第2話知らない本
特別な理由がない限り、ほとんどの子供はお伽噺を読むだろう。
もちろん俺も読んでいた。両親にねだって読み聞かせてもらった絵本たちは、ファンタジーの世界への入り口となった。虹色に輝く綺麗な魔法は子供のころの俺を虜にした。
現実にはない不思議な世界に魅せられ、本を貪るように読み、夢中になって知識を蓄えてから十数年。
俺はあまり立派とは言えない大人になろうとしていた。
「あ、茅原くん、進路希望は提出してもらったっけ?」
廊下ですれ違った担任の先生は俺の顔を見てそう言った。
「すみません、まだです。」
俺が答えると、先生は特に怒りもせず、もう提出期限は過ぎているから早めに出して欲しいと言って職員室へ去っていった。
ここら辺で自己紹介をはさんだほうがいいんだろうか。
俺は茅原優人。まだ大人じゃない、高校3年生。
目下の悩みは、そう、青年たちにとっての大きな壁、進路選択。
就職か進学か、就職をするなら何をしたいのか、進学をしたいなら何を学びたいのか。
俺は、将来何をするのかを決めかねていた。だってなりたいものなんてわからなかったから。したいことなんて思い付かなかったから。
いや、それは嘘。本当は嘘。正直に言ってしまうと、やりたいことが一つだけある。
魔法や妖精についての知識を学び、生かし、教えること。
これは、俺の唯一の好きなことと言っても過言ではない。もう半分くらい忘れてるけど。いいんだ、学び直せば。
しかしながら、これを将来の夢として置くと、未来がちょっと厳しくなる。
大学教授になるとしても、うちには院に行かせるほどの金はない、と言われてしまうのが関の山だろう。
それならば、とファンタジーに関する展示のある文化施設を調べても、求人は決して芳しいとは言えない。
だからこそ、夢は夢として心の奥に仕舞ったのに、そうしたらやりたいことがなくなってしまった。困った。
そんなことを思っているうちにも、タイムリミットは刻々と迫ってくる。いやもう過ぎてるけど。
深く重いため息を吐きながら、上の階にある図書室へと向かう。ちょうど借りた本を返しに行くところだったのだ、ちょうどいい、進路のこともあの静かな場所で考えよう。
そう思いながら階段を上った。
俺の通っている学校の図書室は、広くはないが小さくもない、ごく普通の図書室だ。
当たり前のことだが、市や県の図書館より蔵書数は少なく、勉強に関する本の比率が大きい。俺が今日返却する本も、苦手な化学に関する本である。
いつものように返却をしてもらい、自分で棚へ戻しに行く。これが我が高校のルールなのだ。
ふと、隣の棚が目に入った。確か隣の棚は小説だったはずだ。見てみると、確かにファンタジージャンルの小説の本棚だった。思わず、懐かしい、と呟きが零れた。
実を言うと、俺はある程度大きくなってから、ファンタジーに関する本を読まなくなってしまった。近所の図書館にあるファンタジー小説は殆んど読んでしまったし、有名な妖精事典やルーンの本も読んでいた。だからこそ大人になったらもっと難しい本を読むんだ、と息巻いていたのに、大きくなるにつれて現実を知ってしまったのだ。妖精はどこにもいない、魔法は誰も使えない、そう理解した時のショックは相当大きかった。小学6年生になって、初めてサンタさんが居ないと知った時のような衝撃を受けたと思って欲しい。かなり辛いと思う。俺も辛かった。
そしてそのショックをきっかけに、俺はファンタジーから一定の距離を置くようになった。もちろん、今でも魔法やら妖精やらは大好きだ。でも、本を開いて読む気には、どうしてもなれなかった。
学校にあるファンタジーの本は、大体一度は読んだ本のようだ。見覚えのある背表紙がずらりと並んでいる。
その時、一冊の本に目がとまった。その本を手にとって表紙を見てみる。まだ新しいものらしく、とても綺麗な状態だった。そして肝心の題名はと言うと、
「…『幻想世界の戦い方』」
初めて見るものだった。
久しぶりに、読んでみよう。そう思って表紙を開く。
そこには次のような文章が書かれていた。
ルーンを覚えてる?善き隣人とのつきあい方は?思い出してごらん、きっと助けになるだろう。
小説の最初にこのような短い文章が書いてあるのは珍しくない。よく本編に関わる言葉が何処からか引用されてくるのだ。
ただ、何かこの言葉に引っ掛かるものがあった。
ルーンと妖精は、小さい頃に特に好きだったものだった。妖精は「善き隣人」とも呼ばれたりするので、これは妖精のことだと考えていいだろう。久方ぶりに見た単語に、懐かしさが込み上げてくる。もう、ぼんやりとしか思い出せない知識たち。それでもやはり、目に、耳に染み付いているのだ。
さて、この本にはルーンと妖精の謎解きでも仕込まれているのだろうか。だとすれば残念だ、もっとしっかりと覚えていたなら、きっと楽しめただろうに。
そう思いながらページをめくる。そこに最初に描いてあったのは、小さな絵だった。黒いインクで描かれた、外国の挿し絵のような絵だった。昆虫のような透き通った羽と、アルファベットのような、いや、これは違う、ルーン文字が描かれている。
そしてもうひとつ、目を閉じた動物のような、何かよくわからないものも描かれていた。これは一体何だろうと、その動物のようなものをじっと見る。その時、
「!」
動物と目が合った。動物の目が開き、此方を見たのだ。
いや、そんなはずはない。何かの見間違いか。きっとそうだ。多分、そのはず。
俺が動揺してそんなことを思った瞬間、本がブルブルと震えだし、地響きのような音を出しながらーーー絵が、本から溢れだした。
インクで出来た小さな絵と同じものが、轟音を立てながら、本から大量に溢れてくる。まるで決壊したダムのように、その勢いは止まらない。
「った、たすけ、っ」
ろくに助けを求める隙もなく、俺は大量の絵に飲み込まれていく。
足が、体が、肩が、頭が、全身が飲み込まれ、そして、
視界は暗転し、意識を失った。