序幕~蛹の少年~
一匹の紫色の揚羽蝶が飛んで行く。
それは蛹から羽化し、成長した証である羽根が生えた姿。
醜く地面を這い回る芋虫から脱し、天を駆け巡る一匹の天使。
この現象が人間にも当てはまるようになったのは西暦2020年に京都・比叡山で起きた霊脈解放からであった。突如、溢れ出た霊脈の霊気が少数の人間に異能力を発現させ、その人々は人類の先見の妙たる柊と呼ばれた。
そして、その最高位の力を得た聖光葉の書き記した一冊の書がここにある。
〈諸友は狂という文字について考えた事があるだろうか。いや、考えてほしい。元来、狂という文字は使用するのに敬遠がちである。文字にするにせよ、言葉で発するにせよ、数多の諸友は使わない言葉の一つであろう。狂とは元来、人間そのものを指す。その事は自分自身を深く見つめられるものならば解るはずだ。まだこれを解らぬ諸友は自分の好きな事や、やるべき事を死にもの狂いで取り組んで欲しい。さすれば、おのずと自分自身が狂の境地にある事に気が付くだろう。そして、その狂を意識的に発動させる者こそが、革命者たりうる己が人間道を得た人物なのである〉
しかし、虫のように一つの事に集中出来ない数多の人間は芋虫が蛹から羽化し、美しい揚羽蝶になることはなかった。
先見の妙たる柊達の躍動と混迷は霊脈解放から三年が立ち2023年の京都にて、臨界の時を迎えていた――。
聖光葉の宿舎とする京都郊外にある光葉村塾。
広くはあるが殺風景でとても特別な人間など住んでいるとは思えない猥雑とした人混みに溢れる古びた洋館の中に柊の最高位にある光葉は住んでいた。重要な場所であるそこには霊気による外敵を阻む結界も無く、全てを受け入れる場所でもあった。
本来ならば西本願寺が光葉の邸宅であったが、光葉はここに様々な子供を集め競わせている。その光葉村塾は常に老若男女問わず様々な人間が出入りしており、朝から晩まで人の気配が絶えない。
その場所に潜入したような一人の紫の髪の少年が敵を目の前に叫んでいた。
「うらあああああああああっ! このアゲハを倒せる奴はいねーのかーーーーっ!」
手入れが行き届いた芝の上でアゲハという白地の着流しに紫の揚羽蝶が描かれる少年がバッサバッサと周囲の屈強な柊である大人達を倒し無双していた。しかも全員峰打ちである。
「見えるぜ――オレの超直感はダテじゃねぇ」
スッ……とアゲハは銃弾のスピード並みの石つぶてをまるで来るのがわかっていたように避ける。
そして、銃を持つ男を倒し更に三人の屈強な猛者を倒して光葉村塾の奥へ進む。
すでに三十人以上の猛者を倒したアゲハの瞳に、大勢の子供達が映る。
「相変わらずだな聖光葉……」
子供達が自分達で討論をしながら歴史の本を読んでいる傍に、一人の男がいた。
色白で白色の着物に仙台平の袴。白地に背中に赤く狂の文字が刻まれる重厚な羽織。総髪の髷はりりしく整い、目元の微笑は見るものの心を和ませるものがある。その男が木の枝を持ち、白地の着流しに紫の揚羽蝶が描かれる同じく紫色の髪の少年が足元の砂利を下駄で左に蹴飛ばし言う。
「光葉。そんな枝で京雅院の暗部に昇格した俺の太刀を受けられるのかよ? 俺の一撃は比叡山とて断ち切る刃」
「ほう、それは頼もしいですね。私も比叡山の連中にはほとほと会話すらして貰えず困り果てていましてね。是非、あの比叡山にいる源空会を断ち切ってもらいたい」
「お前を斬ってからな――」
左手の親指で刀の鯉口を切るアゲハは居合を仕掛けた。それをいとも簡単に光葉は細い枝で受け止める。ギリリッ……と鍔迫り合いになり互いの刃と瞳が力の押し合いになる。息を呑むアゲハは、
「枝で真剣を受けた? これが世界の狭間で得た六道輪廻の力」
「違いますね。私は無駄に力を使う気は無い」
「いくらお前でもただの枝で真剣を受け止められるわけがねーよ」
「よく見て御覧なさい。私はこの枝で受け止めているわけではないでしょう?」
「――?」
その通り光葉はアゲハの刀を枝で受け止めてはおらず、刀の鍔を手で受け止めていた。つまり、アゲハの居合そのものを始めから封じていたのである。
そして、目の前の光葉が複数に分裂し始める。
流れる水の如く一切の無駄の無い相手の視界を惑わす歩行術。
流水の動き――。
「過去に天才と呼ばれた人物は皆、今の現代における柊と呼ばれる人間達だった。その人物達は意図的に力を使う事が出来なかったが、それを意図的に使える私達は一人で世界と戦える軍勢になる」
無数に分裂する光葉の言葉に酔いしれていると、トンッとアゲハの背後に回り首筋に手刀を入れて倒した。砂利に顔をうずめるアゲハは全身に力が入らず立ち上がる事も出来ないまま壮大な山のようにそびえる光葉の声を聞く。
「私の分裂まで見えたなら成長してますね。京雅院の暗部でもそれなりに活躍出来るでしょう」
(それなり……だと。この野郎……狂ってやがる)
周囲の子供達の討論や遊んでいる声が残響のように聞こえ、アゲハは目の前の思想行動家・聖光葉と自分の距離を否応無く感じてから動き、飛んだ――。
「超直感でお前の一撃は読めていたぜ! 読めていれば気を失う事はねーよ!」
フフッと光葉は舞い上がる蛹の少年に見入る。
「乱れ――揚羽蝶!」
台風のような乱激のアゲハの一撃が光葉に決まる。
血を噴出し、光葉は倒れた。
ブンッ! と刃を振るうアゲハは刀を鞘に収める。
「木の枝であの強さ……狂ってやがるぜ。だが、今回こそオレの勝ち……ってかやりすぎたか?」
「いえ、そんな事はありませんよ」
突如立ち上がる光葉の傷口は再生する。
これが六道輪廻の力か……? と焦るアゲハは刀に手をかけ後ずさる。
そして全ての傷が完治し微笑む光葉は言う。
「まだ信念である狂が確立していませんね。自分を信じ、進みなさい」
「……」
アゲハは勝負に勝ち、死合いで負けた。
木の棒を持つ光葉がアゲハの背後に現れ、その木は折れた。
閃光のような光葉の一撃に刃を抜いて反応したアゲハだったが、グラリと倒れる。
息を吐いた光葉は木の棒を捨て、背後の少年に振り向いた。
「柊とは先見の妙。果たしてこの少年は光になりうるか……」
清らかな笑みを浮かべ、いつの間にか地に伏せたまま寝ているアゲハの寝顔に見とれた。そして光葉は周囲に人が消えた事を知る。同時にアゲハを起こした。
「そろそろ起きなさいアゲハ。どうやら敵の源空会の精鋭が百人いますよ。どうします?」
「どうって……やるしか」
起き上がるアゲハは異質な空間になる光葉村塾に焦りの色を浮かべる。
そしてその色白の狂気を体現する男は言う。
「考える前に動きなさい。思考と行動が一致する時こそ、人は狂気の第一歩を踏み出すのです」
アゲハが瞬きする間に、その敵は全て倒された。
どうあっても乱戦になる相手である。
アゲハは口が開いたまま呆然としている。
振り返りながら光葉は言った。
「一人、見過ごしてしまいました――この中で最強の一人を……?」
「もう、終わってるぜ。オメーの試練はよ」
一匹の揚羽蝶が飛び、アゲハの狂気がその男を血祭りに上げていた。
匕首を首筋に当てられるアゲハは微笑み、乱れ揚羽蝶により膾切りにされる男は肉の塊になる。肉塊になり、しかも身体がバラバラ過ぎてどれがどの部分かもわからない状態だった。
狂気に染まる乱れ揚羽蝶は正に台風そのもの――と光葉は直感する。
瞬間的にここまでの狂気を引き出し、尚且つ冷静でいられるアゲハに光葉は微笑んだ。
刃物を首筋に当てられて微笑む者は乱世ならば使えるだろう――と。
その光葉は不思議な弟子を見て言う。
「幕々(ばくばく)としてきましたね……」
己が狂気を引き出しながらも、闇落ちしないアゲハはカラリと笑い刀を納めた。
「なぁに、オレは狂ってるからな」