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シューイチ坂と浪漫主義

作者: 佐久間

 前へ。

 ひたすらに、足を動かす。

 上る。上る。それは蹴るように。

 筋肉が、ペダルが、時折悲鳴を上げる。

 だが、やめる訳にはいかない。

 上る。

「っ、待ってろ、俺の青春ー!!」

 蹴る。ひたすらに、自転車をこぐ。



 青春なんて、くそくらえだ。

 僕の言う青春というのは。某大学の赤門を我が物顔でくぐる自分の姿を想像できたり、顧問に「おい諏訪あああ!ちゃんと仕事しろ! 久谷一人にやらせる気かあっ」と怒鳴られたり、友人に三秒サイクルで入れ代わり立ち代わり花と音符とハートを放出させているようにしか見えないと呆れられたり、あの坂を一心不乱に自転車で上りきった後の足の疲労感に満足したり――なんていう、至極どうでもいいがどうにも捨て切れない、小さな光を忍ばせたくだらないことを指す。

 断じて、こんな、絶望にも似た、衝撃を、受けることは、その内には含まれていないのだ。

 はは、今なら、どこかの県の決して可愛くはないゆるキャラの着ぐるみで、韓国女子アイドルグループの踊りだって出来そうな気がする。

 後ろに立っている山森先輩が、おそるおそる僕の肩に手を置いたのだけは何とか感じられた。

「だ、大丈夫か?諏訪……」一応、日本語を耳に通す能力もまだ働いているらしい。

「無駄だろ」

 僕の目の前にふんぞり返って座っている絶望の原因が、何か喋った。あれ、ぜつぼうって何だっけ。生き物だったか?

「バッカじゃねえの。楓って名前が、女子だけだとでも思ってたのか? マジ意味わかんねえ。生粋の馬鹿だな。ハッ、男女差別推進者のロマンチストが。あーあ、オレも相当ガッカリだぜ。根っからのサッカーバカって、もっとひねれなかったのかよ。つまんねえ」

 僕は今、お前の体をひねりねじってやりたいところだけどな。

『ぜつぼう』は――僕の方に一瞥をくれることもなくバカと連発する少年は、くるりと椅子を回転させた。

「オレの名前は山森楓。覚えとけよ、正真正銘の男だからな。いや、でも熱血在り来たりバカの野郎に覚えられる必要もねえな。やっぱり忘れろ」

 ああ、本当にもう、青春なんてくそくらえ!


  *


 僕には、文通相手がいた。

 財布を拾って交番に届けたら、その持ち主からお礼の手紙が来たのだ。どうやら、あそこのおっちゃん警官が勝手に僕の住所を教えたらしい。あまりにも丁寧でたくさんのお礼の言葉がつづられていたから、自他共に認める単純さを誇る僕としては、そのまたお礼といった感じで返事を書くべきだと思った。それが、文通の始まりだった。半年過ぎた今、僕の元に届くのは木曜で、おそらく相手の元に届くのは月曜、流れでそういう風に落ち着いた。

 いや、落ち着いていた、というべきか。昨日の一件で全て終わったのだから。

 僕はため息を吐いてペダルから片足を地に下ろし、あの坂を見上げた。

「お前、そろそろ心臓破りの坂マニア検定九段なんじゃね?」

 週一でこの坂を上る僕にそう言った友達がいる。いやいや、きっと九段を授かるにふさわしい人は、ぜいぜいあえいでじゃなくて、呼吸一つ乱す事無く嬉々とした笑みで上っていけるようなちょっとイッちゃってる――否、言葉が悪いな――ちょこっと、ほんのちょこっと変わり者の人なんだろう。それぐらいこの坂は急で、長い。そのため、ほとんどの生徒があの坂を利用しない――嫌々ながらも週一で上る、僕を除いては。

 そう、この坂を通れば、家まで五分も短縮できるのだ。自転車で五分は、結構大きい。大切な手紙を早く読みたくて、部活を遅刻してまでわざわざ一度家に帰るのだ。この利点を使わないほど、僕は馬鹿じゃない。

 馬鹿、という単語を思い浮かべて、僕は思わず渋面になった。

「よっ、シューイチマネ! 今日は復活か?」

 バスケ部の友達が、けらけら笑って肩を強く叩き横を通り過ぎていった。

 僕は衝撃でしばらく呆然とした後、はっと我に返ってずれた鞄を直し、校門を滑り抜けた。

 一、二時間目は何とか普通に授業を受けたが、ついに三時間目に耐え切れなくなった。シャーペンから手を離し、真っ白なノートの上に頬杖をつく。

 次のテストと自尊心を慰めることを秤にかけてみる。いともあっさりと後者に傾いたので、僕は授業を真面目に受けることを放棄した。グラウンドでやっている体育の授業を眺めながら、昨日の事件を思い出す。僕の青春を終わらせた、あのクソガキの顔と共に。

 昨日。手紙を読んで部活に帰ってきた僕はスキップしたいのを大変な自制力を行使して我慢して、顔だけは多分にやけてマネージャーの久谷の手伝いをしていた。すると――山森先輩に、呼び止められた。

 山森透先輩は、うちの部活内、いやきっと学校内、下手したら日本全国津々浦々で、『憧れの先輩ランキング』で堂々の一位を獲得するだろう、温和で優しくて頭も良くて癒し系笑顔が武器、それでいて屈指のキーパーだ。勿論僕も尊敬していた。

 彼が後輩を呼び出したところなど、今まで一度も見たことがない。いつもなら、これは相当まずいことをやらかしたのかと冷や汗滝のごとしだろうが、木曜の僕はもう未確認生命体と言われても否定できないようなへろへろぶりで、何の危機感も覚えなかった。

 グラウンドの隅っこで、彼は僕の目をちらりと見てから、何故か言いにくそうに口にした――その言葉で、僕は一気に未確認から既確認生命体へと戻ったのだった。

「諏訪ってさ、文通……みたいなのしてるんだよな。その、相手……多分、俺の身内なんだけど。……会って、みたい?」

 ――いや、会ってみたくないです。全っく。地球が実は赤かったとしても、サンタが実は存在していてそりじゃなくママチャリでプレゼント配ってたとしても、大好物のお好み焼きが実は水銀の塊から作られているとしても、絶っ対に、会いたくないです。

 あの時の自分にそう言わせることが出来るなら、一ヶ月間サッカーを禁じられても余裕な気がした。

 まあでも実際はそんなこと出来る訳もなく。それを聞いた時の僕の喜びようは、語るまでも無いだろう。部活が終わってすぐ、先輩の家に行き、そこで引き合わされたのが――確かに僕の文通相手であるはずの、『山森楓』だった。

ここで一つ言わせてもらいたい。名前が「楓」で物腰が穏やかで一人称が「私」だったら、普通女だと思うだろう? 僕が偏見に凝り固まってる訳じゃない、決して。まあ確かに、白いワンピースと鍔の広い帽子とヒマワリ畑の似合う少女だっていうのは僕の独りよがりなイメージであったことは認めるが、だとしてもその本性が口の悪い中学一年のクソガキだとは思わないだろう。もし最初っからそれが分かる奴がいるなら、僕に申し出ろ。このくだらない理想のつまった頭で頭突きして、その思考回路を正常に戻してやる。

 彼女……否、彼の初対面の第一声は、これだった。

「透、どうせ連れてくるならむさ苦しい男じゃなくて、彼女の一人や二人作って……って、何でこいつこんなアホ面してんの? バッカみてえ」

 僕の青春、ジ・エンド。



「今日は何だか、木曜並みにへろへろだったねえ」

 部活後、片づけをしていると、久谷が話しかけてきた。

 僕は乱雑にカゴにゼッケンを押し込んだ。

「木曜の方がまだへろへろじゃないよ」

「昨日、山森先輩に呼び出されたんでしょ?あの温和な人が呼びつけるって、よっぽどだよねえ。なんかやらかしたの?」

「……いや……」

 奴の姿よりも先に、馬鹿という二文字が僕の頭の中で呼ばれずとも飛び出てきて跳ね回った。

「おい諏訪あああ! 今日はマネじゃないだろ! 早くとんぼかけろ!」

「あっ、はい!」

 顧問の声ではっとし、僕はゼッケンを放り出した。受け取って畳み始める久谷に、走り去る間際こうぼやいた。

「ウサギの弟がオオカミだっていう話、聞いた事ある?」


  *


 あれから一週間のうちについたため息の数を数えておけばよかった。

 思わず終業のベルと同時に教室を飛び出して自転車に手をかけたところで、一気に目と気持ちがさめた。もう手紙は来ない。気づくのがあの坂を上り終えた後でなくて良かったと、心の底から思う。

 仕方ないので、部室に向かう。何とはなしに見上げた空にぼけーっと我が物顔で寝そべる青を見ていたら、腹が立ってきて、小声で悪態をついた。

「諏訪悠介」

 僕は立ち止まった。名前を呼ばれたからではない。名を呼んだ声を、嫌と言うほど耳が完璧に記憶していたからだ――忘れたいと思っているのにも関わらず。

 思わず振り返って、僕はその背の低い姿を校門のところに認めた。

「お前……っ!」

 今まさに僕が落ち込んでいる原因である少年――山森楓は、悠長な足取りで敷地内に進入してきた。周りからちらちら送られてくる視線が、不審なものではなく男子からの好奇と女子からのハートを含んでいることに苛立つ。

「馬鹿に用があって来た訳じゃない。透に会いに来たんだ」

「おいちょっと待て、僕の名前は馬鹿じゃなくてだな、」

「諏訪悠介。さっき言ったんだから、知らない訳ねえだろ。やっぱ馬鹿だな、あんた」

「……ちょっとはそのお口をお閉じになられませんかね、楓ちゃん?」

「無理。てかオレ楓ちゃんなんて名前じゃないし。あ、そうそう、わざと間違えてオレに二重敬語使うとは、なかなか気が利くじゃねえか」

 っ、こいつ……っ!

 僕は握りこぶしを必死で上げないようにした。「何あの子、中学生?可愛いー!」などという声があからさまに聞こえてきても、そちらに向かって怒鳴り散らすのも堪えた。

 確かに割と整った面してるが、その口から吐き出されるのは薄汚れた言葉ばっかりだということを、拡声器で教えてやりたい。

「目ぇ覚めたか、悠介」

 本人である楓は、涼しげな顔でにやりとした。僕はガンを飛ばしてやった。

「お、憧れの楓サマにそんな態度とっていいのか?」

「憧れてなんかない!」

「『前は』、憧れてただろ。で、そのくだらない妄想はもうやめたのかって聞いてんだよ」

「お前の声を聞いて面を拝んで同じ空気を吸ってるだけでもう、ひしひしと現実が実感出来るよ、おかげさまでね」

「やっぱり敬ってんだろ。拝むとか、なんかありがたがられちゃってるし」

「お前、日本語分かるよな?」

 完全にスルーされた。やはり僕の方を見ずに、校舎なんか観察している。横っ面を張り飛ばしてこっちを向かせてやろうか。

 すると、唐突に楓が僕の方に視線を定めた。とうとうまともに話す気になったか、と期待して言葉を待っていると、奴は僕を押しのけて、後方に向かって手を振った。

「ああ、諏訪と……え、って楓!?」

 ぎょっとしたような山森先輩の声が聞こえ、僕は振り返った。鞄を跳ねさせながら、先輩が走ってくる。

「よう」楓が先輩に声をかける。

「挨拶してる場合か!ちょっと、何やってんの。学校終わってそのまま来たのか?」

「まあね」

 昨日も思ったが、兄に対してはやけに素直である。いやひょっとして、このうざったい態度は僕限定なのか?

 呆れかえる山森先輩の前で、けろりとして楓はワークのようなものを取り出し、シャーペンも差し出した。

「ここ、教えて欲しいんだけど」

「ええ!? 俺、今から部活」

「オレも、今から勉強会」

 しばらく、彼らは目つきは穏やかだが気迫はある睨み合いを続けていたが、最終的に山森先輩の方が折れた。大きく息を吐き、側のベンチへ促す。

「悪い諏訪、先行って俺がちょっと遅れること伝えといてくれるか」

「あ、分かりました」

 やっぱ優しいなあなどと感心していたら、認識から締め出していたはずの楓の声が聞こえてきた。

「じゃあな、馬鹿のロマンチスト」

 よし決めた。後で先輩に、奴を一発殴る権もらおう。絶対。



「はい」

 コーンを運んでいると、久谷にコップを差し出された。

「……何これ」

「カルシウム?」

「なにゆえ」

「だって最近、諏訪くんイライラしてるからさ」

「だからって牛乳に小魚とワカメ突っ込めばいいってもんじゃないぞ!」

「ほらほら、怒った怒った」

 へらりと笑って、彼女はキャプテンに呼ばれて去っていく。僕は、海の産物が見え隠れする微妙に変色したような白い液体を揺らした。

 あの本意でない再会以来、毎週木曜日に、楓はうちの高校に現れるようになった。山森先輩に会う為らしいのだが、その割にはいつも家でもできるような雑談しかしない。

 では、僕がそうやって姿をみせる楓に苛立っているのかというとそういう訳でもなく、あの意地が百二十度曲がったような奴と自分が普通に会話し普通に口論をし普通に並んで歩くことに――平たく言えば、結構打ち解けてしまったことに、情けなさに似たものを感じているのだった。

 楓は山森先輩と喋った後、何故か僕の部活終わりを待つ。勝手に家路についてきたかと思うと、あの坂を上らせる。そこを通りたい理由が、自転車も引く僕の苦労を楽しむためだとしたら、やっぱり殴ってやらねばならない。とりあえず、違う道へ行こうとするのを彼はいつも修正した。

 最初は理由も分からずただうっとうしいだけで、山森先輩にこいつを持って帰ってくださいと心の中で密かに文句を言い続けていたが、知らぬ間にこれが日常となっていた。面倒臭さに慣れ過ぎて「普通」に溶け込んでしまったのだ。彼の家への脇道にたどり着くまでの間中、僕らはくだらない言い争いを繰り広げているだけなのだが、別れ際なんかは旧友のように挨拶を交わす。妙と言えば妙だったが、嫌味の応酬をするなりに馬が合い、不思議と馴染んだ。

 ああ、情けない。当初あれだけうっとうしかったこいつと、今普通の友達のように接しているなんて。

 今日も楓は校門のところで暇そうに待っていた。ベンチのところにいた彼女待ちらしい友人が、口の端を吊り上げて笑った。

「じゃあな、シューイチマネ」

「うるさい」

 言い返したのを別れの挨拶に代えて、僕は学校を出た。当然のように楓もついてきて、やはり進路をあの坂の方に向けさせられた。

「しゅーいちまねって何のことだよ」

 僕は眉をひそめて一瞬足を止めそうになった。何という地獄耳。

「別に」

「いや、あんな変なあだ名、絶対妙な由来があるんだろ。教えろよ」

「嫌だ」

「嫌ってことは、確かな由来はあるんだな。はーっ。これだから頭の固いおっさんは……」

「言っとくけど、お前と僕じゃ三つ違うだけだからな!? 分かったよ、話せばいいんだろ」

 これ以上言わせていても、僕のプライドが傷ついていくだけだ。仕方なく、木曜日の練習での僕の気の抜け様と練習の妨害ぶりを見かねた顧問が、この日だけはマネージャーの仕事をやるようにと命じたこと、そして嫌味のつもりで、この坂を週に一度必死になって上っていたことも話した。

 案の定、馬鹿だな、と楓は笑い出す。こいつ、馬鹿フェチなんじゃないか。一体一日に何度口にすれば気が済むのだろう。僕は睨みをくれてやってから、自転車を押す速度を上げた。

 楓は品ない笑い声を上げながら、走って僕に追いついた。どうせまた馬鹿にするような台詞を吐くものだとばかり思っていたが、意外にも楓はにやりと笑ってこう言った。

「直感とか感情優先って、悪くないと思う」

「何だよ、珍しく。寒気がする」

 彼が僕の意見を肯定するなど初めてのことだったので、ものすごく違和感があった。

「理屈とか科学とかでごねても分かんねえもんってあるじゃん。そんな感じ。……だけど」

 くっくっと喉の奥で笑う楓は、何だか年寄りくさかった。

「白ワンピースに白帽子にヒマワリ畑って……超ダセえ。なんか古風。てかマジ空想的?ファンタジーみたいな?」

「お前、黙ること覚えないといつか友達に借金の保証人にされて逃げられるぞ」

 豪快に笑われた方が、まだ羞恥も収まるというものである。相変わらず押し殺したような笑いを続けながら、楓は自転車の前カゴに軽くのしかかった。少し歩くペースが落ちた。

「ロマンチストもほどほどにしとけよ。社会に出てもそんなこと言ってたら、見合いの席でしらけるぞ」

「ああ、僕にはお見合いでもしないと彼女ができないって、そう言いたい訳か……?」

「ご名答。ちょっとは賢くなってきてるみたいだな」

「やっぱりお前、黙れ」

 僕は楓の背中を強くはたいた。



「なんかごめんな、諏訪。俺が紹介なんかしたせいで、色々面倒なことになっちゃって……」

 ある日の部活後、自転車置き場でしゅんとした山森先輩に会った。

 こうやってわざわざ気にしてきてくれるのが、やっぱり人徳の違いだと実感する。多分、僕を騙しているようで忍びなくて楓に会わせてくれたのだろうが(ちなみに、僕が女と間違えたそもそもの原因であるやたら丁重な敬語と「私」の一人称は、手紙では当然の礼儀だと楓に怒られた)、そこに生じたことにまで気を配ってくれている。

 僕は笑って手を振った。

「いや、全然大丈夫です。僕が勝手に勘違いしてただけですから。寧ろ恥ずかしいっていうか」

「口の悪さで楓の右に出る奴はいないからなあ」

「あー……否定はできないっすね」

 話の終わりを苦笑で濁しながら、鍵を回す。

「先輩のお母さんはもうほんと先輩にそっくりってカンジでむちゃ優しいのに、楓は何でああなっちゃったんですかね」

 小気味良い音と共にスタンドがはずれ、自転車がじっと鎮座していることから解放される。スクールバッグをリュックのように背負い、自転車を出した。

 ところが、山森先輩はまだ口の中に何か言うべき言葉を残しているかのように突っ立っていた。道をふさがれているので、名前を呼んでみる。

「え? ああ、ごめんごめん。あ、そうだ、明日の昼は浅井がおごってくれるって。他の奴らにはまだ、内緒な」

「マジですか! よっしゃ!っつっても、どーせまたあのラーメン屋なんでしょうけど」

「ははっ、まあ実家だしね。じゃあ、また明日な」

「はい、あざっした!」

 夏の色は既に短くなり始めている。学校を出て夕日を自慢げに浴びたあの坂にさしかかると、ふと先ほどのぞき込んだ先輩の顔が浮かんだ。影を落とし様々な思案を映した瞳のついた顔は、無表情と形容するのが一番近いかもしれない、複雑そうな面持ちだった。


  *


 最近急に、楓がおとなしくなった。

 いつからこんな調子なのかはよく分からないが、見たことのない楓の弱々しい顔を目にしてしまったのは覚えている。懇談で学校に来ていた久谷の母親に何か話しかけられていた時の事だったと思う。面識があったのか、久谷の母親の方はとても嬉しそうで、対して楓はずっと目をそらして最低限の礼儀の範囲内での生返事しかしていなかった。礼儀にうるさい彼らしくないと思った。

 いつもふてぶてしい表情をしているだけに、妙に怯えたようで、顔色が悪かったその時の様子は、やけに僕の脳裏に焼きついた。

 坂を上るときが一番無言で、探すように、あるいは確かめるように、一歩一歩を重くして上っていく。このくらいの坂で疲れたのか、などと自分も上がった息でからかってやろうとしたが、まばたきもしないで少し上を凝視している楓を見たら、言えなくなってしまった。

「あんたはいつも、この坂を上ってオレの手紙を取りに行ってたのか」

 ああ、とうなずくと、楓はまた黙り込んでしまった。



 ある木曜日、疲れたから座りたいなどと楓が言い出したので、公園に寄ることにした。男二人でブランコ。小さな子がじっとこちらを見ていた。やっぱ気になるよなあ。苦笑しておく。

 楓は、地を蹴ってこぎだした。

 しばらく、その音だけが二人の間の空気を埋めた。

「あの坂、いいな」

 いきなりそんなことを言う。僕が、じゃあ毎日上ってみろよ、と返すと、真面目な顔でこの辺に住んでたらな、と応えた。

 また、沈黙。

 耳に障る金属音の合間に滑り込ませるようにして、楓は呟いた。

「俺さ、本当は山森じゃねえんだ」

 僕はまばたきした。

 続いて何を言い出すかと思えば。

「は、お前、何言って――」

「養子なんだよ」

 その二文字は、僕の喉の奥に言おうとしていた全ての言葉を押し込んだ。楓は、ブランコをきしませた。

「って言っても、オレも覚えてないぐらい小さかった頃に引き取ってもらって。両親は、透と同じようにオレを扱ってくれた。悪さをすれば怒られるし、いい成績持って帰ると喜ぶ。透と二人で勝手に遠出した時は、一発ずつげんこつ食らったし」

 楓は懐かしそうに笑う。

 こんな表情をするこの少年が、自分より年下で、まだ十四にもなっていないだなんて信じがたかった。

 この前久谷の母親と話していたのは、彼女が楓のいた施設で働いていたらしく、元気にしているのを見て喜んでいたのだと教えてくれた。だが、施設にいたという事実を改めて認識させられて、楓はしばらく自分と家族について考えていたのだそうだ。おとなしかったのはその為らしい。

 何故今になってそんな話をしようと思ったのかは分からないが――。

 あんたはいつも、この坂を上ってオレの手紙を取りに行ってたのか。

 若干まだ高めのその声が、ブランコの揺れに合わせるように、脳内でハウリングしていた。

「血がつながってても上手くいかない家族もある。オレは、むちゃくちゃ幸運だった。家族って、細かいことはどうでもよくって、側にいて楽だな、いいなって思えればそれで十分なんだって、いつも実感してる。

 ――オレはこのままで良かったんだ。なのに、半年ぐらい前、あいつが来た」

 手に力を込めると、鎖がしなった。

「生みの親なんだと。マジ知らねえしって感じでさ。顔見ても何の感情もわいてこない。つか覚えてねえし。何でオレを捨てたのかも、聞く気もしなかった。耳が腐ると思ってな。……今更、返して欲しいだなんて。何で、あきらめずに何度も来るんだよ。馬鹿馬鹿しい」

 馬鹿馬鹿しい。その言葉は、今まで言われ続けてきた罵り言葉とは全く種類が違った。重く、色があって、意思を持っていて、僕の知らない感情が綯い交ぜになって編みこまれていた。

 僕もブランコをこぎだした。

 重なり合いずれる二つの音。影が引っ込んだり出っ張ったり。陽の色が濃くなったり薄くなったり。目が回るようだ。何故か、止めるのが怖くなった。ああ、酔いそうだ。

 また、楓のブランコが大きく揺れた。

「どうしようもないロマンでも、オレには必要なんだ」

 二つの遊具は、動きを止めた。なのに、逆に時間は今動き出したように感じられた。こちらを向いた楓の瞳の端に緋色が移りこんで、深い輝きを湛えていた。

「他の何者でもない、山森楓としての俺しか知らないあんたとの手紙が、俺を支えてくれる。実際、この半年、助けられてたんだ。週に一度ぐらいのペースでやってくるあいつのいる現実からは、到底逃げ出せない。でも、オレには家族と、くだらなくて馬鹿みたいだけど、面白い手紙があった。――逃げる場所もないなら、つかまる棒ぐらい欲しいじゃねえか」

 楓の言いたいことは、感覚では分かった。だがそれを言葉にしようとすると急に冷たく陳腐になってしまって、僕は黙ってその瞳を見つめ返すしか出来なかった。

「大切な家族がいる現実じゃ、駄目なんだ。だから、手紙を続けて欲しい」

 楓は、ブランコから降りて、僕の目の前に立って――頭を下げた。

「頼む」



 僕は帰宅してから、今までの手紙をもう一度読み返した。丁寧すぎるお礼の手紙から、もう二度と見たくないと思っていた最後の手紙まで。そして、楓の話を思い返した。

 考えた。あいつが僕に言う「馬鹿」の抱えた意味を。自分の家族を侵す者への「馬鹿」に込めた重さを。きっと百分の一もあいつの事を分かってやれていない自分にできることは。あいつにとって一番のことは。

 僕は、あの坂道を上っていた時、どんなことを考えていたのだろう。

 しょうもないロマンでさえも、上から二重線を引っ張って、下手くそな字で「青春」と書き直していたのだろうか。

 一階が何やらうるさいのでドアから顔を突き出して耳を立てると、不満げな声が聞こえてきた。父さんと妹が、風呂の順番でもめ、母さんが仲裁に入っているようだった。

 ……決めた。

 僕の頭には、太陽に向かってさく向日葵のように真っ直ぐそびえる、長く急な坂道が、そのアスファルトの匂いまで含んで映し出されていた。心臓破りの坂マニア検定九段が何だ。そんなのどうだっていい。やってやろうじゃないか。


  *


 前へ。

 ひたすらに、足を動かす。

 上る。上る。それは蹴るように。

 筋肉が、ペダルが、時折悲鳴を上げる。

 だが、やめる訳にはいかない。

 上る。

「っ、待ってろ、俺の青春ー!!」

 蹴る。ひたすらに、自転車をこぐ。

 くだらない浪漫と、口の悪い友人の為に。


 読んでくださったあなたに、最大の感謝を。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーが面白い 所々に挟まれる比喩が上手い キャラの書き分けがしっかりしている [気になる点] 時々文章が長くて意味がスッと頭に入ってこない 久谷が空気 [一言] 読ませていただきまし…
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