握る。
「狼、子……さんは……ッ……知っていた、んですか──?」
この結末を。犬飼の声は震えていた。
「ハイエナに電話で連絡してきた時から、大体の予想はついてた」
「盗聴や、監視……も?」
「あぁ。お前は本国じゃエリートみたいだから、てっきり内情を知っているものだと思っていたが……その様子じゃ一目瞭然か。案外信用されてないんだな、お前」
虎之助の見立ては正解だったということか。
「知ってた、なら」
どうして教えてくれなかったのか。握った土には赤い血が混じっていた。
「教えたら、あたしに従ったか?」
そう聞かれ、言葉に詰まる。
「従うわけないよな。犬飼や神父様は、手と手を取り合えば人間誰しも分かり合えるなんて、お花畑みたいな考えしか持ってないんだから」
状況が違っていても、きっと同じ選択をするはず。キッパリと吐いて捨てられる。
「どうだ?お前がいう『信念』ってやつを貫いてみた結果がこれだが……満足したか?」
人は殺され、家は焼かれたが。忠告を無視してまで救いたかったモノは、もう何もない。
「この結末を招いたのは誰だ?あたしじゃない、お前ら全員だよ」
マリアを本国へ帰すことが、みんなの為。あの場にいた誰か一人でも、そのことに耳を傾けていれば、尊い犠牲は避けられた。
「そして8名が命を落とした」
「は、ち……?」
犬飼の前に何かがポトリと落とされる。黒い塊、涙で滲んで見えない。ふと、手を伸ばそうとして体が固まった。
「──ッ!?」
それが人の首だと理解したからだ。
「ソイツだよ。遊女が言ってた男は」
生首は息絶える瞬間を悟った目で、犬飼を見る。
「あたしが来た時には、ヘンジーはもう死んでいて家には火が放たれていた。彼を殺しに来た部隊も、怒り狂った神父様が皆殺しにしていた」
絶望という名の火の気が上がる家から、微かに生きた気配がした。
「声は出せないが、呼ばれた気がしたよ」
妹のグレースは兄に守られ無事だった。躊躇うことなく火の渦へ飛び込み、急いで彼女を助けて外へと出た。
「その時知った。マリアを拐った男が一人いるって」
そして依頼を受けた。兄を殺した仲間の男を殺してくれと。
「目の前に転がってるその首を持って、グレースに会ってきた」
マリアを本国へ連れ帰ろうと逃げていたのを探し捕まえ、じわりじわりと殺した。手足を切り落とし、腹を抉り、もう殺してくれと泣き叫ぶのを無視して。最後の最期まで死という恐怖を植え付けながら、殺した。
「『最大限の苦しみを』それが、グレースの願いだから」
「彼女は……」
全てを失ったグレースに、雅家の高額な依頼料を払うことは出来ない。
「カナリアのところだ。茶木とヤツの妹が連れて行った」
「……く、ッ……!!」
自らを金に代えたのだ。復讐を果たすために。
「ま、だ……12さい、だ!彼女は、まだ子どもですよ!!」
「だからどうした? ならお前が代わりに支払うか? そしたら彼女を救えるか? たった一人の兄は死に、両親はいない! 家族との思い出が詰まった家さえ失った彼女を、お前が一生面倒みるのか!!」
そんな覚悟、ありもしないくせに。そう一喝され返す言葉がない。
「あの子は最初から覚悟してたよ、あの場にいた誰よりも」
マリアは言った。愛の為に家も名誉も家族さえも捨てたと。彼女はヘンジーにも、自分と同じように妹を捨てろと強要したのだ。
「マリアを殺さなかったのは、グレースの温情だ。あたしは殺してやりたかったけどね」
別れ際のあの笑顔が頭を離れない、狼子は硬く拳を握りしめた。カナリアは完璧を求める男だ、口が利けない分、他の遊女よりもグレースには不利になる。どんなに酷い仕打ちを強いられようとも耐えなくてはいけない。極楽鳥を追い出されたら生きていけないから。もう北区には居場所はない。厄介事を持ち込んだ人間に、誰も力は貸してくれない。孤児たちが集まる穴ぐらでも同じ。彼女のような弱い女は、男たちに犯され飽きたら殺され、臓器を売られるだけ。
「この光景を臭いを、よく身体に焼き付けろ。そして一生忘れるな。知った気になってた犬飼も、これで思い知っただろうよ……rebirthがどんなところか」
狼子は踵を返し去っていく。無言でただ、目の前の光景を見つめる犬飼を残して。