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姉は、裸族。

作者: 葉山郁

 上坂伸也。男。高校二年。

 悩みがある。

 自己紹介の四つ目に悩み申告? と思われるかもしれないが、その悩みは俺の生活全般にわたっているものなので、まず置かせてほしい。


 ”bother […にとって](厄介な)悩み(の種) 例文That`s what bothers me「それが僕の悩みなんだ」”


 勉強最中にお下がりの辞書でその単語を見つけてじっと凝視してしまう高校二年の夜。

 クーラーをきると、じっとりと汗ばんでくる。

「伸也ー! 伸也伸也伸也!!」

 階下から響く甲高い声。

「ジャーンプジャンプジャンプジャンプ!」

 これはなにも俺に飛べと命じているわけではなく、某週間少年漫画雑誌を要求しているわけだ。ちなみに俺の金で買った。にも関わらず、別に俺の部屋にとりにくるわけでもなく、当然のように階下に持ってこいという要請である。

『ああ、そういう生き物だよな、あいつらって』

 とは同じ境遇の同級生Y・Hさんのコメント。

『向こうはこっちを奴隷としか思ってねえよ』

 T・Mさんも言う。

 そんなことを思い浮かべながらベッドに投げていた某雑誌をつかんでうっそり立ち上がる。部屋も暑いが、廊下はもっと暑い。首の後ろに汗が伝う。

 一段降りるごとに生気が抜けていくようだ。リビングに入ったがそうまで涼しくならなかった。我が家のルールのクーラー30度設定はクールビズとか節電とかに照らしあわせても何かおかしいと思う。

 テレビの前のソファでその生き物は足を組んでいた。白い。基本が白い。ひどいことに今は唯一の布きれであるそれも白を選んでいるから余計白い。白い。布きれからのびる足は細いが、付け根はむちっとしたところもある。その上。たるんとしてもなければ八つに割れていたりもしない中にある。へそ。その上。なんか丸いもの。二つ。

「おっそーい」

 不満そうに立ち上がる白い、俺を奴隷と思っている生き物、当然のように俺が買ってきたジャンプを届けにこいと要求する生き物。何か白い生き物を前に。じりじり暑い夏の夜。

「――やってられねえよ!!」

 リビングのカーペットに向けて俺は某少年を叩き付けた。


 上坂伸也。男。高校二年。姉が裸族だ。




「服を着ろ!」

 もう数えることも馬鹿らしい回数の俺の嘆願を、なりふりかまわぬ魂からの懇願を、「いいじゃん」で切る生き物。姉。

「だいたい、あんたの年頃の男は金払っても見たい類のもんでしょ。しかもたいていテレビか雑誌よ。それがナマよ、ナマ」

「誰が欲情するか!」

 家族団欒のリビングにきわどい単語が飛び出てもうちは凍りついたりはしない。ひたすらスルー。ただスルー。

「毎日毎日毎日毎日! 見てたら女の裸と壁紙の区別もつかなくなるわ! 雑誌まわしで全然興味示せなくてすげー微妙な雰囲気になるんだぞ俺! 全裸の姉のせいで!」

「ハッハッハー」

 機嫌よく笑って某少年を拾い上げる。弟が苦しむと喜ぶ生き物。姉。

「全裸全裸って言うけど、パンツはいてるじゃない」ふんと胸を張った。「隠さなきゃいけないものは隠してるわよ」

「女の胸はなんのために膨らんでんだよ! 隠すためだよ!」

「授乳のために決まってんでしょ」

 ばーか。と舌を出す。

「つつしみってもんがねえのか!」

 それに対して、姉は「これ」と腰の横の紐部分に指をつっこんで引っ張って見せて返答にした。

「母さん!!」

 悲鳴と嘆願をこめた呼び声に、台所で食器をふく母は答えない。対面式キッチンなのになぜリビングに背を向けて家事をしているのか。

「父さん!!」

 ダイニングテーブルでスマホをそっと見ていた父は「ん……。まあ恋人とか好きな人ができればかわるかもしれんし……」嫁にさえいければ、と顔をそらして小声で呟く。

「むしろ俺が婿にいけねえよ! いいのか長男だぞ!」

 ん……、と呟いてトイレに旅立つ父。

 ふんふーんと某少年を読み出すパンいちの姉。

 伸也の姉ちゃんって美人だよな。スタイルもいいし、胸もあるし。

 そう同級生に言われる姉。全裸(+パンツ)そして俺は高校二年生十七歳。思春期青春期真っ只中。彼女いない暦年齢と同じ。当然だけど女性経験なし。十三の頃から姉が脱いで四年間。見続けてきた。

「ふっざけんなっ!!!」

 男泣きに泣く十七の夜だ。



 とてもとても理不尽だけど。弟という生き物は、どんなくそ姉でも姉が誰かに「女」として見られることに本能的にいやーな気持ちを抱くもんだ。俺にたいして少なからず向けられた興味と羨望に、裸族以外の忌々しさも感じてはきた。姉ちゃんの着替え見えちゃったりすることある? とか聞かれた日にはどんないい奴でもぶっ飛ばしたくなる。

 伸也はクールだよな、と優しい奴はいってくれる。coolって日本語に訳すると「かっこいい」なんだぜ。泣かせるよ。お前、女のハードルっていうか、理想高いんだよー、という奴も。だって姉ちゃんがレベル高ぇもんな、と続けられたら顔は笑って心で血涙だが。ともかく。

 俺の女にたいするハードルなんて、地上10㎝程度のもんだと思う。普通に服を着てる。家でも着替えと風呂以外服を着てる。そんだけ。ぶっちゃけ世の女性の90%は自分の好みにあてはまる。

 でも外面のいい姉のせいで、外ではうふふとかやってる姉のせいで、ふつーに服着てるふつーに慎みとかありそうなふつーに可愛い子だって、俺の知らない家ではまさかあの服をとっぱらって…と想像(妄想ではない)すると心は沈みこむばかりで。

 二時間目と三時間目の10分という中途半端な休みでどこへ出かけるでもないけど、ちょっと気分転換したいと教室のベランダに出て友達とだべっていても、青春は浮つきよりため息をつれてくる。

 ダチは好きだ。一緒にいて楽しい。でも男子高校生の話題を比率で出したら、六割七割は猥談になる。後はだいたい食い物。共感できない話題に怪しまれない程度に興味を示して楽しいふりをするのはそれなりに苦行で。マイノリティの辛さは排斥もあるけど、それを隠す辛さもある。

 そのとき集まっていたのは比較的、油断してもいい連中だったので、俺は眠いふりをして外を向いていた。ベランダの手すりに顎をのせて、俺はぼーっとしているつもりだった。でも、同中で席も近い中林が笑って近くの奴らに

「ほら、また見てる」

「ほんとだ」

「――なに?」

 視線が集まったのに気づいて振り向く。

「お前さ、浅野のこと見てるよな」

「浅野?」

「浅野香苗。名前知らなかったのかよ」

 ほれ、と示された先に、移動教室なのか連れ立って歩く女子が目に入った。指されたのは、その中の一人。肩までの黒いストレートヘアーを広げるようおろした女生徒だ。言われてみれば見覚えがある。どころかよく見ているような。

 普通の女の子だった。普通というのは普通に可愛い…んだと思う。遠目でそこまで目鼻立ちはわからないけど、雰囲気が女の子らしいし。さっきも言ったように広がった髪が頭から肩までを隠して、少し丈が長い学校指定のカーディガンが手首までを覆い隠して、胸元はきっちりボタンがとまって、制服の茶のスカートは膝下まで伸びて白のハイソックスに続いていて。

「――いいなあ」

 思わず出た言葉に後ろがどっとわく。それでも俺は浅野さんとやらを見続けた。

 いいなあ。あの子。なんたって顔と手先しか肌が出てない。



「つまり伸也はカタイのが好みだったってわけだ」

 再びその話題が出たのは昼休みのことだった。

「なんだ?」

 せんべいの話か? と脳内で呟く。

「ほら、浅野だよ」

「ああ」

 あの服着た子、と言いかけて、咄嗟に防いだ。危ない。今の発言はアウトだ。

「ほら、お前、猥談とかあんまりのらないだろ。変なこと言う奴もいるしさ」

 どきっと口からうめきが飛び出そうになるのを、気のなさそうに無言でいる。こういうのには過剰反応が一番やばいと身をもって知っている。

 まあ、お前姉ちゃんがいるから理想高いんだって流しといたけど、とさらりと言う中林に抱きつきたくなるが、この脈絡では最悪の選択肢なのでぐっとこれもこらえる。

「でもカタイのが好みだったら、納得じゃん。グラビア系にいまいちのれないのもさ」

 そういう中林は他人事なのに妙に嬉しそうで。その態度に、俺はすうっと心臓が冷たくなった。いまふっと奴に今まで無用な心配をかけていたのだと初めて気づいた。もしかしたら中林自身もちょっと疑っていたのかもしれない。

 ダチの優しさを重々わかりながらも、どくどく鳴る胸のうちで、俺、マイノリティの人は絶対に差別しないようにしよう、とか考えて逃避しようとしたけど。

「あんま好みとか考えたことないけど、浅野カタイの?」

「そりゃ見た目からしてそうだろ。このくそ暑いのに長袖でカチッとして」

 そこがいい。

 脊髄反射でうなずいた胸中をふりかえり、なるほどと思う。俺はああいう女子が好みなのかもしれない。そんな風に考えながら、つとめて考えがいくように仕向けながら。

 でも、それ以上に今までの流れではっきりした――いや、心の奥底ではずっと知っていたもの。が浮き彫りになって心をずきずきさせて。

 俺、浅野と一年のとき同じクラスでさあ、とか話を続ける中林の横で、奥底でかたかたふるえだすものを必死に抑える俺は、北海道の原野を指差し立つクラーク先生を思い出していた。

 少年よ、大志を抱け。



 日本女性よ、服を着ろ。

 玄関あけて二秒先にあった姉の裸体に、クラーク先生に無理を言って名言を変えてもらった。大志の前に基本的なことをおさえなきゃならないのです。服を着ろ。まずはそれからだ。

「外から見えんだろ!」

「仕方ないじゃない。二階のトイレ、お母さんが掃除してるんだし」

 姉に何か意見して「うん」の二文字が返ってきたことは、俺の十七年間の人生において一度もない。

「姉ちゃん」

「なに。今日木曜日でしょ」

 姉という生き物が弟に用があるのは、某週刊少年の発売曜日とパシリの時だけなのだ。

「――話がある」

 凄みをきかせてソファに座らせた。自分はソファに正座した。姉は普通に座っていたが、この状態で正座されてもいろいろきっついので黙認。姉は「はあー?」という顔をしていたけど、溢れんばかりの怒気を感じ取ったのか一応まだ聞く気はある。言いたいことは百万あったけど。低くストレートに告げた。

「裸、見せんのやめて」

 奥歯がぎりっと鳴る。薄めた俺の目に姉は、少しいつもと違う様子を感じ取ったようだ。

「見せてるわけじゃないわよ」

 何か誤解してるようだけど、と言って姉は腕を組んだ。

「脱いでるのよ」

「知るかっ!!」

「見なきゃいい話でしょ」

「目に入んだよ! いやでも目に入るだろリビングだの廊下だのいたら! 大学生なんだから部屋でも借りろよ! 一人の空間で存分に脱げよ!」

「あたしに家を出て行けって言うわけ?」

「服を着ろって言ってんだよ!」

 中林の安堵したような表情。妙にもりあげる周囲の空気。全部がこみあげて一緒くたになって一気に俺は破裂した。

「ずっと、ずっとずぅっと我慢してたけど、もう無理! やっぱ俺疑われてたじゃん! 女の裸に興味見せないから! ダチに気ぃ使われてずっと探られてたじゃん! いくら高校生だからって毎日毎日毎日日常であったりまえのようにあると目が麻痺するの! いやでも無感動になるっつーの! 俺はフツーの男に戻りたい!! アマゾンや自販機でエロ本買ってはしゃぐみんなと一緒になりたい!! 好きな女の子の足とか胸元とかにどきどきしたいんだよ!!」

「あんた好きな子いんの!?」

 姉が飛び上がった。胸が揺れた。母さーん聞いて聞いて! とばたばたと駆け去っていく。

 姉という生き物は。

 姉という生き物は。

 くびりころしてえ、と物心ついたときから何百回も思う生き物だ。



 空は青いけれど、今日も姉は脱いでいる。

 風はさわやかで心地よいけれど、今日も姉は脱いでいる。

 俺の人生は真っ暗だ。まだ十七なのに。

 登校途中であった中林がなぜかやたら話しかけてきた。死んだ魚の目をした俺のやばさがわかったのだろうか。気遣いは感じ取れたものの、簡単に回復はできなかった。若さにも回復しきれないものがある。それが全裸の姉だ。

 思えば、俺はそれなりに成熟が遅いガキだった。

 十二を過ぎても女の話なんか全然しなかった。中学にはいっても休み時間に女とバレーしたりしてた。スカートになった女子の制服にもちょっと違和感があったくらいだ。中一の夏の日に帰ったら、高校生だった姉がスカートを脱いでた。

「え、」

 呟いて俺は立ち止まった。これ変じゃないか、と思ったけど、姉は物凄く当たり前の顔をしてふるまっていたから、気づかなかった。その頃には父や母も少しは苦言を呈していたような気がするが。反抗期真っ只中の姉は聞く耳を持たなかった。

 しばらくして、シャツも消えた。

 俺はしばらくおずおず伺っていたが、思い切って。

「なんで脱いでんの?」

「暑いから」

 そうか、暑いからか。

 俺も風呂上りとか普通にパンいちになるからなあ、とかすかな違和感を覚えながらも、引き下がってしまった。今から思い返せば、あの時、食い下がらなかったのがいけなかったのかもしれない。反抗期真っ只中でも、姉は比較的俺とは普通に話していた気がする。

 冬になったら姉の服は元に戻ったので、やっぱり暑かったからかあ、と納得していた中学生の俺を、タイムマシンに乗って殴りにいきたい。目を覚ませと。

 次の年の夏にブラが消えた。下だけはやめてくれ! と父が懇願した夏の終わりに、ようやく俺ははっきりと事の次第を悟った。けれど、全ては遅すぎたのだ。

 鏡の中の俺は死んだ魚の目をしている。

 全裸を見続けた俺は少しずつ魚になって、少しずつ魚は死んでしまったのだ。

 それでも、登校の後もずっと話しかけてくれる中林に悪いなあ、とは奥底では感じてはいた。だから、相槌も最小限は打ったし、売店いこーぜ、と言われてもついていった。

 チャイムから10分経過した購買はごった返していて、近寄れず遠巻きに立ちすくんだ。ぼうっと人ごみを眺めながら待っていたとき。中林が誰かと話しているのは気づいていた。けど。その誰かは奴の影に入って見えなかった。

「――なあ。だろ?」

 急に肩を叩かれ相槌を求められて機械的にうなずいた。

「軽口じゃないって。マジだって」

 さらに肩を叩かれ引かれた。中林の影から見えたのは、頭ひとつ分小さい首筋を覆うつやつやの髪だ。顔もそこの隙間からかろうじてのぞくくらい。残りはきっちりとめた裾からわずかにのぞく掌くらい。俺の前にいるのは、確か。浅野さんだ。

「いいと思うだろ? な」

 いいなあ。素直に思えた。服を着ている。

 揺れる前髪から少しうるんだ目とあった。

「ああ」

 うなずいた。

 中林が歓声をあげた。

 浅野さんのわずかに見える顔が真っ赤になった。


 そうして俺の十七年にわたる彼女いない暦に終止符が打たれた。








 いったい俺の苦悩多き人生に何が起こったのか。

 彼女が出来たのだ。

 全て目の前で起こっていたはずなのに、マジでわけがわからなかったが、落ち着いて思い返してみると。服を着ているところがいいなあ、と俺の低いハードルを飛び越えた浅野さん、そして実は俺にたいしてまんざらでもないらしかった彼女にたいし、中林が俺との仲を取り持ったらしい。

 彼女。

 かのじょ。

 ガールフレンド。

 ……脱がないかなあ。

 まず真っ先に不安に思ったことに俺は身を震わせ、そしてそんなことを不安に思ってしまう呪われた身に泣いた。男泣きした。なんで彼女が出来た最初の感慨が脱ぐことへの恐怖だよ。

 ただ。まあ。俺を震撼させた友人たちの疑惑を、一気に完璧に晴らしてくれることには間違いないのだ。彼女という存在は。

 それに浅野さん、ほんとちゃんと服着てるしなあ。低いハードルしか設定していない俺としては、かなりの高度を出して飛び越せる相手でもある。

 しかしちゃんと服を着た女子と一体どんな付き合いをしたらいいもんだろうか。

 俺は女とのやり取りでは「服を着ろっ!」と怒鳴りつける以外のコミュニケーションを知らない。それを浅野さんにやったら終わりである。というかちゃんと服を着てる人にそんな失礼なこと言ったらいけない。

 まあともかく猥談六割七割でも高校生同士なのだ。未成年なんだ。服を着たお付き合いを続けて行くことはできるだろうと思う。問題は服を来たお付き合いの仕方か。

「なあ、どうやって付き合えばいいと思う?」

「一緒に帰れよ!」

 中林の力強い一言に、なるほど、と思う。いくら姉でも帰り道で脱がないしな。

 ただ問題が一つ。昼に成立した彼女への連絡手段が俺にはない。あの時も「あ、じゃ、よろしく」で別れてしまっていたし。

「教室行けよ!」

 教室は知っていたけど、行くってどうだろう。

 2-Eは、特進クラスだからほとんど知り合いもいないし。

 仕方ねえなあ、とついてきてくれる中林と一緒に廊下を過ぎて階段を下りたとき、背後から軽い足音がした。振り向くと少し息を切らした浅野さんがいた。

「今、帰り?」

 あれ、2-Eって下じゃなかったっけ、と思いながら、ああ、うん、とうなずく。それから言うこともなく馬鹿みたいに突っ立った俺を中林が肘でつつく。なんとはなしに腕をあげて、あげた腕の持って行き場所がなくて首に手をあてて。

「え……と」

 服を着ろ。

 じゃなくて。言葉を探す俺の前で

「あの、一緒に帰っても、いいかな?」

 そう言った浅野さんはうつむいている。でも俺達より階上にいるので、頬が赤いのが見てとれた。なんて答えればと思っていると首にあてていた手をがしっとつかまれて

「いいともー!」

 無理に一気に天井に突き上げられた。隣の中林の仕業だ。今度おごれよ、と耳打ちして中林は階段下へと身を翻した。それをたっぷり見送って。そして突き上げられたままの腕を下ろして、ちょっと痛いギャラリーの視線の中で。浅野さんを見る。

「……じゃ、帰る?」

 もう少し顔を赤くさせて、浅野さんがこくんとした。



 はからずもとりあえず最初のお付き合いが達成したわけだが、会話は当然のように弾まなかった。最初の沈黙期間を過ぎると、浅野さんが頑張って話しかけてくれるのでなんとかつながりだしたけれど。

「携帯、教えてもらっていい?」

「ん」

 言うと鞄からとりだして慌てて携帯をぽちぽちし始めたけれど、どうも上手くいかないようで浅野さんは途中から焦りだしたようだった。しばらくして

「ご、ごめん。赤外線通信があんまりうまくできなくて」

「そうなの?」

 ちょっと貸してもらっていい? というと少し驚いた顔をして渡してくれる。機種は違うがなんとかなるだろう。いくつか操作して自分の通信部とつきあわせると、ぴっと俺のデーターが表示された。

「できた」

「え」浅野さんがびっくりした顔をする。渡した携帯をのぞいて「すごい」

「たいしたことないよ」

「ありがとう……」

 いや、ほんとにたいしたことじゃないんだけどなあ。携帯を嬉しそうにのぞく彼女に、オーバーな子だなと思っていると

「あの……あとでメールしていい? 私のメルアド送りがてらに」

「ん」

 すると浅野さんは一拍おいてくす、と笑った。

「上坂くんの「ん」は「うん」でいいんだよね」

「え。」思いも寄らない指摘に声をあげて、それから「ん」と言ってしまった。「ぅ」はかなり小さいが一応発音してるつもりだが、そう言えば誰かに注意されたことがあるな。

「ごめん。気になった?」

「う、ううん! 全然」

 失礼だったかと確かめるとぶんぶん首をふって否定する。首筋を覆う髪が盛大に揺られている。浅野さんの髪は多いなあ、と思う。肌が隠れているのがとてもいい。

「そういえば、今日、上から来たけど委員会とか何か用事があった?」

 途中だったら申し訳ないな、と思ったけど浅野さんはまた慌てて首を横に振って。

「そ、その。すぐに2-Aに行ったから」

「2-Aに何か用事あったの?」

 浅野さんがちょっと止まった。真意を探るみたいに見てくる。それから、困ったようにあの、その、と呟いて

「上坂君たちは、下足と反対の階段下りてたけど、何かあったの?」

「浅野さん誘いに行ったんだけど」

 浅野さんの目が丸くなる。垂れ目なんだな、と思う。なんだかこの会話、着地点が全然見えないようだし、用事があるのに誘うのもなんだから

「明日は、メールで待ち合わせしようか」

「う、うん!」

 浅野さんは答えた。顔が本当に赤い。赤くなって赤くなって自分でもその状態がわかって、でもどうしようもないというように、掌でぱたぱた風を送りながらえへへ、と頬が緩んだ。パンの上のバターが熱で溶けるみたい、と思った。



 それから浅野さんとは、帰り道や朝もたまに待ち合わせて一緒に行くようになった。ようやく「服を着ろ」の以外の言葉もあまり考えずともすんなり出るようになってから

「デートしろよ!」

 の中林の一言に、映画館に行った。

 白黒映画も結構見るよ、と話の中で浅野さんが言ったので、親父の影響でオールド映画好きの俺と合致した。いいよなあ、午前十時の映画祭。古い名作映画がスクリーンで見られるって。親父と何回も行っているし、近くの映画館でのスケジュールはネットで調べるまでもなく、我が家のリビングのボードにでかでか貼ってある。

 白黒じゃないけどスティーブン・マックィーンの大脱走は最高だった。ただ女がひとりも出てこない映画なので(むろんロマンスなどはない)、浅野さん的にはどうかと思ったけれど「面白かった、バイクで脱出する人凄くかっこよかったね」と言ってくれた浅野さんとサイゼリヤでパスタを食べて。

 そうこうしているうちに、浅野さんのことも古い映画を見る以外にもぼつぼつわかってきた。一人っ子ってことと、マンションじゃなくて一軒家だってことと、好きなバンドがいてファンクラブに入ってることと、私服もきっちり着込んでるってことと。最初の印象通り真面目ではあるみたいだけど、結構ミーハーで笑い上戸なところもある。いっぱいいっぱいになると、初日の帰りに見たみたいにバターが溶けるように笑う。周囲への気配りや気遣いを常に忘れない辺りはとてもいい子だと思う。

 個人的な感触だがこの「お付き合い」はわりと上手く行ってるんじゃないかなあ、と思った。浅野さんも楽しそうだし、俺もダチといるときとは違った楽しさがあるし。悩みを抱え続けた自分がかつてない晴れ晴れとした気分になる。

 そして暑い夏が過ぎ去り、季節が秋に近づいてきたので、家でのストレスが軽減したのもその気分に拍車をかけているのだろう。

 なぜ家のストレスが軽減するかというと、秋がすすんで熊やリスが冬眠するよう姉が衣服をまとうからだ。まだ余談を許さないが、カーディガンを羽織っていたときはガッツポーズをしそうになった。家庭がようやく安らぎの場になり、そして外にはどちらも仲が良好な友達と彼女がいる。

 外は灰色冬空だが、青春はこういうものなのかもしれない。

 前に浅野さんと一緒に行った、彼女お気に入りのバンド(Sealという結構有名なバンドらしい)のライブの感想なんかを何気なく話して進む帰り道に

「今度、うち来ない? お母さんがお話したいって」

 ん、と俺は答えた。

 小さい頃はじいちゃんばあちゃん子だった俺にとって、大人と付き合うことは同世代の奴ほどうぜーたりー感はない。「うち」と「お父さん」だったらかなり話は違うが、今までの浅野さんの話からして浅野さんのお母さんはちょっと天然が入ってほわほわしていて、浅野さんに言わせると「可愛い」そうだ。緊張することはするが、そこまでハードルは高くあるまい。

 それに。

 これは青春かもしれない、と恐る恐る信じ始めた俺でも、やはり心底に一抹の不安感が常に存在していた。いつまでも囚われているのは不健全なのでとっぱらいたいが、半ばトラウマのような刷り込みのようなそれはしぶとくて。

 楽しいときですらふっと疑惑の影が差し込んで心を重くさせる。しかし家にまで入れば。完全とは言えなくても幾ばくかの確信を得られるだろう。お母さんとの会話でも確かめられるかもしれない。

 今度日取りを決めようと浅野さんと話して別れてから、そんなことをつらつら考えていくうちに、慣れたように思えても俺には根深い女性不信が張っているのだろう、と息をつく。

「なによ。人の顔を見てため息ついて」

「別に」

 最近目に優しい(着衣という意味で)けれど歴然として元凶。姉。冬に近づくにつれ、俺は断固とした環境保全家になる。地球温暖化防止。絶対阻止。ウォームビズ。ウォーム控えめ。寒ければ服を着ろ!

 俺の必死さと光熱費には厳しめの母のタッグにより、我が家は理想的なウォームビズが保たれている。姉に服を着せることに関しては、俺も生き馬の目を抜く戦国時代や三国志時代の軍師なみに策を練り実行してきた。あいにく俺は黒田官兵衛でも諸葛孔明でもなかったが、とりあえずウォームビズの計だけは毎年一定の成功を収めてきた。冬将軍よ、寒さよ。偉大だ。

 人はなぜ服を着るのか。その問いのもっとも根源的なもの。北極圏のイヌイットを見よ。

 寒いからだ。

 人類がサルからヒトへの大きな進化を遂げたとき、そこには常に衣服があった。つまり奴はヒトである証を自ら脱ぎ捨てた。故に姉はサルである。

「なんかすっごいムカつくこと考えてる気がすんだけど」

 睨む姉をさらりとかわす。

「なーんか怪しいよね、最近」

 ノーコメント。

 姉に(おそらく母にも)俺に彼女が出来たことは薄々察知されている。

 が、伊達に何年も友人間でポーカーフェイスを保っていたわけではない。全ての基本は一つ。過剰反応厳禁。

 ただ、さすがにそこは身内である。腐っても脱いでも身内。

 姉という生き物は弟を怒らせる天賦の才能を持っている。俺のことを知り抜いている相手に心中さざなみ立てずポーカーフェイスを保つのは難しい。そういう時は戦略的撤退あるのみである。

「あっ。逃げた」

 何か後ろで言っている姉を無視して二階の部屋にあがった。




 結論から言って浅野さん宅に、何かしらあの忌まわしいラ…の属性をにおわせるところは一切なかった。実は待ち構えていましたお父さんトラップも特になく、家庭的なダイニングでお茶と手作りケーキをいただいた。

 浅野さん母さんは娘さんの言通りの、少女がそのまま大人になったようなタイプで、エプロンをつけてほがらかに笑っている。学校の話をしていると、面白そうに聞き入ってくれる。どんな話でも楽しんで耳を傾けてくれるのはいい人だな。

 しかし娘にたいする会話はちょっと気を使った。もしかしたらさり気なく探っているのかもなあ、と思うけど、純粋に学校のことが心配なのかもしれない。あんまり自分の話をしてくれない、と言っているし。

 でも浅野さんは基本的に親が心配するようなことは何もないだろう。大丈夫ですよ、心配な娘というのは、父親の前でも平気で脱ぐような娘だけです。はアウトだろうから言わないけど。

「ちょっと流行とかに疎い子なんだけど。もちょっと可愛い服とかでもいいと思うんだけど。若いんだからミニスカートとかね」

「いえ」

 力が入りすぎたか、とお母さんの目を見て判断し自分を抑えつつ

「僕は香苗さんの服はとてもいいと思います」

 肌の露出が何がいいんだ。そんなに露出して何になるんだ。行き着く先はあれだぞ。ラが付くぞ。力まないように、と念じながらもふと天恵のような、絶好のタイミングが来たのがわかった。ポーカーフェイス、さり気なく、と念じながら

「香苗さんは、おうちでも、そうなんですか? 重ね着が多い感じで」

「ええ、夏も冬も」

 女神!

 その瞬間が、俺の恐怖が本当に薄れた瞬間だった。ああ。浅野さんの爪の垢を煎じて姉に飲ませられたら。しかし「君の切った爪をくれないか」はアウトだとわかっているのでぐっと腹の底でこらえる。

 家を辞するとき、角まで見送るね、と浅野さんがついてきた。最初はもうお母さんったら、と顔を赤くさせていたけれど、途中からあまり喋らなくなっていた。

「ご、ごめんね。お母さん、結構ぶしつけで」

「ううん。いい人だし、いい家だね。俺、婿入りしたくなった」

 浅野さんがぶわっと顔を赤くさせて下を向いた。それからずっと黙っていたけど、角の近くで、まだ明るいとは言え冬だし寒いからもういいよ、と言ったとき

「あ、あの、上坂くん」

「ん」

「こ、今度は、いや、いつでもいいけど。上坂くんのおうち、一度、ご挨拶に行ってもいいかな」

「……」

 一瞬ぎくっと凍りついたが、考えてみればそういう流れか。おうちに招かれといて、うちに招くのはいやだ、というのは礼儀に反する。木枯らし吹きつける街角を見て、時期的には今がベストか、と判断する。いや、もちろん、姉がいないときにするがな! 

「ん。じゃ、近いうちに」

「本当?」

「今日帰ったら親に話しとくよ」

 笑って言うと、浅野さんはちょっと間をおいて

「今日はありがとう」

 ほわっと白い息を吐いて浅野さんが見上げてきた。ピンク色のマフラーが肩に垂れた髪をまきこんで、寒さと感情で頬が上気している。向かい合って、ちょっと間があった。こんな風にふと会話が止まる瞬間を、天使が通る、というと聞いたことがある。天使はいいから、中林が通りかからないかなと思った。いつものように言ってくれればいいのに。

 残念ながら中林は通りかからず、少し不自然な間合いの後、え、えへへと浅野さんが赤い顔で笑って

「じゃあ、またね」

 と手をふってきびすを返す。俺をマフラーを口元まで引き上げて、ちょっと反省会をしながら帰った。




 姉がいない日を念入りに確かめてから、母に内密に話した。俺の真剣さを母は感じ取ってくれたようだ。「まあ、小百合も最近はちゃんとしてるじゃない…」と目をそらしながら言ったが、姉を避けることへの反対は絶対にしなかった。だいたい彼女を姉に合わせる必要なんてまったくない。

 日時は、高校受験で学校が休校になった月曜日の午前に設定された。姉はこの曜日は一限目から講義が入っているので問題ない。それでも万全を期して姉が家を出て行くのをこの目でしっかと確かめた。さてと。

 準備にばたばたしている母に声をかけて、家の外に出る。

 俺の家はちょっとわかりにくいところにあるので、駅まで迎えに行った。途中で空が暗かったので大丈夫かな、と思ったけれど、なんとかもちそうだ。

 俺が着く前に改札の前にいた浅野さんは、いつもよりもうちょっとシックな格好をしていた。でもタートルネックだし、露出が少ないのは変わらず。ミニスカートもタイツならかまわないんだけどな。

 そんな彼女は自分の格好が気になるらしく髪をおさえつけながら

「だ、だいじょうぶかな」

「いや、俺の母親も基本無害だよ」

 浅野さんのお母さんほどフレンドリーではないが、どっちかと言うと気が弱めで強く言えない節がある。娘の貞節だけは強く言って欲しいのだけど。

「お、おみやげクッキーにしちゃったけど」

「ん。問題ない」

 浅野さんはがちがちに緊張していたけれど、俺はなにしろ自分の家なのでたいして気にならなかった。ただ一緒に駅から歩くうち、ぽつ、と空から落ちてきた水滴に見上げると、薄暗かった空が先ほどよりもっとやばい感じだ。近場だからと油断して傘は持ってきていなかった。浅野さんもまた

「か、傘忘れてきちゃった」

 と凄くおろおろしている。そこに無情にぽつぽつと水滴の音が増えていく。

 コンビニ…は行くならもう家に行った方が早い。

「雨宿りして行こうか」

「ダメ! 遅れちゃう!」

 受験会場じゃないんだしなあ、と思うけど、浅野さんは急がねば急がねばで頭がいっぱいらしい。うーん。仕方なく俺はコートをかぶせた。

「ちょっと髪が潰れるけど我慢して」

「……」

「走れる?」

 浅野さんがうなずいた。走り出してから後悔した。家まではあと数百メートルもなかったんだけど、雨量は数十メートルごとに倍増する有様だった。浅野さんをどこかの軒先に置いて俺が傘をとりに走ればよかっただけの話だったのに。明らかな判断ミス。孔明にも官兵衛にもなれない男の悲しさよ。

 家にたどりついた頃には、俺はずぶぬれ。浅野さんも結構濡れている。

「母さん、母さーん」

 明かりがついている玄関は誰もいない。あれ、おかしいなあ、と思ったが冬の雨に打たれた浅野さんを放ってもおけず

「とりあえず、あがって」

「ダメだよ、濡れちゃう」

「拭けばいいよ、それくらい。それより風邪引く方が大変だよ。タオル持ってくるから」

「でも……格好も、」

 浅野さんは、まだ焦りが消えていない。不謹慎だけど俺はそのとき、ちょっとくすりとした。

「じゃあ、二階の突き当たりに俺の部屋あるからそこ行っといて。タオル持って行くから。身支度整えてから行こう」

 大丈夫、と頭を軽く叩くと、浅野さんはようやく靴を脱いだ。俺は廊下を進んでリビングを突き抜ける。庭に続くガラス戸が開いているのが見えた。つっかけに足を入れた母さんがいっぱいの洗濯物を抱えていた。

「母さん」

「もう来ちゃったの!?」

 あたふたしてもうびしょびしょの洗濯物を抱えたまま立ち尽くし、そしてとりあえず洗面所に向かう。

「どうしよう。服も濡れちゃったの」

 負けず劣らず焦ってる母さんに噴き出した瞬間だった。階段を駆け下りる音がした。え、と思うと廊下の先の玄関に浅野さんの姿が見える。靴をもどかしげに履いてノブに手をかけて。え。

「浅野さん」

 振り向いた浅野さんは涙目で

「ごめんなさい!」

 そう叫んで、まだどしゃぶりの外に躊躇わず出て行った。 

 え?

 俺と母さんは完全に固まっていたと思う。ドアがバタンと閉まる。なにが、今、起こった?

 停止した俺達の、一時停止解除ボタンは、階段からそっと降りてきた。雨に濡れたのかべったりした髪を白い裸体にまとわせて、ええっとー…と言う生き物。人の摂理に反した生き物。

「さっきのあんたの部屋に来たの、お友達?」

 ありえない悪夢を目にして、俺は停止からコマ送り状態になり、ゆっくりと母を見た。同じように愕然としていた母も知らない知らないとばかりに首を必死に横に振る。

「講義じゃなかったの!?」

「休講だったのよ。帰りに雨で打たれて……」

 姉がぼそぼそとしゃべる。俺は何も感じなくなっていく胸のうちで一言だけ聞いた。自分の声と思えないくらい平坦な声で。

「なんで、俺の部屋にいたわけ?」

「今日、月曜日でしょ? ……ジャンプがあるかと思って」




 まだ雨の音が窓の外で響いている。硝子の表面に水を刷かれていく水滴。ぽつんぽつんと軒先から垂れる雫の音。

 中林はいい奴だった。雨の中、突然、身一つでやってきて何も言わずむっつりしているだけの俺にたいしても、不必要な干渉はしなかった。タオルと着替えを持ってきて、風呂に追いやり、あがるとコーラ一本持ってきて、飲みたくなったら飲めよ、と置いといて。

 後は自分はベッドで漫画を読み出した。それが月曜発売の某少年でなければもっと良かったが、ギャグ漫画もあるだろうに中林は静かにしている。そんな出来た友人を膝を抱えて眺めて、ようやく俺は

「……今日さ、泊めてもらってもいいか」

「おお。――って言いたいんだが、うちの親ちょっとうるさくて、ちゃんと親御さんと話して許可おりないとダメなんだけど。電話とか、いけるか?」

 うなずいた。母に有無は言わせない。ならオッケーだと笑って中林は某少年を横に置いた。

「カラオケとか行く?」

 首を振った。その先でちょっと鼻奥がつんとした。

「中林……」

「おお」

「すまん。ダメになった。せっかく骨折ってくれたのに」

 中林はええっと…、と呟いて。

「浅野さんのことか」

「ん」

 中林はぽりぽりと頭をかいた。

「あのさ。俺のことは、ほんと気にしないでいいぜ。それに関しては。……ほんとのこと言うと、俺、実は宮西さん狙ってたんだ」

「宮西?」

「浅野さんのクラスメイト。結構一緒にいる感じの。でも接点ないから、とっかかりになるかなーと思ってただけだし」

「……」

「でも不純な動機だったからかなー、狙い通り話できるまでにはなったけど、こくったらダメだった。彼氏いるってさ」

 あははは、と中林は明るい。その話が嘘でもほんとでも、こいつがいい奴だというのはかわらないな、と思う。

「なんで、ダメだったか、聞いていい? いやだったら黙ってろよ」

「……家族の問題で」

 中林の顔にうえ、という表情が乗る。確かに高校生の恋愛で抱えるには重いだろう。そっかぁ……と呟いて言葉がない。

「中林って兄貴いるよな」

「おう。大学留年危機一髪ネトゲ中一歩手前のだがな」

「兄弟ってなんでいるんだろう…」

「父ちゃん母ちゃんが、がんばっちゃったからかなあ…」

 そんな微妙な下ネタはいらん。

「俺は、本当に、姉と姉弟に生まれたのを呪う」

「家族ってお姉さんか!?」

 さすがにぎょっとしたように中林。うなずく俺に「そっかあ…、そっかぁ……」と繰り返す。

「喧嘩した?」

「……」

 喧嘩と言うか。喧嘩ならいつでもしている。あれは、家庭内暴力一歩手前だったのは間違いない。手は出さなかったけど。かつてないほど怒ったことは確かだ。でも。どうせ皮膚の感覚もないあの姉には。

「どうせ通じねえよ」

「下は下でつれえよな」

 ヒエラルキーが上だからなあ、と中林。

「昔は、まだマシだったのに」

 扱いはあまり変わっていないが、他所の悪がきにたいしては庇ってくれたこともある。本当に困っていたら助けてくれたこともある。でも切に望んでいることにいっさい応えてくれないことで、いつからかもうほんとに無理と思って生きてきた。

「俺、恋愛とか、彼女とか、もう一生無理だ」

「お前……まだ俺達高校生だぜ?」

「あれが俺の姉でいる限り無理だ」

 つかんだ腕にぎりっと力が入る。「いなくなればいいのに……!」

 中林が困った顔をした。不意に携帯が鳴り始めた。何度目かのことで今まではずっと無視してきたけど、今携帯から吐き出されている妙な明るさがある「大脱走のマーチ」は、映画を見た帰りに冗談である特定の相手の着信だけに設定した。

 慌てて取り出すと、やはり『浅野さん』の表示がある。

 瞬間、俺は途方に暮れた。中林を見る。すがるように見たかもしれない。携帯を持つ手を振ったかもしれない。え、ええ、と中林が何か返す前に、何度も鳴り続けた通話ボタンをおして中林に渡す。

「え、ええええ」

 言いながら中林は耳に当てた。「も、もしもーし。中林です」と言ってくれた。俺はそれに全神経を集中させる。

「はい、……え、あ、はい! はい、いますけど……。えーと……あ、はい」

 中林は俺を見た。そして携帯を耳に当てた。おいっ、と声が跳ねたが、携帯向こうからの沈黙に身体が強張る。

「……も、もしもし」

 震える声の先、携帯から流れてきたのは

『あ、伸也?』

 姉だった。

 瞬間、崩れ落ちそうな脱力の後、不死鳥のようにこみあげる怒りが交代して。

「脳天カチ割るぞくそ姉!!」

『はいはーい。そんな伸也くんにお知らせです。これはスピーカーです。そしてあなたの携帯にかかってきたのは誰の携帯からでしょーか』

 言葉を確かめて。そして俺はもう。悪いと思いながら中林のベッドに蹴りを入れた。

「お前なああああああああああっ!」

『浅野さんにかわりまーす』

『う、上坂くんですか?』

 浅野さんの声が聞こえた瞬間。俺は。

「――ごめん!」

 携帯に向かって土下座した。

「ほんとにごめん! ごめん! ごめん! ごめん!」

 携帯は沈黙して。

『あ……え……謝るの、私の方で。ごめんなさい。びっくりしちゃって。凄い無作法しちゃって』

「大前提で凄いのがうちにいたから! モンスターいたから!」

『誰がモンスターよ』

「てめえはすっこんでろっ!! ってかてめえがなんでそこにいんだよ!!」

 携帯はちょっと沈黙して。ぶすっとしたように。

『……誤解をときにいったのよ』

「誤解? 誤解も何もあれがまごうことなきお前の真実だろ」

『あ、あのね、上坂君。お姉さん、本当に丁寧に謝りに来てくれて。お客さんの前で本当にごめんなさい、って手までついてくれて。弟はしっかりしてて私をいつもちゃんとしなさいって制止してくれるんだって』

 受話器の向こうで姉が何か言って、浅野さんが止まった。

「……」

 それでしばらくして

『と、ともかくお姉さんがそこまでしてくれて、私の方こそ申し訳なくて』

「でも、浅野さん。そいつ全裸だから」

『び、びっくりはしたけど、私、お姉さんとてもいい人だと思う』

「だまされないで!!」

 俺は思わず叫んでいた。浅野さんが脱ぐ姉をいい人だと? やめろ俺の女神だぞ! 

 え、脱ぐ姉? と言っている中林に「チャリ貸してくれ!」と悲鳴のように怒鳴って、め、女神…? と言う受話器に向かい

「今、家だよね!」

『え、あ、ハイ』

「今すぐ行くから! そこの全裸モンスターの言には耳貸さないで!」

『伸也』

「今すぐそこを離れろ!!」

 叫んで俺は家を飛び出し、中林のチャリにまたがる。中林が待てって後ろに飛び乗った。サドルを踏みしめた辺りから記憶がないが、だいぶ後になって中林から、この時の俺は鬼のように一心不乱にチャリをこぎながら「浅野さんに裸がうつる!」とひたすらわめいていたと聞かされた。



 二ケツにはありえないスピードで駆けつけた浅野さん邸に幸い他のご家族はいなかった。しかし姉がいた。

 いっちょまえにトータルネックのセーターを着てスカートをはいて外面をとりつくろった姉だ。元凶だ。

「出てけ病原菌!」

「ちょっ、伸也!」

 背後についてきた中林が慌てたような声を出す。

「なによ」

 コートを腕に抱えた姉はむっと立ち上がった。スリッパなんか出してもらうな!

「いいから出てけよ!」

「ちょっ、落ち着け」

「上坂君」

 中林と浅野さんが口を挟もうとするけれど、うちの問題だから、と親切な二人を押しのける。

「もうお前とは縁を切る。縁を切るからお前がここにいれる繋がりは全然ない。出てけ!」

 立ち上がった姉は最初から目をつりあげていたけど、それがもっともっと強まった。鬼婆みたいだ。

「あんたあたしに向かってよくもそんな口」

「うるせえよ! 姉貴ぶるな!」

「弟のくせに!!」

 姉のコートがソファに叩きつけられた。

「あんたが小さい頃べそかいて泣きついてきたのをあやしてやったのは誰だと思ってんのよ!」

「だったらそこまで姉と認めてやるよ! 脱ぐ前な! 脱いだ後は姉じゃねえ、ただの露出癖の知らない女だ」

「人を変態みたいに言うな!」

「変態だろ!」

「違うわよ!」

 まてまてまてまてまてまて、と中林が俺の胸を押した。お、お姉さん落ち着いてください、と浅野さんは姉の方に言ってる。

「お、おふたりさーん。落ち着いてください。ちょっとテンション下げましょう」

「自分の家でちょっと脱いでるだけじゃない!」

「あれは俺の家でもあんだよ!」

「あんた何がそんなに気に食わないのよ!」

「服を着てないことだよっ!!!」

 叫びすぎて酸欠にくらくらしながら思った。無限ループだと。なんで伝わらないんだよ、と何万回も思ったことをそれでもまだ叫ぶ。

「姉だ姉だ姉だって言うなら、だったらちゃんと姉やれよ! 俺は、彼女を連れてくるときすら礼節保てないような姉貴なんかいらない!! 俺がそんなに姉ちゃんに難しいこと求めたか? ぱしりもしたしジャンプも貸しただろ。何が不満なんだよ! 俺は、服を着てる姉が欲しいだけだったのに!」

「いつあんたが彼女連れてくるってあたしに言ったのよ! 難しいこと求めたですって! 家でくらい自由にすごしたっていいでしょ! あたしだっていろいろあるのよ。凄い開放感があるの! 溜まったストレスそれで発散させてんのよっ!」

「それで俺のストレスが溜まるってなんでわかんねえんだよっ!!!」

 俺の絶叫は天井を貫くかと思った。真上に向かって吼えた。

 ぜいぜい、と酸欠の肺が酸素を取り込む。絶叫響き渡るリビング(よその家)。ご近所に聞こえていないといいが、と最後の理性が生きる頭の端でちらりと思う。姉もまた黙っていた。人前で色々本性をさらしたから。はあはあと息を乱した姉は少しうつむきがちだった。くっと食いしばった唇が十分第二戦を予想させたけれど。

 不意に。

 顔があがった。そしてつかつかと近づいて。バシィッと、ほんとの手加減なしの平手打ちがきた。

「伸也の馬鹿!」

 ひっぱたかれた顔を戻すと、怒髪天をつくばかりに真っ赤に膨れた姉の顔。鬼女。

「なによ言いたい放題言ってくれて! 姉のストレス解消くらい我慢しなさいよ弟のくせに!」

「――だったら絶縁だっ!」

 姉の目にぶわっと涙が浮かんだ。ヒステリー一歩手前(いやもう絶賛到達中か?)でソファーのクッションをわしづかみにして

「できないって言ってんだろ! あんたは一生、あたしの弟! 一生一生一生ね!! この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿弟っ!!」

 なげられたクッションをなぎはらい、俺も叫んだ。瞼がすっごい熱い。

「姉ちゃんの馬鹿あああああああああああああぁぁぁぁっ!!!!」 



 

 出て行けっ! お前が出て行けっ! いやここ浅野さん家だから! の仁義なき人を巻き込んだ散々な兄弟喧嘩はいつもの兄弟喧嘩と同じく結局全然決着はつかず、最後にはドロー試合らしく双方でろでろ泣き出した。

 必死になる浅野さんの前で姉は「伸也、子どもの頃、親が喧嘩してて、お父さんとお母さんが別れちゃったらどうしよう、って泣きながらきたから、大丈夫だって。万が一そうなったって、あたしとは一生姉弟だから心配するな、って言ったら本当? って笑ってたのに、かわりにジャンプは一生僕が買ってあげるね、とか言ってたくせに、絶縁とか、なに、ほんと」とか垂れ流し、必死になる中林の前で俺は「姉ちゃん、それまでみんなにあんな姉ちゃんいいなあってうらやましがられてたのに、脱ぐとか。もう意味わかんないし、トラウマなるし、ダチには疑惑かけられるし、彼女作ってもあさっての心配ばっかで、なんで家で毎日毎日、姉の厚着度を気にして生きていかなきゃなんないのに、姉ちゃんいっさい聞いてくんないし」とかぐだぐだ言い続けたらしい。二人はうんうんうんそうだねわかるよそのとおりだねうんと壊れた人形のようにうなずき続けていたということ。

 振り返ってみると本当に浅野さんと中林は気の毒だ。二人が何をしたというのだろう。

 後日に俺は二人に謝罪とお詫びの品を渡したが、先に姉からもどうやら二人に謝罪とお詫びの品があったらしい。外面はちゃっかり取り繕ってる奴だ、と思わず呟くと、二人が同じ顔で苦笑したのが妙に印象的だった。

 そういうわけで勢いカミングアウトはすんでしまったが。現状、何かが良くなったというわけではない。相変わらずあたたかくなると姉は脱ぎ始めたし、俺はそれにもう容赦なく怒るようになったし、母と父が親戚に「伸也が反抗期で…」とこぼすようになったし(だったら姉は摂理への反抗十何年だ!)某少年も毎週買って喧嘩の種になる。

 ただ、幸い学校ではそれなりに平穏が続いた。成り行きで顔をつっこんだ中林は色々大変なんだなあ、とわかってくれたし(ちなみに奴にもめでたいことにいい感じの女の子ができたらしい)

 浅野さんとも。

 可哀想に初めての彼氏の家への訪問で彼氏の部屋に入ったら「伸也ー、ジャンプどこにあんの?」と四つんばいになってベッドの下をのぞいていた全裸の女に会う、というトラウマものの経験を経てなお(ほんっとひっどいな!)、浅野さんは俺と変わらず接してくれるし、お付き合いも解消されなかった。

 あの出来事も無理をして見なかったことにしている、というわけではなく、

「上坂君いつもクールだったから、びっくりしたけど色々新しい面が見られて嬉しかった」

 この子といたら、俺は女性不信を解消できるかもしれない、と思う。

 そういう希望に背中を押されて「お付き合い」をはじめて三ヶ月目の記念日に、あの天使が通った曲り角で、今度は心に入れた中林の「キスしろよ!」の声にしたがって動くことができた。

 お互い初めてだし掴んだ肩にも思わず力を入れてしまって痛かったしスマートなんかじゃ全然なかったけど。その瞬間、浅野さんに対しての気持ちがぶわっと増幅して。なんというか「服を着たお付き合い」の先を考えてもいいなあ、と思った。口に出すのは絶対にアウトだから言わないけど。

 ただし。その後で一緒に歩いてえへへへ、とあの溶けたバター顔でいた浅野さんが

「私、肌を露出するのが凄く苦手で…。お姉さんの自由さ、ちょっと憧れるなあ」

 と言ったから。

 立ち止まった俺は彼女の肩に手を置いて。

 今の言葉は考え直して、とキスするときより真剣な顔で言う。






 姉は、裸族。<完>


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[良い点] 美人で裸族な姉、この時点でもう言うことはありません! [気になる点] 短編にしては長文なので、数話に分割していただけばありがたいです。 [一言] 主人公がうらまやしくて仕方ないです。 美…
[良い点] とても面白かったです。ストーリーもハッピーエンドで良かった! [一言] 姉弟の関係は永遠の課題ですね・・・・。
[気になる点] これがデブで醜悪な不細工の姉なら分かるのですが、美人でスタイルも良い姉が裸族なら嬉しくて仕方ないと思うのです。 [一言] 主人公がうらまやしくて仕方ない。 美人な裸族姉、どこかに売っ…
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