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7年目(1186)

一月×日

 正月早々まことに幸運なことに、かの西行法師と友誼を結ぶことができた。偶然にも京に逗留してらっしゃったので、是非にと我が家に招いたのだ。

 どうでも良いが妻が驚いていた。「あなたが客人を招くなんて」と。うるさい。


 さて光栄なことに西行法師は俺のことをご存知であった。


「新進気鋭の若手と聞いております。じっさい貴方様の歌は玄妙にして流麗。夢の風景を歌の中に閉じ込めたがごとき有様。そのお年でその境位に至るとは」


とベタ褒めしてくれた。世辞半分だとしても、素直に嬉しい。

 しかし俺からすれば西行法師の方が格段に上流の歌人である。

 俺は、ある種の芸術至上主義だ。現実とは無関係に、いかに上手な歌を詠むかに全力を注いでいる。それに対して西行法師の歌は、何処まで言っても人が「生きている」という現場から離れることがない。それは俺とは真逆の立場だし、そして俺に真似できようはずもない。それは仏門に入り、旅をし、様々な人生の有り様をその目で見てきた西行法師にしか辿り着けない境位であろう。


 西行法師は3日間我が家に滞在した。去り際、法師は俺に助言をくれた。


「秋の夕暮れを結句に何か詠じてみるのがよろしいと、拙僧は愚考いたしまする」


 それはなんの脈絡もない助言ではあったが、だからこそ天啓めいていた。姫様に与えられた「秋」という題にも適う。

 「秋の夕暮、秋の夕暮」と俺は、反芻するように、口の中で何度も呟いてた。

 妻に「いつまで軒先でぼっとしているのか」と怒鳴られるまで。


二月×日

 姫様に「我が家の梅の花を見ないか」と誘ってみたが、


「私は貴方をゆるしていません。歴史に残る傑作が完成した暁には、考えてあげましょう」


と返事が来た。

 あんなにうちの梅を見たがっていたくせに。

 強情な人だ。


三月×日

 九条の兼実殿が摂政を宣下された。すばらしいことだ。

 俺に言わせれば、兼実殿は朝廷の良心である。

 まず兼実殿は歌人である。

 歌人で性格の悪い者など、六条藤のジジイくらいなものである。

 あ、姫様も性悪だから、ふたりか。

 とにかく基本的に、歌人は善人が多い。

 だからまず間違いなく、兼実殿も善い志をお持ちだ。

 ついで、非常に有能であられるし、有職故実にも通暁なさっている。

 公平明大で、腐ったものを捨てる為には大鉈を振るう気概もある。

 度重なる戦乱と院の横暴にもかかわらず、朝廷がその体裁を保ち続けて来られたのは、兼実殿の存在あってこそと、俺は思っている。

 口さがない者どもは「鎌倉殿の間者では」と邪推するし、院の腰巾着どもは目の上のたんこぶのようにみなしているが、その実力は折り紙つきだ。


四月×日

 秋の夕暮れを歌った傑作が、二首ある。

 寂蓮殿の


「さびしさはその色としもなかりかり まき立つ山の秋の夕暮れ」


と、西行法師の


「心なき身にもあはれは知られけり しぎ立つ沢の秋の夕暮れ」


である。

 どちらの歌も、上の句で心情を述べ、結句に「秋の夕暮れ」を持ってきている。

 これは伝統的な歌道からズレた技法だ。

 従来は、上の句に風景が、下の句にその風景の詠嘆が来る。それが基本形である。

 一首を詠ずる間に、風景が述べられ、それに対する感情がその風景に色彩を与える。


 それに対して先の二首は、その前提を覆す。

 まず詠嘆があって、しかる後に風景だけが残る。

 色彩があって、それが無色透明になって、ただ風景だけが残る。


 そんな感じのことを思った。




五月×日

 「さびしさ」や「あはれ」は、たんなる言葉だ。

 たんなる言葉では、現実に肉薄できない。

 寂しく思っているときに、「俺は寂しいなぁ」と言っても、自分の感情の百分の一も表現できない。

 「さびしさ」という言葉は、寂しいという感情を表現するには、あまりにも貧弱である。

 寂しいという感情は、寂しいという言葉で表現されるよりも、風景によってもっともよく表現される。

 「寂しい」という言葉よりも、「秋の夕暮れ」の方が、自分の感情に合致する。


 むー。自分でも何言ってるかわからなくなってきた。



六月×日

 姫様に「何に一番寂しさを感じるか」と伺ってみた。


「淡路の松帆の浦や、浦の苫屋とまや。浦、入江、海に寂しさを感じる」


との返信を頂いた。

 浦の苫屋、つまり入江にある粗末な小屋。

 ふむ。これがよいかもしらん。


 「浦の苫屋の秋の夕暮れ」


 眼前には、夕暮れ時の海。

 入江にポツンと打ち捨てられあちこちボロボロな小屋だけが、ある。

 秋の潮風の冷たさと、風景の寂しさ。

 寂しい。

 寂しくて、佗しい。


七月×日

 言葉で感情を表現することはできない。

 「寂しさ」という言葉は、寂しい感情を十全には表現できない。

 寂しい感情は、秋の夕暮れがもっともよく表現する。

 だがしかし。

 それならそもそも「寂しい」という言葉を31文字に組み入れる必要などないのではないか。

 どうせ「寂しい」という言葉は、俺の気持ちの百分の一も表現できぬのだ。

 ならば。

 上の句も下の句も、「寂しさ」を表現する「風景」によって構成してはどうか。


八月×日

 姫様も西行法師も、俺の歌の、夢幻さを評価してくれる。

 夢を見るような歌だと言う。

 まぁ姫様はついでに「起きながら夢を見ている愚か者」とも付け加えるが。


 閑話休題。

 ならば俺の持ち味を全力で生かそう。

 夢から覚めた現実の風景であるような。

 現実と思っていたのに夢であったような。

 そういう歌を作ろう。


九月×日

 夢とはなんだろう。

 在るけど、無いもの。無いけど、在るもの。

 目が覚めても、夢の中での感情は残る。

 夢を見ていても、それは現実の風景に似た何かだ。

 夢とうつつは対立するものではない。

 夢とは、現ではないものだ。

 現とは夢ではないものだ。

 「ではない」という否定によって、夢と現は、互いに結びつく。



十月×日

 荒涼とした海辺の、寂しい風景。

 粗末な小屋だけがポツンと野ざらしになっているような、秋の夕暮れ。

 それが現だ。


 では夢はなんだ?

 荒涼とはしていない、寂しくはない風景。

 それは賑やかという意味ではない。


 それはなんだ?

 見渡せば満開の桜、真っ赤に燃える紅葉。

 色彩に溢れた風景。

 夢の中は、色彩に溢れている。

 喜びにあふれている。

 生命にあふれている。

 刺激にあふれている。

 見渡せば満開の桜。

 見渡せば真っ赤に燃える紅葉。

 思わず「あはれ」と嘆息してしまう、美しい風景が目の前に広がる。

 しかし、それは夢なのだ。


 では現はなんだ?

 現には、桜も紅葉も何処にもないのだ。

 夢から覚めれば、何もない。

 ただ夕暮れと、野ざらしの廃墟があるだけなのだ。

 潮騒が聞こえる。海の音が寂しく聞こえて来る。

 潮風が肌を撫でる。秋の潮風はひとしおに寒々しい。

 先まで夢を見ていた分、余計に、さむい。

 余計に、寂しい。

 余計に、何もなく感じる。

 見渡せば桜と紅葉があったのに、見渡しても何もない。そんな入江の夕暮れなのだ。

 



十一月×日



見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ




十二月×日

 例の歌を姫様に送った。

 返信が来た。

 一行だけ認められていた。



「来年は、梅の花を一緒に見ましょう」




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