第一話
あるところに、パトリックという名前のいもむしがいました。かれはまだ若く、このあいだの六月に生まれたばかりでした。そのころ青空は分厚い雲に覆われていて、じめじめした日が続いていました。生まれて数日間、かれは同じいもむしたちの群れの中で暮らしていました。その村でいもむしたちは互いに協力し合い、身を寄せ合い、仲良く暮らしていました。その光景はまるで村全体がひとつの家族のようでした。
そのなかでパトリックはひとり孤独に心をすり減らしていました。かれはひとりだけ、みんなとは違った色をしていたのです。パトリックは使い古されたぞうきんのように、薄汚れたむらさき色をしていました。そのむらさき色はほこりを被ったように色褪せていて、ところどころむらがあり、用水路を流れる水のように濁っていました。長く見つめていると、思わずむせ返しそうなほどです。ですから、決して美しいとは言えないいもむしの仲間たちからも軽蔑され、いつも避けられていました。
「なんだよ。おまえもいっしょに遊びたいってか?」
「近づかないでよ。気持ち悪い!」
「やだよ、こんなやつと遊ぶなんて」
「悪いんだけど、わたしも親にあなたには近づくな、っていわれてるの。近づいたら自分も汚れるぞって」
「そうそう。ボクの親も言ってたよ」
「早くあっち行ってよ。わたしたちが遊ぶ邪魔をしないでくれる?」
薄むらさきのパトリックは何も言わずにその場を立ち去りました。そのあといもむしの子供たちは小さな足を無邪気に動かしておにごっこをしたり、背伸びして背丈比べをしたりして遊びました。かれらの中で笑いが絶えることはありませんでした。
その光景をパトリックはひとり木の枝の上から眺めていました。ずっとあごを木の枝に乗せていましたから、いつしかのどのあたりは赤く腫れ上がっていました。
パトリックは木登りが得意でした。その村で誰よりも高くまで登ることができました。吸盤を木の幹に立てて、足を交互に動かし、体重が左右にぶれないように踏ん張って――。しかし、それをほめてくれる者は誰もいませんでした。
木のてっぺんまで登ると村が一望できました。村だけでなく、村の外の見慣れない動物たち、太陽に反射してきらきらと煌く湖、そびえ立つ峨峨たる山々や果てしなく広がる砂漠なども眺めることができました。パトリックはいつもその寛大な景色に心を奪われました。残念なことに、その美しい景色をいっしょに見てくれるような仲間をパトリックは持ち合せていませんでした。かれはいつもひとり、どこまでも遠く続く世界を眺めていました。
家族のように仲の良いその村は、パトリックの孤独をいっそう浮き彫りにさせました。かれらの笑顔にいもむしは泣き、かれらの幸せにいもむしは沈んでいきました。いつしか、かれは本当の家族にも見放されました。
「あなたみたいな薄汚れたいもむしは、うちの子供じゃありません!」
「こんないもむしの妹だなんて言われたくないよ」
「どうしてわたしたちとおまえが、血が繋がっていると言えるんだい? わたしたちはこんなにも純白の肌をしているというのに」
「とっととどこかへ行っておしまい! もうあなたといっしょに暮らすのは身も心も疲れました」
「出ていけ! 出ていけ!」
「そうです、早く立ち去りなさい。もうおまえはわたしたちの子供ではないのだから」
パトリックはしばらくの間、木の上で暗い夜を越しました。木の枝の寝心地はあまりよくなく、強風にあおられて落っこちないようにしっかりとしがみついておかなければなりませんでした。村じゅうの生き物がかれを嫌っても、その木がパトリックを嫌うことはありませんでした。しかし、嫌うことをしなければ、歓迎もしませんでした。もちろん、慰めもしてくれませんでしたから、パトリックは毎日、木の上で泣き疲れるまで涙を流し続けました。
いもむしは草を食べものにしていましたから、パトリックが食料で困ることはありませんでした。しかし、地面に生えたものや、茎の根元からわかれた若草などは、他のいもむしたちが食べ尽くしてしまいましたから、パトリックが食べるものといえば木の上に生えた、硬い硬い葉っぱばかりでした。ですから、かれはよくお腹を壊しました。硬い葉はうまく消化しきれないのです。また、あごには疲労がたまっていました。
パトリックにとって水はとても大切なものになりました。普段は村一番の大きな湖から汲んで好きなだけ飲めるのですが、村がパトリックを嫌って以来、かれはそこに立ち入ることが許されませんでした。見張り番にはいつも、おまえのほこりまみれの体が神聖な湖を汚したらどうするんだ、と言われて追い返されました。だからかれは木の枝や葉っぱからこぼれ落ちる雨水を飲み水にしました。雨水は濁っていてあまりおいしくありませんでしたが、文句は言っていられませんでした。雨が降るとパトリックは無我夢中で木の枝を伝う雨水を口元に流し込みました。雨水は場所を誤って頭に落ちてきたり、体をかすめることもなく落ちていったりすることもありました。ほこりを被ったようないもむしはじっとその雨垂れを待っていました。雨はそう何度も降ってくれなかったので、のどの渇きは壮絶なものになりました。
ついにのどの渇きに負けて、パトリックはこの村を出ていくことに決めました。かれは以前にも何度か村を出ていこうかと考えたのですが、恐怖で足を踏み出せずにいました。外の世界と村を結ぶ門には、湖を守る者と同じように見張りが立っていました。見張りを務めるのはだいたい大人の男でしたから、まだ未熟なパトリックは反抗しても到底敵いそうにありません。どうやって切り抜けようかと考えますが、一向に名案は思い浮かびませんでした。
しかし、いつまでもじっとしているわけにはいけません。のどの渇きもそろそろ限界です。パトリックは思い切って関所に行くことにしました。
「ここを通して!」
「はあ? なんだこいつ。パトリックじゃないか」
「薄汚れたパトリック。まさかあんたは外界に出ようというのかい?」
「そうだとも!」
二人の見張り番は笑いました。
「ははは、なんだって! ロビン聞いたかい? こいつ外界に出たいってよ」
「ああ、聞いたとも、ソン。お子ちゃまのあんたが外に出ていって何ができるというんだい? あんたみたいなまぬけは、ドジを踏んで鳥に食べられてそれでおしまいじゃないか」
「なんだい、口ばっかりずいぶん達者だな」
「口ばっかり? ははは、笑わせてくれるわ!」
「ソンよ。こいつどうやら頭がイカれてるみたいだよ。何とかしてやらなきゃ、かわいそうなこった」
二人は顔を見合わせると、一方はかれに体当たりをし、もう一方はかれを槍で一突きしました。
「あれあれ、威勢のいい勇者様はどこにいってしまったんだい?」
「まったく、無残な姿じゃないか。口ばっかりだって? おまえの方がよっぽど口ばっかりじゃないか」
二人の見張り番はまた顔を見合わせて笑いました。パトリックは何も言い返せませんでした。
パトリックは傷ついた体を支えて、のそのそとその場を離れていきました。なおも二人の見張り番は笑い続けていました。
パトリックののどの渇きはとうとう厳しくなっていました。体もすっかり干からびてしまい、思うように動いてくれません。いもむしは何度か自分の死を考えました。そしてとても悲しみました。しかし、涙は出てきませんでした。涙にするような水分すら、体に残っていないのです。それほどまでに渇きはひどいものでした。自然もとうとうかれを見放してしまったようで、雨はここ三日間、まったく降ってくれませんでした。木の下ではいもむしの子供たちが元気いっぱいに黄色いを上げています。
意識も朦朧に視界に入ったものをボーっと眺めているとあるものが飛び込んできました。村中に張り巡らされた壁です。高さはかれの身長の四倍もあり、村の誰も飛び越えることができないほどでしたが、もうこの壁を乗り越える以外の方法はないと、パトリックは考えました。
パトリックは干からびた体を引きずって木の枝の先へ移動してみました。どうやら壁はすぐそこにあるようでしたが、パトリックがジャンプして、果たして飛び越えられるでしょうか? 薄むらさきのいもむしは枝の下を覗き込みました。いくらか下の段に一枚の葉っぱがありました。よくしなりそうな葉っぱです。かれはこの葉っぱを使わないわけにはいかないと思いました。つまりパトリックは今乗っかっている枝から落っこちて、下の段の葉っぱに着地し、その葉っぱのしなった反動で壁の外に出てしまおう、ということを考えたのです。
無謀な賭けでしたが、パトリックはその計画を実行することに決めました。一世一代の大仕事です。パトリックは胸騒ぎがしました。不安と期待が入り混じった興奮が、体じゅうを駆け巡りました。しかし、しばらくパトリックは身を投げ出せないでいました。やはり、怖いのです。威勢のいいことは言っておきながら、やはり怖いのです。もし落ちた衝撃で葉から滑り落ちてしまったら? 葉から放り出されてそのまま壁にぶつかってしまったら? 様々な恐怖が頭をもたげます。いもむしの頭はどうしようもないくらいに混乱していました。
するとそこへ風がやってきました。とても強い風でした。パトリックはその風にあおられてバランスを崩し、遂にその身を枝から落としてしまいました。勢いよく落下した先で、葉っぱはいもむしの重たい体を支えて大きくしなります。パトリックは勢い余ってその葉から転げ落ちそうになりますが、あと一歩のところで体をよじらせ踏ん張りました。そのあと、青々とした葉はしなった小首をもたげ、薄汚れたいもむしを壁の外へと放り出してしまいました。パトリックの作戦は見事成功しました。
しかし、かれは無傷ではありませんでした。砂の上へ落下する衝撃で、腰を強く打ってしまったのです。じんじんと体が痺れ、しばらくパトリックは体を動かすことができませんでした。それでもかれは自力で身を起こすと、砂にまみれていっそう見苦しくなった体を一生懸命に引きずって、その村を離れました。
パトリックは必死に湖を探しました。のどの渇きはもう限界を通り過ぎていました。のどを守る膜が剥がれ落ちる音が聞こえたような気がしました。これからボクはどうなってしまうのだろう? パトリックは目を見開いて湖を探しました。しかし、湖も湖に似たものすらも見つかりませんでした。するとふと頬に冷たいものを感じました。それは一滴の雨粒でした。四日ぶりの雨です。パトリックは必死に首をもたげ、小さな口をこれでもかと広げました。雨は激しさを増し、かれの長きの渇きを癒し、体についた砂を洗い流してくれました。それはまるで一世一代の大仕事を成し遂げたパトリックを祝福しているようです。むらさきのいもむしはのどの渇きを十分に癒してしまうと、魔法にかけられたようにすっと眠りについてしまいました。