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アゲハ  作者: 鬼京雅
百年老人編
16/67

四幕~孵化する揚羽蝶~

 鉛色の空から雨がこぼれ落ちるような匂いが鴨川に流れている。

 鴨川の下流の河川敷のうっそうとした林の中に一軒の仮設テントがあり、そのボロい所どころ穴が開いたテントの中で紫色の髪の少年は寝ていた。この鴨川下流は愚狼街ぐろうがいと呼ばれ人生を捨てた浮浪者のたまり場になっていた。

 テントの中には寒い隙間風が吹きすさび、中央にある今にも壊れそうな暖炉の前にうつむいて酒瓶の酒を飲む年寄りの男がアクビをする。小奇麗なベッドの上から起き上がる少年は老人に声をかけられる。

「……やけにうなされておったが、川に身を投げ出すような事でもあったのかい少年?」

「オレはアゲハだじいさん。じいさんが助けてくれたのか?」

「たまたま小便をしていたらお前さんが流れてきたから桃から生まれた桃太郎だと思い拾っただけさ」

 老人の言葉にアゲハは微笑み、まだ痛む身体でベッドから起き上がる。傷だらけの素肌の痛みが光葉こうようが死んだ瞬間を思い出させ、裸のままアゲハは暖炉に当たる。どこかかが故障しているのかプスプス……とたまに音を立てる暖炉に手をかざす二人は話す。

「あんたはどこの人だい?」

「……桃太郎じゃない、ただの浪人さ」

「浪人とは粋な答えだ。若い奴がそう答えられるなら未来は明るいかな」

「別に粋じゃねーだろ。変なじいさんだぜ」

 助けられた浮浪者に親しみを覚え、アゲハはこの老人は本当にただの浮浪者だと改めて認識した。残り少ない酒をひたすらに老人は胃の中へ注ぎ込んで行く。

「久しぶりだな。こんな気分で飲めるのは」

 老人はアゲハに酒瓶をおもむろに差し出す。

「いや、俺は下戸だ」

「硬い若侍だな。そんなんでは女を落とせないぞ」

 差し出した酒瓶を老人はまた飲んだ。こぼれた酒が首下を伝い肌着を濡らす。いつの間にか老人の瞳も濡れていた。アゲハはふと、新しいベッドの横の棚にある古びた写真立てを見た。

「……それか? うちのカミさんが一昨日死んだんだ」

「オレの寝てたベッド。まさか……」

 やけに老人のものとは思えない新しいベッドに違和感を感じていた。

 それは二人で寝る為に買ったばかりのベッドらしい。

 しかし、それは二人で使われる事は無かった。

 二人の間に冷たい静寂が流れアゲハは今、京都で起きている全てを話した。

 このままでは老人にも宮古の魔の手は伸び、邪魔なものを許さない宮古に消されるだけである。全ての酒を飲み干した老人は立ち上がり、テントの入口を開け放つ。寒い風が一気に流れ込んできて全裸のアゲハは身が縮む。

「お前さんの信じていた男が死に、お前さんは死に体。世界にお前さんはいないような状態じゃな」

「世界に必要なのは俺じゃなく、あの男だ。聖光葉なのさ……」

「なら死ぬかい?」

 スッと指をさす先に大きな底の見えない穴があり、アゲハはその穴の異様な感覚を感じた。

「あの穴は死霊の穴。生きる事を辞めた者が入る暗闇への入口」

「ここの浮浪者が全てを終わらせる為に落ちる穴か……」

「どこかが光ればどこかに影が出来る。それがこの世の摂理な以上、この愚狼街は消える事は無い」

 アゲハは京都藩の光と闇を体感する。

 このままでは偽りの光が京都藩を覆い、それはやがて日本中から世界にまで侵食するであろう。あの欲望の化身の若さを得た老人は闇を光として扱い世界を手にするのは容易に想像がつく。恐怖が沸点に達したアゲハはベッドに立てかけてある自分の黒鞘の刀をつかむ。

「じいさん……逃げろ。ここはもうすぐ焼き払われるぞ。死にたくないなら逃げるんだ」

「逃げるのは、生きる意思があるからさ」

「オレの逃げは全てからの逃げだ……もう終わりの逃げなんだ」

 立ち上がるアゲハは自分の刀を両手で抱くように握り締め叫ぶ。

「もう、どうにもならねぇんだ。俺にはどうにも……」

「なら、何故君はその刀をそんなにも強く握りしめている?」

「俺は……そんなつもりじゃ……」

「何故、君は立ち上がる?」

「俺は……ただ勢いで……」

「心が折れた者が立ち上がるという事は、心に炎が灯っているという事だよ」

 その言葉にアゲハは光葉のような暖かくも厳しい言葉を感じた。

 心に灯った炎は全身を駆け巡り一巡した炎は心を更に燃え上げる。

 どんな生き物だろうと命は一つ。

 そして、その思いも一つでしかない

 言葉を交わせずとも、分かり合えるものがある。

 すると、死んだ者の思いを感じた。

 それは無論、あの色白の狂なる男でしかない。

 その男は遠くの場所から一瞬振り返り、何かを呟いた――。

(……やってやるぜ。こんな所で終われるかよ。オレは聖光葉ひじりこうようを超える最強の弟子なんだからな)

 深い精神の底に落ちていたアゲハの覚悟が決まる。

 すでに入っていない酒瓶を青白い満月にかざし老人は笑った。

「いい月が上がってやがるねぇ」

 そしてアゲハは老人から破れた箇所を縫われたボロボロで継ぎはぎだらけの白地に揚羽蝶の愛用の着流しを渡された。失った下駄は老人の妻の赤い鼻緒のついた下駄を渡される。

(この小僧が宮古を止めてくれれば本望だ。全てを諦めた男の偽りの力で求めるものなど何も手に入るものではないさ……)

 かつての宮古長十郎の友であった老人は心の中でそう思った。

 ひいらぎと人間は共存できない――。

 それを柊である聖光葉の弟子であるこのアゲハならやってくれそうである。

 衣装を身に纏い、顔を叩いたアゲハは帯に刀を差した。

「うっし、これで全て完了だ。すまねぇなじいさん。近々ちょっとした祭りがあるから楽しみにしていてくれ」

「祭り?」

「あぁ、清水城での維新祭りって奴だ」

 冷たい空気を全身で感じ、心を炎で燃え上がらせるアゲハは笑い青白い満月を見上げた。




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