ヒトとアヤカシの狭間の物語
幼いころから、よく見る夢だった。
そこで俺は、生きるか、死ぬかの選択を迫られるのだ。
ほら、よくある話だろう?
夏休み、することも無いからアイスを口に入れ、クーラーの効いた部屋でテレビをつけるのだ。そこでたまたまニュースをやっていて、見たいわけじゃないのだけど、他に見るものもないし…、とそれを見る。
今年は甲子園、ここが勝ったのか。とか、熱中症で何人が搬送された、とか。
そして、こんなニュースもあるはずだ。
――川で遊んでいた家族が溺れ、子供は意識不明の重体。母親はまだ見つかっておらず、警察は近隣の住民に――。
……とかね。
よくある話だ。
そして、そのよくある話の当事者が俺だっただけ。ただそれだけのことだ。
それから、この夢を見るようになった。
そこでは俺は、生きるか死ぬかの選択を迫られる。
あついあつい、夏の日。
俺は縁側に座って、裸足の足をぶらぶらさせているのだ。
俺はその頃、ようやく足で「パー」をできるようになり、誰かに見せたくて仕方がなかった。だからなんの気もなしに、呼んだのだ。
-――おかあさん、きーて。おれ、足でじゃんけんできるんだよ。
しかし母さんは来ない。
当たり前だ。だって母さんは川から出てこなかったのだから。
そこで俺は、この広い田舎の家に、自分がひとりぼっちである、とはじめて気がつき焦るのだ。
何度同じ夢を見ても、ここは変わらない。……いつでも。今でも、そうかもしれない。胸がどきどきして、恐ろしくなるのだ。…恐ろしいから、おかあさん、おかあさん、と母を何度も呼ぶのに、返ってくるのは静寂のみである。
わけもなく泣きそうになると、その時、ぬるりと足がぬめるのを感じる。
ぎゃっと驚き、縁側に立ち上がってみれば、地面をゆうら、ゆうらと這う白い大蛇が見えるのだ。
そいつはこちらが見えていないように、なんの素振りも見せず、向こうへ行ってしまうのだ。
そこで俺は思い出す。…白い蛇は、神さまの使いだと、縁起物だと、母さんは言っていた。ならばこの蛇を捕まえれば、きっと母が帰ってくるはずである。…と。
なんの脈絡もない、いかにも夢らしい考えである。
しかし、兎にも角にも、と俺は縁側をぴょんと降りると、白い蛇の後を追い始めた。靴を履き忘れたことに途中で気がつくのだが、もう遅い。俺は蛇を追って、灼熱のアスファルトの上に立っている。
蛇は熱なんぞ全く感じないように、ゆうら、ゆうらと躰をゆらして道を往くが、俺はそうはいかない。足の裏が焼けるように痛いのだ。俺は泣きながら、蛇の後を追う。
するとしばらくして、家からすぐ近くの御社に到着する。蛇は参道…、と呼べるほど立派ではないが、それの真ん中を突っ切って鳥居をくぐった。俺もそれを追う。
御社は、山神サマを祀るもので、代々俺の家が管理をしているモノだった。といっても、宮司だの、神主だのはいない。たまに掃除したり、御賽銭箱の中身を新しい注連縄に変えたり、うちで採れた新米をお供えしたり。『管理』というのがぴったりだ。
母さんはここが大好きで、よく俺と一緒に来た。雑草が生えすぎた時だけ、草を刈ったが、あとは植物たちの思いのままにしていた。
――ここは山神サマの御社だもの。きっちりするより、思い思いに枝を伸ばしていた方が山神サマも喜ぶでしょうよ。
それが母さんの口癖だった。
おかげで参道と辛うじて呼べるのは、鳥居の周辺のみで、あとは草花が思い思いに伸びている。
俺は蛇がここに入るのを見て少しほっとした――。草ならアスファルトほど熱くないと思ったのだ。
しかし実際は草は思ったほど涼しくないし、足の裏がちくちくして、もう嫌になった。泣きそうになるのを堪えるために、しばし上を向いて歯を食いしばった時に気付く。
――蛇がいない。
あれだけ苦労して追ったのに、これじゃあんまりじゃないか。と俺が辺りを見まわすと、御社の裏手に、白い影がちらと見えた。裏はもうすぐに森が、そして山が広がっている。俺は目からあふれる液体をぬぐって、手をむちゃくちゃにかき回して、蛇を追った。
裏手に行くと、そこに蛇は無く。そこにいたのは年端もいかぬような乙女で。なぜか白い上着に、紅い袴――、いわゆる、巫女服というやつを着ていた。この御社には巫女はいない。少なくとも、母さんはそんなことを言ってなかった。
その巫女服の乙女は、こちらを不思議そうに見てくる。黒目が大きく、何もかもが見透かされそうな、その瞳がなぜか気に喰わなかった。俺は突然、腹のあたりにむかむかした黒い渦のようなものが溜まるのを感じるのだ。
-――おい、なんだよお前。だれだよ。ここはおかあさんのオヤシロなんだぞ。
そう言うと、乙女は困ったように、首を傾げた。
それを見た俺は、激しくわめいた。
――おい、だれだって、きいてんだろ!答えろよ!ここはおかあさんのオヤシロだぞ。なんで関係ないお前が、そんな服着てるんだ。はやく、向こう行けよ。俺は蛇を捕まえて、おかあさんに見せるんだ。
悔しかったのだ。ここは俺と母さんの御社だったはずなのに、いきなり、知らない人がいるのを見たから。俺と母さんの場所がなくなる気がして、怖かったのだ。
その巫女服の乙女の向こう側に、さっきの白い蛇がゆらゆらしているのが見えたので、俺はあわてて走りだした。
乙女の脇をすり抜ける瞬間。今まで何もせず、何も喋らなかった乙女が、急に言葉を発した。
――生きたい?死にたい?
その突然すぎる問いかけに、俺は答えられなかった。びっくりして蛇を追おうとしていた足が止まる。
乙女はなおも、問いかける。
――生きたい?死にたい?
俺は怒って怒鳴り散らした。
――なんだよ、知らないよ。生きたいに決まってるだろ!
すると乙女は満足したように頷いて、「なら帰れ」と言うのだ。
俺は好奇心と、それから、帰れと命令されたことに対する反発から問いかける。
――死にたいだと、どうなるんだ?
乙女はひどく冷たい目を俺に寄越す。
そして、俺を見ながら、俺でない誰かに語りかけるのだ。
――ね、どう思う?『みんな』。
すると、不思議なことがおこった。
――さいサン、本気かいな。なンでこんなガキを。
――ニンゲンだぞ?しかも、もう年をとっている。赤子でなければ、俺は賛成できんね。
――いやいや。さいサマの目に、狂いはなかろう。
――おい、誰じゃァ?このガキ引き入れたんは。名乗り出んか。
俺は怖くなった。なぜって、この御社には、俺と、この乙女しかいなかったはずなのに。
聞こえる声は軽く百を超えるだろう。急に聞こえるようになった、わしゃわしゃした声。
俺はわけがわからなくなって、ついにぼろぼろと涙をこぼしてしまった。
――お前らも、誰だよ!ここはおかあさんと、俺のオヤシロだぞ!それに俺はまだ九歳だ!蛇を追って、ここに来たんだ!なんでおまえらがいるんだ。なんでおかあさんはいないんだ。なんで、なんで………。
俺が叫んだ瞬間、驚くほどに一瞬で御社は静まり返った。さっきまでは、声が聞こえる前も、木々がざわめいていたのに、それすらなくなっている。
すると乙女がすっと俺の横に膝をついた。涙をぬぐってくれたので、遠慮なく鼻水もかませてもらう。ずびび!という間抜けな音が、森に響きわたった。
――お前さん、声がきこえるの?
そう問いかけられた俺は、素直に頷く。
――姿は、見える?
俺は首を振った。
乙女は、そうか、と首を軽く振って立ち上がった。そして口に手を近づけ、ヒュウイッと不思議な指笛を鳴らした。
ざわ、と森が動き、俺の真後ろにはいつのまにか三人のヒトが立っているのだ。
一人は、白い髪の、どことなく飄々とした雰囲気をもつ男性。
一人は、見事な桜色の髪を持つ、氷のような雰囲気のうら若き女性。
一人は、黒い髪を後ろに撫でつけた、どことなく貫録のある雰囲気の男性だった。
白髪の男性が、乙女に問いかけた。
――どうだ。
乙女は応える。
――もう、この子は駄目だ。聞こえている。この子は既に、耳を持っている。
俺は耳なら生まれつきあるぞ!と反論したかったが、そんな雰囲気でなかったし、なにより知らない大人が急に現れて恐ろしかった。
さっきの三人と、乙女はしばらく何かを話していた。
そして乙女は振り返り、
――もういちど聞く。生きたいか?死にたいか?
俺はぐすぐす泣きながら答えた。
――死にたい。おれ、おかあさんと、おなじとこ行く。
そして、それからどうなったか。
-―――それから俺は、妖怪たちと暮らしている。
「起きろッ、響!学校、あるんだろ?」
布団を勢いよく引っぺがされて、響は起きた。寝汗がひどい。シャワー浴びたい、と思いながら起き上がる。
「響、どうした。酷い顔だぞ」
そう言われて、響は返した。
「夢見たんだよ」
別の声が応える。「夢ェ?どんな?」
響はタオルを探しながら言った。「俺とウワバミがはじめて会ったときの」
またまた別の声が言った。「そりゃあ悪夢じゃ」
その声に聞き覚えのあった響は、ふっと振り返った。「浜路?久しぶりだな!」
「ウワバミの夢なんぞ、心に毒ぞ。響や。…くく、そっちじゃない。こっちよ、響」
浜路は、見当違いのほうを向いた響に笑いかけた。
すると下の、台所のほうから、若い男の声がした。瞬間、浜路が舌打ちをして、どろんと消えるのを、響は聞いた。
「おおい、響。朝飯できたぞ。食え」
響はようやく見つけたタオルを手にして、屋根裏の寝室から降りた。
「おはよ、ウワバミ」
コンロの前に立つ、白髪の男性が振り返って笑う。切れ長の目がさらに細められ、線のようになった。
「おお、おはよう。さっき俺の話をしていなかったか?」
「うん。浜路と一緒に。ウワバミがうざいって話」
「おい!」
くわっと怒鳴りかけたウワバミを軽くかわして、響はシャワーを浴びるために風呂場に駆け込んだ。
昔から見る夢。しかしこれは夢の中だけの話というわけではない。実際に起こったことだ。
母を亡くした響が体験した、本当の話。
…でもなあ、と響は考える。
――俺、最後なんて答えたんだっけ。
それだけが思い出せないのだ。実際、あの夢は何回も見たことがあるが、最後の問いかけに対する答えはいつも違う。たまに生きたり。たまに死ぬ。
シャワーの蛇口をキュウと閉めて、響は風呂を出た。
そこを見計らって、声をかけるモノがあった。
「響よぉ。新聞届いていたぞ。それから波山坊様からお便りと、西の道祖神から知らせだ」
「おお、悪いな。…ええっと、次郎坊、か?」
「おれは太郎坊のほうだ、アホ。八年もおるんだから、いい加減に覚えんかい」
いや、無茶言うな。と毒づきつつ、響は言われた通り、新聞を取りに玄関に出た。
ひとつ――、普通の新聞だ。ぱらっとめくって、興味が無いので、パス。
ふたつ――、波山坊からの手紙だ。「近々そちらに伺います。至急、話したいことがあります」とだけ書かれている。波山坊は言葉が少ない。せめてなんの用事なのかくらいは教えてほしい。
みっつ――、西の道祖神から式神だ。「よその物の怪が入りこんだ」とのこと。なぜ俺に知らせる、と、響は呆れた。
三点全てをまとめると、響は台所へと戻った。この家は、築六十年にもなる木造建築で、台所と、食事をする場所の仕切りのようなところが無い。よって、台所へ向かった、というのは、食事をしに行った、と同じ意味になる。
戻ってみれば、すでに今日来ているモノはみな、座って食事をはじめている。ウワバミの作る卵料理は絶品だ。ふわふわの卵焼きが食卓にあるのを見た響は、慌てて自分の茶碗と箸を用意した。早くしないと、自分の分が無くなる。
炊飯ジャーの前に立って、響は首を傾げた。しゃもじが無い。
それに気がついた女性がひとり、声をかけた。
「響、座りなさい。わたしがよそりましょう」
「ああ、さいさん。来てたんですね。いや、しゃもじが無くて…」
響がそう言うと、女性――さいは、スッと立ち上がり、響から茶碗を取りあげた。そして迷うことなく、ジャーの裏に隠れたしゃもじを見つけた。さいは、しばし迷うようにしゃもじを見つめ、水道で軽く洗った。どうやら汚れていたらしい。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
こんもり盛られたご飯に苦笑しつつ、響はありがたく受け取った。多すぎるが、きっとそれを言っても「成長期なのだから、食え」と言われるのはわかっている。
「正解ですよ」
さいが、心を読んだかのように言った。
「そういや、波山坊から、近々こちらに来る、との連絡がありました。」
卵焼きとご飯をふはふはしながらみなに報告すると、太郎坊と次郎坊は、露骨に嬉しそうな顔をした。ふたりは波山坊を、「波山坊様!」と言って慕っている。
「それから、西の道祖神が、余所のアヤカシが入りこんだ、と」
ウワバミが、露骨に嫌そうな顔をした。
「どこから来たモノか、わかるか?」
「さあ、そこまでは知らん」
ウワバミの質問に響が答えると、ウワバミはチッと大きく舌打ちをした。「役に立たんのう」
そしてこうも言った。「また浜路のようなモノに来られては困る」
するとなぜか、ウワバミの味噌汁がいきなり、ウワバミに飛びかかった。「うわっ!」と叫んでウワバミは逃げた。するとどこからともなく、「くひゃひゃ…」と、浜路の声がした。
今日も化かしは絶好調である。
ウワバミや、太郎坊、次郎坊だけではない。響がこの報告を食卓ですると、ぶわっと沢山の声がした。
――波山坊様が、戻られたか!
――なれば祝いの宴でもするかいの?
――そんなことより、狐が入りこんだというのは本当か。
――そんなことより、とは。お前怒られるぞ。
――まさか名のあるアヤカシではあるまいな。…戦が起きるぞ。
響は、さいから手渡してもらった納豆をわしわしかき混ぜながら、その声に問いかけた。
「なんで戦が起きる?ちょっと紛れ込んだだけなんだろ?」
声は、おろ?と一瞬戸惑う。
それを感じ取ったウワバミが言った。「お前さん、この家来るの、はじめてか」
――ああ、はじめてだ。今日、友人に連れられて、ここに。
答えた声を聞き、響は口を開きかけたが、ウワバミに先を越される。
「じゃ、ニンゲンと会話するのもはじめてか――。ここにいる響はな、声聞きの才を持ってるんだ。。妖怪であるお前の声も、聞こえているはずだぞ」
――……ほう!
声は、嬉しそうに感嘆の意を表した。
白い蛇を追いかけて、巫女服の乙女に会った、そのあとである。
響はいつの間にか気を失っていたらしく、白髪の男性の大きな背中の上で目を覚ました。
――っうわ!な、誰だよお前!ユーカイか?
すると男性はけらけら笑って答えた。
――誰がお前みたいな生意気なガキを誘拐するのか。天狗でもあるまいし。家まで送って行こう。
するといつの間にか横にいた、巫女服の乙女も言った。
――大丈夫ですよ。変なことはしませんから。
…嘘くさ。
響がそう思ったのが顔に出たのだろうか。巫女服の女性は「ほんとですよ」と穏やかに言った。
御社と、響の自宅とは、距離にして五十メートルも離れていない。あっという間についた。
縁側によっこらしょ、と響を降ろし、男性は「おお、肩が凝る」と言って首をごきごき鳴らした。
しかし響は困ったように、縁側でそのまま立ちすくんでいた。それを見たふたりは、顔を見合わせ、巫女服の乙女が問いかけた。
――おうちに、入らないの?
響は答えた。
――足、汚れてるから。畳よごす。
確かに見れば、先程の蛇との追いかけっこのせいで、足の裏はまっ黒に汚れている。だけでなく、アスファルトの上を走った時にしたらしい火傷の痕と、草で切ったような痕が見られた。
――畳汚すと、おかあさんにおこられるから。
そう、響が言うと、巫女服の乙女はするりと縁側から家に上がった。響が怒る間もなく戻ってきた彼女は、手に濡らしたタオルを持っていた。
――ほら、これで足を拭けばいい。
言われた通り、響はそれで足をぬぐった。響の家は井戸水を使っている。ひんやり冷えたタオルは、驚くほどに、気持ちがよかった。
その様子を、白髪の男性と、巫女服の乙女はじいっと見ていた。
響がふたりを見上げると、ふたりは、へらっと笑った。
すると、突然目の前に鴉が一羽、降り立った。珍しいことではない。響の家の、すぐ裏の山には鴉がたくさんいるのだ。があ、があと、いつもどおり鳴く彼だったが、その日はいつもと違った。
――ウワバミよ、さいサマよ。波山坊様が、いらっしゃいます。
なんと、鴉の声が聞こえたのだ。
たしかに、耳からはいつも通りの「があがあ」が聞こえるのだが、頭の中、と言えばいいのか、そこにはっきりとした『声』が聞こえるのだ。
――波山坊って、誰だ。
響は思わず問いかけた。すると白髪の男性と鴉がぎょっとしたようにこちらを見た。
――おめさん、俺の言葉がわかるのかいな。
鴉がまた、があ、があと鳴いた。やっぱり、声は聞こえた。
響が頷くと、鴉は嬉しそうな顔をした。…実際、鴉の顔の変化なんて、わかりゃしないのだが、聞こえる声が、嬉しそうだったのだ。
――そうか、本物だったか…。
白髪の男が顎をさすってつぶやいた。先程までの飄々としたなりは影を潜め、真剣な眼差しであった。
ただひとり、ちっとも驚いていなかった巫女服の乙女は、ほらね?と言ってにこにこした。響は、なんとなくだがこの女性に親近感をおぼえた。
――響、響や。自己紹介をしてもいいかしら?
巫女服の乙女が言うので、響は頷いた。
――まずはこちら。白い髪の男は、ウワバミという。さっきの白い蛇だよ。
――よろしくな、響。
響はウワバミに向かって頷く。
――そして、この鴉。裏の山を支配する天狗、波山坊様の眷属の――、
――太郎坊という。俺の言葉がわかるニンゲンは久しぶりに見た。よろしくな。
太郎坊が、後をひきとってつづけた。ついでに羽を大きく広げ、挨拶するサービス。
響は巫女服の乙女を見るが、自己紹介する気配がない。
――あなたは?
巫女服の乙女は、困ったように眉を下げた。
――わたしは、名前を持っていないの。
――『妻』(さい)と呼ばれておるがな。
くつくつとウワバミが笑った。
サイ。こんな可愛らしい乙女をつかまえて、サイとは失礼じゃないのか、と響は思った。
するとさいはそれを見透かしたように、「字が違いますよ」と言った。
突然、突風が吹いた。
砂が巻き上げられ、それが目に入った響は目をつむった。
ふたたび目を開くと、いつのまにやら、先刻の黒髪を後ろに撫でつけた男が、響の目の前に立っていた。
――おうおおう、なんじゃ、もう自己紹介をしとるんか。儂もまぜてくれ。
――波山坊様。このニンゲン、俺の言葉がわかるようなのです。
――おおう、そりゃあ、すげぇこっちゃのう。
太郎坊が嬉しそうにばさばさと羽を広げて、波山坊にまとわりつく。
――よう、響よ。儂はここらの山一帯を支配する、天狗の波山坊だ。よろしくな。
波山坊は響の頭をわしわしとなでながら言った。それに対し、響はこくりと頷いた。
それを見たウワバミがぽりぽりと頬をかきながら、つぶやいた。
――お前、驚かないんだな。
波山坊と、太郎坊もそれに同意した。
――そういや、そうじゃのう。
――普通なら、もっと驚くもんだぜ。おめさん、ほんとにニンゲンかい?
太郎坊はからかうように、があがあ鳴いた。
そんな彼らに、響はなんでもないことのように言った。
――だって、あなたたちのことは、ずっとおかあさんが、言ってたから。
瞬間、三人の顔が驚きで固まった。
「響。仏様にお供えして」
「はいよ。」
さいの声に返事をして、響は用意された緑茶を仏様のところへ運んだ。
お供えをして、蝋燭をつける。もうだいぶ短いので、これが終わったら交換しなくてはならない。火に線香を近づけ、軽く振ってから、ぶすっと刺しこんだ。いまだにこの壺のようなものの名前を知らない。知る必要もない。知ったところで、何も変わらないからだ。
ヂーン、と鳴らして仏様を呼ぶ。
「かあさん、おはよう」
響の母親の遺体は、まだ見つかっていない。
「…俺らはここをねぐらにして長いからな、響がこーんなちっこい頃から、知ってんのさ」
響が台所へ戻れば、ウワバミが誰かに話す声が聞こえる。
――じゃあ、響さんは生まれつき、声を聞けたんですかい?
これはきっと、今日はじめて来たという妖怪だろう。
「いやあ、そんなことはなかったさ。あいつが聞こえるようになったのは、京香さまが、いなくなってからだな」
「ウワバミが、山神サマの御社に、間違えて連れてきてしまったの。馬鹿でしょう」
ウワバミに冷静に突っ込んだのは、さいだ。
白い蛇は、とかく目立つ。そのせいで大方のモノは、幼いうちに、天敵に喰われて死ぬ。
むかし響が、波山坊に聞いたところによると、白蛇でウワバミほど長く生きているモノは、波山坊の知る限りいないらしい。
それだけでも目立つのに、さらに目立つエピソードがあった。ウワバミは、その軽い見た目と裏腹に、なんと山神の神使なのだ。
ウワバミは元は海の出身なのだが、たまたま陸に出た時、山神に、使いをやらないか、とスカウトされたのだ。海のモノが、山神の使いになった、ということで、当時はたいへん有名になったらしい。(本人談)
それだけ有名な神使であるウワバミが、「さま」をつけるのが、この妖怪は気になったらしい。不思議そうに問いかけた。
――……京香さま、ってのは、神様かなにかですか?
これには響が応える。
「京香ってのは、俺の母さんのことだよ。ただのニンゲン」
――…ははあ。キョウカ、と、キョウ。なるほど。字が似てますなあ。
「そうそう」
響は笑った。
ちなみに、響の声聞きの才。ヒトやアヤカシ区別なく、果ては風や、長寿の木々の声ですら聞き取れるのだが、目では見れない。よって、かなり見当違いなところに笑いかけていた。ウワバミが笑って「こっちだ」と言う。
「……おや?ところで、響よ。今日はまだ学校に行かなくていいのか?」
太郎坊の双子の弟である、次郎坊が、ふと響に話しかけた。時計を見れば、すでに七時五十分である。それを見た響は「ぐっ」と変にむせた。
「うっわ!やばい!ありがと……次郎坊!行ってきます!」
さいが小さく「正解」とつぶやいた。
響はあわてて自分の寝室である屋根裏に行き、鞄を取った。玄関で自転車に鍵を差し込み、家に向かって怒鳴る。
「いってきます!」
見送りに出たのは、ウワバミ、さい、太郎坊に次郎坊の四人だけだったが、
「「「「「いってらっしゃい!」」」」」
返すは、百の声であった。
響は、自転車で二十分の、公立の鴨川高校の二年だ。すでに学校は夏休みに入っているので授業は無いが、部活は別である。
響が所属するのは剣道部。練習は八時半からだ。
剣道、という競技は光を嫌う。目に入ると、相手の動きを捉えにくくなるからだ。よって、基本、剣道はカーテンを閉め切っておこなわれる。そしてこれは知らない人の方が少ないと思うが、剣道というものは、くさい。誰がどう頑張って言い訳したって、くさいのである。(たまにアロマの香りがするフェイクみたいな者もいる)
カーテンを閉め切ったせいで換気性がダウンした道場の中で、奇声を発しながら打ち合う男女。これを剣道を全く知らない者が見たら、怪しさと不憫さのあまり通報するだろう。
今おこなわれているのは、一本勝負。その名の通り、一本取られたら即終了。負け、というシビアな稽古だ。
そんななか、神棚のすぐ下。一番上座の試合場。素人でもわかるほどの白熱した試合が展開されていた。
戦うは、響と、その友人である篠原だ。一本取られたら終わり、という状況に、守りに入る部員が多いなか、このふたりだけは、お互いの全力をぶつけて攻めあっていた。
篠原が面を打てば、それに応じて響が胴を打つ。かと思えば、その胴を腕で防いだ篠原が振り返りざまに小手を狙う。だん、っという踏込の音と、ぱし、っという竹をはじく音が道場に響きわたる。
ふたりとも、わかっているのだ。こうして打ち合ってはいるが、これらはすべて本気ではない。一緒に一年も稽古をしていれば、相手がどこで仕掛けるかなんて大体想像がつく。本当の強弱というのは、お互いの技を出し切った後に見えるものなのだ。だから今までの打ち合いは「挨拶代わり」なんてしゃらくさいものではない。まんま、挨拶なのだ。
すっと、篠原が体を引いた。このふたりの勝負で、はじめて間合いが切れる。
(……仕掛けてくるな)
響は目を眇めた。さて、ここからが本番だ。どう間合いを造るか。
剣先が軽くふれあう。いわゆる遠間だ。この間合いは打つのに遠いので、ここから一歩入り、一足一刀と呼ばれる間をつくる。間合いというのは人によって違う。よって、どちらが先を取って、より自分に有利な間を造るかが、勝敗を決める大切なポイントになってくる。
するとカツン、と音がして、篠原の体がわずかに沈んだ。剣線もわずかに中心から下にずれる。
――っしゃ!チャンス!
そう本能的に感じ取った響は、右足をすっと前に出して、自分の間合いを造ろうとした、
その、一瞬。
まだ遠間であるにも関わらず、篠原は沈めた体の反動を使い、思いっきり、跳躍した。竹刀はまっすぐ、響の面に向いている。……しかし、いくら思い切り跳んでも、遠間からの打ちである。竹刀はわずかに、届かない――、
と、誰もが思っていた。
しかし篠原はそれをさとるや、瞬時に竹刀から右手を外した。左手だけの、自分と竹刀を一体とした、限界まで伸ばされたそのカタチの美しさたるや。
響は篠原の竹刀が自分に伸びてくるのがわかった。わかったのに、響は右足を出して、体重移動をする――いわゆる、居つき、と呼ばれる体勢だ。この時に打たれては、もうどう防ぎようもない。その一瞬を逃さない篠原は流石というべきである。
ぼふ、っと間の抜けた音がした。
「面アリッ」
審判の声が聞こえた。
「お前、いつの間に片手面なんて打てるようになったんだよ」
練習後、響は篠原に話しかけた。
「自分に打ちやすく、相手に遠い間を造れ、ってのは剣道の基本だぜ、響」
篠原がけらけら笑った。小手でかるくぽん、と響の胴を叩く。
「つーわけで、おれ、牛丼特盛な」
「…せめて大盛り」
「大盛りプラス唐揚げとギョーザならいいぞ」
「……いや、それ特盛より高いじゃん!」
響の悲鳴が、鴨川高校中に響きわたった。
響は食堂まで走った。夏休みでも昼までなら購買は開いている。ハーゲンダッツで妥協してくれた篠原に抹茶味を買い、自分のために、ゴリゴリくんを買う。
道場から食堂までは、そこそこ離れている。近道は、外系の部室棟の横を突っ切る道だ。学校の中を通って、ぎりぎりまで日光に当たらない作戦も考えたが、残念。食堂から校舎に入る通路は鍵が閉まっていた。ちゃちゃっと走るかな、と響は部室棟の方へ向かった。
影が欲しいが、時間は正午に近く、必然的に響は部室棟にほぼ張り付くよううに走っていた。そこに声をかける女子がひとり。
「よ、響。のぞきか?」
「あ、明石。誤解招くこと言うなよな!」
わざとおどけたように、女子バレー部の明石が声をかけた。アイスが二つはいった袋を見て「さすが篠原」という。お見通しらしい。
「明石、なんでここに?」
「ん、陸上部に用があってね。待ってたんだけど…」
来ないなあ、と明石はつぶやく。
「陸上と合同練習でもするのか?」
「ううん、違うよ。今日は陸上と、バレー部で宿題やっちゃおうって」
「……あ~」そんな拷問あったね、と響はつぶやいた。
「終わった?」
「終わるわけな……、あ、地理と日本史は終わった」
「うっそ!あれって一番大変じゃない?日本史とか、曖昧な歴史に対する考察って、無茶言うな!って感じじゃん!」
いやまあ。「歴史に詳しい人(妖怪)いてさ、手伝ってもらった」
「ええ!紹介してよ!どんな人?」
「………生き証人?」
「なにそれ」アハハ、と明石は笑った。
まさかアヤカシです、とは言えなかった。
道場に戻ると、篠原が窓から足を放りだしていた。道場には上窓と下窓がある。篠原がいるのは上窓。響もそれにならって棚を軽くよじ登り、窓枠に腰をおろした。
「何見てんの?」と、響がアイスを渡しながら聞くと、篠原はスプーンで外を指した
「陸上部の女子がわちゃわちゃしてる」
ほんとだ。華やかだなあ、と思いつつ、響はあることに気がついた。「……あれ、あそこって、バレー部の部室前じゃん。」
さては、とはっとした響は、アイスを脇に置いて窓から身を乗り出した。「おい!陸部!明石なら陸部の部室前にいたぞ!」
陸上部の女子たちは、びっくりしたように視線を動かし、響がいるのを見つけると「あ、ありがとう」とお辞儀をして移動した。きっと部室に向かったのだろう。
さて、俺もアイス食べよう、と袋を開けるとだいぶ溶けていた。うう、カップにすればよかったと思いながら大きく食べると歯にしみた。
「ん、今のどゆこと?」
と、篠原がさっぱりわからない様子で聞いてくるので、響は明石との会話を教えた。
篠原はなるほど、と言って頷くと、がぶりと抹茶味のアイスを大きく口に入れた。
「お前さー…。ま、いっか。」
篠原が途中で止めるので、響は続きが気になった。「なんだよ」
「ま、いいや。たぶんお前にもそのうちわかるよ。」
「なにが」
「……お前の友人は、よく恋愛相談を受けるのさ」
「え!誰の?どんなの?」
「守秘義務」
篠原は愉快そうに笑うと、応えなかった。
篠原とアイスを食べ終わり、しばらく自主練をした後。さあ着替えて帰るか、となったその時。携帯がちかちか光っているのに気がついた。ぱかっと開けてみれば、「たまごおかってこい。ウワバミ」とあった。夕飯も卵か、と思って「了解」と返信した。ウワバミは自分の名前以外、変換の仕方がわからないのだ。
篠原はバス通学だし、響は自転車通学だ。学校の正門前で「じゃあ」と言って、篠原と別れた響は、鴨川駅前のスーパーに行くために自転車を走らせようとしたが、
「ありゃ……タイムセールまであと二時間か」
ふむ、困った。これなら一旦家に帰った方がいいかもしれないな。
そう思った響は、家に自転車を向けた。
「ただいま!」
「おう、おかえり」
返ってきたのは、若い女の声だけだった。
この家は基本的にアヤカシのたまり場となっている。いくらアヤカシの時間は夜だからといって、この家がこんなに静かになるのは、ありえないことだ。不審に思った響は問いかけた。
「ウワバミたちは?」
「太郎坊の知らせを聞いて、あわてて御社に戻ったぞ」
そっか、と頷き響は靴を脱いで家に上がった。
食卓に和紙が置かれており、それには太郎坊の筆跡でこう書かれていた。
『波山に、玉梓殿が戻られた。』
ははあ、ウワバミたちが逃げたのはこのせいか、と思いながら響が居間に行くと、そこには黒髪の美女が寝そべってお菓子作りの本を読んでいた。響がうんざりして見ていると、視線に気づいた美女はおお、と声をかけた。
「なんじゃ、響だったのか。おかえり」
「ただいま、浜路。今日は美女に化けるの?」
「男の体は暑いでのう。女は楽ぞ。涼しい」
「……もうちょい、体勢考えてな」
ほーい、と返事をした浜路が全く体勢を変えないのを見て、響はため息をついた。
「そういえばな」と、浜路が本から目を上げずに言った。「朝来たばかりの妖怪が、ここにしばらくいさせてくれ、と言っていた」
響は浜路の横に腰をおろした。「ああ、べつにいいけど…。なんの妖怪?」
即答でOKを出すあたり、響は場慣れしている。
「付喪神。刀の。」ぺらっとページをめくる。
「え?それ、大丈夫か?」ここではじめて響が心配そうな顔をした。「アヤカシとか、山神サマの眷属は、鉄が嫌いなんだろ?」
浜路は嫌そうに、ぎゅっと眉をしかめた。「嫌いよ…嫌い。人間くさくてかなわん。あれでどれだけ同族が殺されたことか…。どれだけ住処を減らされたことか…。」
しかし、ふっと表情を和らげ「…しかしな、」と言った。
「あいつは大丈夫よ。あいつは守り刀だったんだと。人を切らず、主のみを守る…。いい刀だ。血の匂いもしなかった。きっと、お前にもご利益をくれるさ」
「浜路がそこまで言うなら、俺に異論はない。……けど」
「けど?」浜路がちらと心配そうに響を見上げる。
響はしぼりだすように言った。「……食費は自分で稼いで来い、とだけ言っておく」
響はいつのまにか手にした通帳を持って泣いていた。
響の家は、基本的に父親の金で生活をしている。父親は今は遠くで働いており、もう何年も顔を見ていない。ときたま、思い出したようにふらっと帰ってくるが、翌日にはどこかへ行ってしまう。月に決まった金額を振り込んでくれるので、生きていることはわかるが、それっきりだ。おそらく向こうも同じようにして、息子が息をしていることを確認しているのだろう。なんと冷淡な、と思うかもしれないが、これが響にとって普通だった。
それほど、響の心は父親から離れていた。
そもそも九歳の、母を失ったばかりの息子を一人にしておく時点で、父親の考えが窺えるというものだ。きっと適当なところでくたばってほしいとでも思っているのだろう。
そんな状況で、響がくさらず、まっすぐ健康に生きてこれたのは、ひとえにアヤカシのおかげである。アヤカシと―――、忘れてはいけない。浜路の化かしである。
――こんにちは。行政委員の者ですが。響くん?かな?お父さんいますか?
いきなり押しかけてきたのは中年のおばさんだった。一人で玄関に出た響は驚いた。たまたまその時、ウワバミはおらず、さいも御社に戻ったばかりだった。
――響くん、お父さん、いないの?
響はどうしたらいいのかわからなくなった。母がいなくなった後、しばらくは義務のように父親はそばにいたが、もういない。子供ながらに『ぎょうせいいいん』と父親の会話から、ここで「父はいません」と正直に答えたら、まずいことはわかった。
――……ええと、おとうさんは…。
もじもじしている響を見て、おばさんはスゥと目をすがめた。
ばささ、という音がした。そしてがあ、があと鳴く。きっと太郎坊が遊びに来たのだろうが、今はかまっていられない。響は下を向いて、ただやりすごすのに必死だった。ここからどうしようなんて、まったく考えられなかった。
すると、救いの手は思わぬ方から響にさしだされた。
――おや、こんにちは。我が家になにか、御用ですか?
ゆったりとした深みのある声が後ろからした。そこにいたのは長い黒髪を後ろでくくった、凛々しい顔立ちの男だった。口元にはわずかに微笑がみられる。見た目は年若そうなのに、その声と、落ち着きのある所作には貫録がみられた。うしろで太郎坊もかしこまっているのが、響にはぼんやりと見えた。
そのあまりの美しさに、しばしぼうっとしていたおばさんは、ハッと我にかえった。そして問い詰めるように言った。
――こんにちは。わたくし、行政委員のフジオカ、と申します。あなたは?
――わたしは、浜路、と申します。
――浜路、さん。響くんの父親ではありませんね。響くんの父親はどこですか?
――兄は、わたしに響を託して出稼ぎに行きました。
浜路は表情を全く変えず、しれっと嘘をついた。
――ということは、響くんはあなたの甥っ子ということ?いいえ。そんなはずありません。響くんの父親は、兄弟がいなかったはずです!
響は、はらはらしながら成り行きを見守った――。この男がアヤカシであるのはわかる。そうでなければ今頃、太郎坊が響に警告を出しているはずだ。しかし、この怪しまれた状況をどうやって突破するのだろう。
――いいえ、いますよ。響はたしかに、わたしの甥っ子です。
なおも、浜路は嘘をつき続けた。そして右手を胸の高さまで上げた。ここではじめて浜路が表情を変えた――。
すう、と砂に水がしみこむように、浜路の笑みが消えた。そして右手をフジオカの方へ出し、手のひらを上に向ける。
そこにフウ、と浜路が息を吹き込むと、青い炎が、浜路の右手にあらわれた。きゃ、っと声を出しそうな響に、太郎坊が一声鳴いた。
――馬鹿!声をあげるな!お前も化かされるぞ!
響は太郎坊の声に従った。口を手で押さえながら行き先を見守れば、浜路は青い炎を先程より数を増やして、フジオカの周りを囲っていた。炎はそれぞれが生きているかのように、ゆらり、くゆりと揺れていた。
――なあ、フジオカよ。俺は、誰だ?
フジオカは、ぼんやりと宙を見ながら答えた。
――響くんの…叔父の、浜路、さん。
これを聞くと、浜路は「よろしい」と一言にっこり言って、右手で空を切った。すると青い炎は一瞬で消え、フジオカは夢見心地な足どりで、「じゃあね、響くん。浜路さんと仲良くね」と帰って行った。
――よっ、響。はじめまして。
――…はじめまして。あの、ありがとう。今、たすけてくれて。
――俺が呼んできたんだぜ。
太郎坊が自慢げに言った。響は太郎坊にも「ありがとう」と言った。
浜路はうん、とうなずいて、響の目の高さまでかがんだ。
――いいのだよ、響。…ほんに、京香さまにそっくりじゃのう。
浜路は愛おしそうに目を細めた。そして、立ち上がるとぶるんと一回、首をふるった。長い髪が響にもおそいかかり、響はたまらず目をつむった。そしてもう一度目を開けた時、目の前にいたのは黒い髪を腰まで伸ばした、絶世の美女だった。浜路はまんぞくげに笑った。
――うむ、やはりこちらの方がよいな。狐、という感じじゃ。……あらためて、はじめまして。響。俺は天狐の、浜路じゃ。お前の母には命の恩がある。…俺にも、お前を助けさせてくれ。
響はスーパーで食材を選んでいた。卵とウワバミに言われたが、どっこい、玉梓が帰ってきたなら、もう帰ってこないかもしれない。
あ、卵あった。どうしよっかな……って、ええ?十個入りが百円(おひとりさま一パックまで)って、本気か?いやいやいや、買うしかないだろ!ああ、でも一パックだけか!くっ、浜路引きずってくるんだった!
父親の援助にも、限りがある。それに響はあまり父親の金に頼りたくなかった。そのため、響は日々節約に勤しんでいる。なんせ相手は百のアヤカシども。そのうちの半分以上が霞を食って生きていけるが、狐、狸、蛇、天狗、人間は食い物が無いと死ぬ。響はそれらすべての食費を管理していた。趣味は広告の熟読です。
くそ、と心の内で毒づきながら卵を取る。幸か不幸か、今の時間はタイムセールが始まったばかりで、卵の在庫にはまだまだ余裕があった。目の前にあるのにとれないもどかしさが、響をおそった。そこから目をそむけ、「なにか主食ほしいな」とうろうろすると、そうめん二百円(おひとりさま二袋まで)が目に入った。そうめんがあれば、口うるさいアヤカシどもの分も、手早く作ることができる。うおお、欲しい!でも最低三袋は買わないと足りない!
……と、やけに所帯じみたことを考えながら、響はレジに向かって歩いた。もちろんカゴにはそうめん二袋とたまご一パック、そして足りなくなった調味料たちと、おやつ(かわいいアヤカシへのご褒美用)が入っている。こんなの妥協の産物だ、と響はなぜだか悲しくなった。
三番レジが空いている。響はそこに向かって進んでいった。すると、二番レジの方から声がかかった。
「あれ?響じゃん!」
昼間会った制服ではなく、私服に着替えた明石が、レジ袋を持って立っていた。
「明石!お前、陸上部のヤツと宿題は?」
「もう解散したよ。」明石はにこっと笑い、そして、あ、と思い出したように言った。「そうだ、響!さっきありがとね!陸部の子に言ってくれたんでしょ?私、待ち合わせ場所、間違えてたみたいでさ、助かった!」
明石はぱん、っと手を合わせ、頭を下げた。
響は笑って、「いいよ」と言った。
「響は、夕飯の買い出しかな?」明石がカゴの中身を覗いて言おうとして――固まった。
それに気がつかない響は、平然と言った。「うん。…あ!明石!ちょっと頼みたいことが!」
明石は笑って答えようとしたが、若干顔が引きつっている。
「うん……。響の頼みなら。なに?」
響は、卵売り場と、麺類売り場に明石を引きずっていった。そして卵一パックと、そうめん二袋を持たせる。
「これ、ひとりだとこの分量しか買えなくてさ。助かった!会計まで一緒にいてくれ!」
響は明石に頭を下げた。明石はなぜかぎこちなく「せ…せやな」と言った。
なぜに関西弁。
会計をすませた響は、明石と一緒にスーパーを出た。お互い、自転車の鍵を外す。先程からなにかぎこちない明石が気になった響は、明石に問いかけた。
「…えーっと、な、明石。どうしたの?」
案の定、明石の肩がびくっととび上がった。「う、うえっ?なにがっ?」
「なにが、って。わかんないけどさ。なんかさっきから変じゃん」
「…響って、一人暮らしだよね?」
ふうっと溜息のように、明石は言った。明石も響と同じく幼いころより鴨川で暮らしているので、当然、響の母親や、父親のことを知っている。響は、うん、と頷いた。
「一人暮らしで、卵そんなに必要なものなの?」
「ぐっ」響はうめいた。痛いところを突いてくる。
明石の追及は終わらない。「それに、そうめんもこんなに要る?醤油も、一リットルなんて結構もてあますでしょ?」
「いっやあ…それは………」明石はいつから探偵業を始めたんだ。響はだらだら嫌な汗が背中を流れるのを感じた。「ええっと、今は、親戚の人が来てて!」
「親戚?いつの間に新しい親戚ができたの?まさか結婚ッ!結婚なの!ねぇッ!」
あ、そういやコイツの家近所だから、俺に親戚いないのばれてるのか!うわ下手打った!明石は自転車の鍵をぐるぐる回しながら、なにかつぶやいている。
「……結婚…。略奪…不倫?」
よくわからんが、早いとこ誤解を解いたほうがいいのはわかった。どうしようかな…と、響が考えていると、いきなり明石がぱっと顔を上げたので、響はびっくりした。
「ねえッ、響!今から家に行っていい?」
「え?今?いやそれはちょっと…」
困った。家にいるのは『俺たちが常識』と言い張る非常識ばかりである。
響は笑って言った。「ちょっと無理かな」
「でも、響の自転車でそれ全部一緒に持って帰ると、たぶん途中で卵割れるよ。醤油とか油は重いし。カゴは揺れるし。私手伝うからさ。」
…ぐうの音もでないほどの正論である。きっとここで「大丈夫」と言ったら、「じゃ、家の人呼んだ方がいいよ!私一緒に待っててあげる!」と言われそうでコワイ。というか、きっと言うだろう。
響は考えた――――唯一の良心であるさいは、めったに姿を見せない。今朝いたから、きっと次に来るのは一週間後くらいだろう。あとは波山坊くらいだが、彼は今忙しいらしいし、ウワバミと浜路は論外だな。
よし、太郎坊と、次郎坊に頼ろう。――――と、コンマ一秒で考え終えた響は、明石にしぶしぶオッケーを出した。
「…じゃ、手伝い宜しくお願いします」
「うん!任せて!」
明石は天下無敵の笑みを浮かべた。
自転車を走らせ三十分。ふたりは響の家に着いた。
カゴから荷物を降ろし、よっこらせと家の前の坂を上がる。庭の砂利を踏みながら、響は必死に、明石をどうやり過ごすかを考えていた。
実は布石は打っている。先程、自転車に乗ってスーパーを出る寸前。目の前にいた一羽の鴉に、響は話しかけていたのだ。
――今から人間の子をひとり、そっちに連れて行くから。太郎坊と次郎坊、準備してくれ!
鴉というのは、ヒトが思うより頭がいい。響の言葉を理解した鴉は「了解」と一声鳴くと(当然、明石には「があ」と鳴いたようにしか聞こえない)ばさりと飛び立っていった。
ここらの鴉は、みな波山坊の眷属である。確実に、太郎坊と次郎坊に届けてくれるはずだ。それに今は、玉梓のおかげで、殆どのアヤカシが留守にしている。明石の訪問はある意味、ちょうど良かった。
響の家の玄関は引き戸だ。がらがら、と音をたてて、左に引く。
「ただいまー」「おじゃまします」というふたりの声が重なった。
しかし返ってきたのは、
「「「「おかえりなさいませ!」」」」」
「…え?」
響は絶句した。うしろからひょこりと顔をのぞかせた明石も「ひっ」と小さく叫んで目をこれ以上ないくらい大きくした。
なぜ、ここにこんなに沢山のアヤカシどもがいるのか。
響の目の前にはおよそ二十ほどのアヤカシがいる。目で見てこれだ。きっと見えないやつらはもっと沢山いるだろう。そもそもアヤカシの見える、見えないは、神や幽霊をのぞいて、わりと個人の自由なのだ。見えない、というのは、わざわざ自分の霊力を削ってまで、実体を持とうとしないだけなのだ。
先に我にかえったのは、明石だった。「えーっと…。すごいね。みんな、親戚の方なの?」
「…ソダネ」響は機械的に頷いた。「…悪いんだけどさ、明石。ちょっと外で待っててくれる?」
言うや、響は明石の意見を聞かず、外に出した。明石が持ってくれていたレジ袋を奪い取る。「テキトーに、縁側とか座ってて!」
「あ、うん……」
明石は、そう答えるしかなかった。
ガラガラッ!といささか乱暴な手つきで戸を閉めた響に、ウワバミは言った。
「こら、響。もう亭主関白気取りか?ちゃんと相手の子のことを考えないと駄目だろう。せめて茶くらいは出すべきだったな」
たしなめるように言うウワバミ。それに次郎坊が、あ、と声をあげた。
「大丈夫だぞ、ウワバミ。俺がさっき、茶を出しておいた。玉露で」
「おお!さすがは次郎坊!」
ウワバミにつづき、他のアヤカシも「さすがだ」「空気の読める男よ」「やはりいい印象を持ってほしいからな」と口々にほめたたえた。兄の太郎坊と違い、あまり感情が表に出ない次郎坊だが、この時ばかりは、少々得意げであった。
「……っえ?いやいや、てかなんで皆いるの?」くらくらした響が額に手をあてながら聞くと、ウワバミは嬉しそうに言った。
「いや、伏姫桜のところに人がいてな。それを玉梓だと、太郎坊が勘違いしたらしいんだよ。実際はただの人間だったらしいが…。それを聞いて、俺たちは帰ってきたんだ。隠れる必要もないからな」そして顎をさすりながら、むふふと笑う。「帰ってみれば、お前がようやく嫁を連れてくるというし、さらには波山坊どのが明日帰られると知らせも入るし、家はやはり住みよいし、そして玉梓はいない。最高だな」
なあ、と同意を求めるウワバミ。みなは口々に賛同した。
「ちょっとストップ!」響は叫んだ。
ウワバミは鷹揚に応えた。「おう、なんだ?」
「…今、なんて言った?」ものすごい発言が含まれていた気がする。
ウワバミは不思議そうに、もう一度言った。「伏姫桜に――」「もっと後ろ!」「家は住みよい」「もうちょい前――」「波山坊どのが――」「そのいっこ前!」
ウワバミはしれっと言った。「お前がようやく連れてきた嫁」
「……誰、それ」
ぽかんとした。ウワバミたちはようやく話が食い違っていることに気がついたらしく、んん?と首をひねった。
「お前が嫁を連れてくると言ったんじゃねえか?」
太郎坊が言った。「さっき、鴉からそう伝言あったぜ」
「そんなこと、言ってないけど…」
「おい、取り次いだのは、誰だ?」次郎坊がみなに呼びかけた。
するとあるアヤカシが言った。
――たしか、浜路殿ではなかったか?
「げ」ウワバミがうめいた。「あの性悪か……。あいつ今どこだ?」
――それが、今、あの娘と話しておりまして。
「え!あの娘って…」
響は嫌な予感がした。
――先程、響さんが連れてきた方です。
「やっぱりな!」嫌な予感というのは的中する。
響は持っていたレジ袋をウワバミと次郎坊に押し付けると、外に飛び出した。すでに夕方をまわった時刻である。外であっても適度に涼しい。
「明石!浜路!」
呼びかけると、ふたりは揃って「「なに?」」とふり返った。
そして、浜路が響に向かって言う。
「いい子ではないか。俺は賛成するぞ。もし相手方に反対でもされているなら、化かしてもいい」
「あはは、化かすって。浜路さん狐みたいなことを言うんですねぇ」
明石はそれに対して、ころころと笑った。浜路はんむ?と眉を寄せた。しかし笑っているところをみると、気にしていないようだ。
「俺は狐だぞ」
「くっ、くくく…。浜路さん、すごくおもしろいですね!」
「くくく、そうか。おもしろいか…。そんなことを言う人間は、三百年ぶりに会ったのう」
「へえぇ!江戸時代だ!…あれ?じゃ、浜路さんは、お幾つなんですか?」
もし失礼じゃなければ、と素直に訊く明石に、気をよくしたらしい浜路はむんと胸を張って答えた。「一五〇〇をとうに超えておる」
「……おお!すごい!あ、響!もしかして、歴史の生き証人って言ってたの、浜路さんのこと?」
「うん、あとウワバミだけど……。」
明石はたくましいなあ、と響は感服した。きっと信じてはいないだろうが、いきなり否定したりしないのが、明石らしい。
「…ふむ。今回ばかりは俺も浜路に賛成だな。いい子ではないか。何が不満なんだ」
いつのまにか外に出ていたウワバミが言った。「だいたいお前ももう十七なのだから、嫁の一人や二人…。俺とさいがどれだけ心配したことか」しまいには、はあっと溜息をつかれる。
「今の日本じゃ、普通のことだよ。だいたい皆、二十歳を過ぎてから結婚する」
響が至極まっとうな意見を言うと、これまたいつのまにか出てきた太郎坊と次郎坊が言った。
「しかしだな、ニンゲンの時間は短い。いい人がいたら、早めに結婚するがいいぜ」
「兄者の言うことはもっともだ。…それにな、おれらは早く、お前の晴れ姿が見たいのさ。おれらアヤカシと、お前の時は違う。お前の一日が、アヤカシの一分であり、お前の一年が、アヤカシの千年となるのだ。おれらはお前が、お前であるのを確認したいのだよ」
言い終わって、次郎坊は首をかしげて笑った「すこし、難しかったか?」
響はこくりと頷いた。
「きょーう!」
間延びした声で、明石に呼ばれた響は、縁側に駆け寄った。「なに?」と訊くと、明石はふふふ、と笑った。
「私、そろそろ帰るね!」
「え、もう?どうせなら、夕飯くらい久々に夕飯食べていけばいいのに」
「いやいや、いいって。なんか大変なんでしょ?家計のやりくり」
浜路はそんなことまで言ったのか、といささか呆れる。「あー、まあそうだけど…」
「じゃあいいよ。それに、そろそろ帰らないと。なんか安心した!」
「安心?」響が首を傾げると、明石はうん、と頷いた。
「いい人たちじゃん。」
「…………うん!」
これには、迷わず頷いた。