第5話シチューを食べて
コトコト、という音と良い匂いがにつられて、意識が浮上する。
何か、暖かくて柔らかい物に包まれながら、横たわっている感覚がする。ひどく心地が良い。
ここはどこだろう、俺は何をしていたんだっけ、ああ、そうだ、俺は、また寝ていたのか。確か、あのピクシーを追い掛けていて、茸の輪っか、そうだ、いわゆる妖精の輪に入って気を失って…
まだ半分夢見心地で、気絶する前のことをとろとろと思い出していると、突然声が降ってきた。
「ああ、起きたんだね」
その声に驚き、急いで上半身を起こして声の方向を見る。
そこには、優しい顔をした女性が料理をしながら、こちらを振り返っていた。
決して知り合いではない、会ったことのない女性だ。しかし彼女は、まるで古い付き合いであるかのように、親しげな雰囲気を醸し出しながら話しかけてくる。
「体に痛いところはあるかい?頭は?まったく、災難だったねえ。ああ、お腹はどう?空いているだろう?この年頃の男の子は、お腹を空かせてばかりだからねえ、今調度シチューが出来上がるからね、たんとおたべ。ああ、それから…」
口を挟むことを許さないとでも言うような、近所のおばさんを彷彿とさせるマシンガントーク。それに圧倒された俺は、いえ、だかはあ、だかをぼそぼそと言うことしか出来なかった。
一体、この女性は誰なんだろう。この人が、気絶した俺を助けてくれたんだろうか。
再び起こった訳のわからない状態に、俺は手元の布を無意識に握りしめていた。そこで、俺は今ベットのようなものに寝かされ、シーツをかけられていたことに気がついた。女性の回りに意識を向けると、ここが木でできた暖かみのある部屋だということも分かった。ここはどこだろう、そう俺が困惑しているのに気づいたのだろうか、女性は一旦言葉を切り、料理をする手を止め、此方を向いて謝罪した。
「あら、そういえば、私が誰かも、ここがどこかもまだ言ってなかったわね、ごめんなさい。」
「いえ…」
「私の名前はマリー、そうね、あなたのような人たちからはシルキーと呼ばれていたわ」
シルキー、確かそれは、妖精の一種族の名前だ。絹を着て、家の家事を手伝ってくれるという妖精であったはずだ、多分。
確かに目の前の女性は絹のような服を着ていて、いかにも手慣れた手つきで料理をしている。よく見れば、どことなく昔見たシルキーの挿し絵に似ているような気もする。先ほどのピクシーと言い、やはりこの世界には、妖精が存在するのか。
「あなた、外で倒れていたのよ、覚えてるかしら?勝手にここまで運んでしまったけれど、大丈夫だったかしら。」
やはり、マリーさんが介抱してくれたらしい。
「あ、ありがとうございます、茅原優人です。」
俺が名前を言うと、マリーさんはほんの少し驚いたような顔をした。
「カヤハラユウト…聞き覚えのない発音ね、あなたはどこの出身なのかしら。」
少し難しい質問だ、どう説明したら良いのだろう。
「ええと、多分、こことはちょっと、違うところなんですけど…」
俺がしどろもどろになりながら答えると、マリーさんは微笑みながら、ああ、と言った。
「大丈夫よ、それはわかっているわ。ここにはね、こうしてたまに、こちらの世界に来る人達がいるのよ。今までにも何人か見たわ。だから、教えてほしいのはあちらの世界の中で、どのあたりの出身なのか、よ。」
マリーさんがそう言ったとき、俺は、心に氷が一瞬だけあてられたような気持ちになった。そうか、そんなにここへ来る人は多いのか。ならば、俺は特別選ばれてここへ来た、というわけではなさそうだ。今まで読んできた本の主人公たちのように特別な存在なのではなく、ただの、事故で迷いこんでしまった登場人物なのだろう。不思議な体験と共に、少しずつ盛り上がってしまっていた幼い心、冒険とか魔法とか、そんなものに憧れた心が、少しだけ萎むのがわかった。いや、そもそもちょっと不思議なことを体験しただけで、どうして自分は主人公だと思えたのか。そんな小学生みたいな心はいい加減成長させないと。恥ずかしいぞ優人、どうした優人。
俺が難しい表情で黙ってしまったのを心配したのだろう、マリーさんがこちらを困ったような顔で伺ってきたので、俺は笑顔を作りながら、すみません、と謝って答えた。
「俺はあっちの、日本、という国の中の、東京、というところに住んでいました。」
返答をした俺に、少しほっとしながらマリーさんが言った。
「ニホン、やっぱり聞いたことのない国ね、その国はどこにあるのかしら?今までイギリス、やチュウゴク、という国は聞いたことがあるのだけれど。」
「あ、その、中国の東の方にある国です。イギリスからは少し遠いかな…」
「そうなの、じゃあ今回は皆そのニホン、から来ているのね。」
今回は?どういうことなんだろう、不定期にあちらの世界から人が迷い込んでくる訳ではないのか?
マリーさんにその事を聞こうとした時、突然マリーさんが「あら、大変!」と言って後ろの鍋の方に振り返った。
「いけない、シチューを煮込んでいたのを忘れていたわ。」
なるほど、鍋からはぐつぐつという音と、とても良い匂いがする。なんて良い匂いなんだ、ごくり、と口のなかに溜まった唾液を飲み込む。そういえばお腹も空いていた。
いいなあ、美味しそうだなあ、そう思ったせいか、突然お腹がぐるる、と音を立てる。それも盛大に。しまった、これは絶対に聞かれたぞ。
そっとマリーさんの方を伺う。そこには笑ってこっちを見ているマリーさんがいて、やはり、腹が鳴る音を聞かれていたのだ、と恥ずかしくなる。顔が赤くなるのが自分でもわかり、思わず顔を伏せた。
けれどマリーさんはこちらをからかうようなことはせず、むしろ優しい声で言った。
「やっぱり、お腹がすいてるのね。わからないことだらけで色々聞きたいことがあるかもしれないけれど、まずはご飯を食べて落ち着きましょうか。何事も、まずは温かいご飯からよ。」
そして、木の器に入れたシチューを持ってきてくれた。
とろっとした優しいミルク色のクリームスープに、柔らかく煮込んだ野菜が入った温かいシチュー、それはとても美味しそうだった。
確かに聞きたいことはまだまだ沢山ある。けれど、マリーさんの言うとおり、まずは温かいシチューを食べることにしよう。腹が減っては戦は出来ぬって言うしね。