訳者あとがき
二話同時投稿。
以上が『愚記』全文の拙訳である。
21年にわたるこの日記は、蝋燭が燃え尽きるかのような最後を迎える。
『源氏物語』のラストのように、その終わり方は唐突で、呆気ない。
この日記は「夢の浮橋」のように、途絶えてしまう。
日記を読み進んでいた我々は、夢の途中で目が覚めたような読後感に襲われる。
なかなか不思議で興味深い日記である。少なくとも500円以上の価値はある。
さてこの日記がもし本物で、実際に平安末期から鎌倉初期にかかれたものだとするならば、作者は藤原定家であり、「姫様」とは式子内親王である。
これは日記の内容から見て間違いない。
しかしおそらくは、後世のフィクションであろう。史実にそぐわない記述が多々あるからだ。
定家は『明月記』という日記を残している。
『明月記』は克明な筆致で書かれた一級史料で、国宝指定されている日記である。
その日記と、この『愚記』の記述とには食い違いが多々あるのだ。
たとえば『愚記』冒頭(1180年)で、作者は住吉大社に参拝しているが、『明月記』によれば定家が初めて住吉に赴いたのは1201年のことである。冒頭から史実と異なる内容が書かれていることになる。そのほかにも、式子内親王と初対面の日付、九条家に出仕し始めた時期、婚姻の時期など、『明月記』に反した叙述は多い。
では、この「お姫様」をめぐる記述のすべてが全くの嘘っぱちかというと、そうでもない。
定家と式子内親王は、恋仲とは言わずとも、深い仲であったらしい。
1200年の年始ごろから式子内親王は病に伏せた。そのあたりから、頻繁に定家は彼女のもとを訪問するようになる。
定家は式子内親王の亡くなる直前まで、彼女のもとに足しげく通ったことが『明月記』に記されている。
定家は彼女の容態を克明に書き記しているのだが、式子内親王の死については、何も書き残していない。定家が式子内親王の死について初めて触れるのは、そのちょうど一年後、彼女の命日にである。個人的に興味深いことに、彼女の命日の前月に、定家は日吉大社に参籠し、そして「夢想を得た」と『明月記』のなかで述懐している。いったいいかなる夢想を得たのだろうか。
定家と式子内親王が浅からぬ仲にあったという噂は、定家の生前からあったらしい。そして彼の死後、やや美化される形で人口に膾炙し、多くの文芸作品が生まれた。たとえば能の『定家葛』や謡曲『定家』などである。この『愚記』も、室町あたりに流行った定家と式子内親王の恋愛物語の一種なのかもしれない。というよりその可能性の方が高い。
しかし、ここで一つ面白い話を紹介しておこう。『毎月抄』という定家の著作のなかで、「住吉大社で神託を受け、日記を書き出した」という記述があるのだ。この日記とは『明月記』のことだとされる。だが先述したように、『明月記』によれば定家が初めて住吉大社に参拝したのは、1201年のことである。『毎月抄』と『明月記』との間には矛盾がある。だとするなら、定家が『明月記』以外の日記を書いていたという可能性も、否定できぬのではなかろうか。
また先ほど「記述に食い違いが多々ある」と言ったが、裏を返せば『明月記』と『愚記』は、細部を除けば同じ内容を含んでいるのである。たとえば定家の歌を詠んで彼の父(俊成)が感涙した話や、歌合の日時、昇進の具合など。これらは公的に残っている記録ではなく、『明月記』にのみ記された彼のプライペートな情報である。それゆえ『明月記』を読んだことのあるものしか、『愚記』を著すことはできまい。ところがもし『明月記』を読んだことがあるなら、住吉大社の記述やそのほか細かい点も読んでいるはずであり、そこを蔑ろにするわけがない。
まぁ実際のところはわからない。ただ虚構と判じきれないところにモヤモヤした感じが残り、この日記の内容が「もしかしたら本当なのでは?」という妄想だけが私の中に残り続けている。夢から覚めてもまだ夢の中にいるように。
少々余計なことを書きすぎたので、そろそろ筆をおこう。
最後に、史実とされる定家の略年表を載せておく。
1159年 式子、加茂斎院に卜定される。
1162年 定家誕生。父は俊成、母は美福門院加賀。
1169年 式子、斎院退下。
1178年 定家、上賀茂神社での歌合にて処女作を出詠。
1180年 『明月記』を書き始める。定家19歳。
1181年 定家、式子内親王に初対面。彼女について「えもいえぬ薫物の香りをもはや忘れることはできない」と述べている。
1182年 定家、「堀川題百首」を詠ずる。その出来栄えに父母感涙。
1183年 二月 後白河院、俊成に勅撰集編纂を命ずる。
同年 八月 後鳥羽天皇、践祚。
1184年 定家の長男、光家誕生。
1185年 三月、壇ノ浦で平家滅亡。
同年 六月 文治京都地震。
1188年 俊成、『千載和歌集』奏覧。
1190年 式子、八条院呪詛の疑義をかけられ出家。
同年 七月 源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。
1193年 二月 定家母、没。
1193年 秋 六百番歌合。
1194年 定家、西園寺実宗女と再婚。
1196年 式子、橘兼仲妻妖言事件に巻き込まれる。
1198年 土御門天皇即位。
同年 定家次男 為家誕生。
1200年 定家、式子、後鳥羽上皇主催「正治初度百首」に詠進。
1201年 一月 式子、没(53歳)。定家は足しげく彼女のもとに通い、病態を克明に記述。
同年 六月 千五百番歌合。
同年 七月 定家、新古今和歌集の編纂開始。
同年 十月 定家、後鳥羽上皇の熊野御幸にお供。
同年 十二月 定家、日吉社に参籠し、夢想を得る。
1202年 一月 定家、式子内親王の死について初めて言及。
1204年 定家父 俊成、没。
1205年 新古今和歌集、編纂終了の宴。ただし定家はその出来に納得できずに欠席。
1206年 良経、没。
1210年 順徳天皇、践祚。
1220年 定家、後鳥羽上皇の怒りに触れ、公の出座・出詠を禁ぜられる。
同年 自宅謹慎中に、『源氏物語』などを書写し、それが現在の源氏物語の定本となる。
1221年 四月 仲忝天皇、践祚。
同年 五月 承久の乱
同年 七月 後鳥羽院、隠岐に流される。
同年 同月 後堀河天皇、践祚。
1225年 定家次男、為家、蔵人頭に任ぜられ、定家感涙。
1232年 四条天皇、践祚。
1237年 家隆、没。
1235年 六月 定家、百人一首を選出。
1239年 後鳥羽院、没。
1241年 定家、没(80歳)。




