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呼吸。

作者: 秋山かんな

 「お前ぇのその顔が悪ぃんだよ!」

 自分に向けられたその言葉を聞いた瞬間何かが崩れる音がして、私は鞄を掴んで教室を飛び出した。

 国嶋という名前の、先ほどまで大声で説教を続けていた講師が私のことを呼んでいたような気がしたが、そんなことどうだっていい。どうにでもなればいい。


 中学三年生の秋……冬期講習を目前にした塾での授業だった。私は数学が苦手で、一応塾内ではトップのクラスに所属しているけど、文系の力だけでかろうじてそこにいるような状態。そんな私が数学担当講師に気に入られるわけもなく、更に間の悪いというかなんというか、難関校の入試問題で毎回満点近い数値を叩き出す女子生徒が同じクラスにいたのだ。やはり彼女と比べてしまえば自分の数学の力など無いに等しい。

 塾側にとっても私は偏りの激しい迷惑な生徒なのだろうとは薄々感じていた。

 だから受験勉強は数学を重点的にしているし、問題集もやっている。分からないところがあればちゃんと聞きに行っているし、手を抜いたつもりなんてない。

 なのに。

 成績は一向に上がらない。

 志望校も、決まっていない。

 どうすればいいのか分からなくなって、ここ最近はそのことでずっと悩んでいた。

 それが関係あるのかは分からないけれど、数学の基本問題でケアレスミスをしてしまった。

 それが国嶋に見つかったとたんに「やる気がない」「そんなんだからお前はだめなんだ」となじられた。

 仕方がないと思う。

 どんな理由があったにせよ、ミスをしてしまったのは私なんだから。

 心を入れ替えてがんばろう。

 そう思って顔を上げた瞬間だった。

 「お前ぇのその顔が悪ぃんだよ!」と怒鳴られたのは。

 弾みで言った言葉なんだろうと思う。どうせ、対して考えずに感情に身を任せて叫んだ言葉なんだろう。怒鳴って叫んで貶して伸ばす。国嶋はそういう講師だ。

 でも。そうだと理解してはいても。

 心はそう簡単に納得できるわけもなく……。

 まるで、自分の存在そのものを否定されたように。私の呼吸が止まってしまったように感じてしまったんだ。


 走る、走る。

 どこへ行こうとしているわけではなくて、ただどこかへ逃げてしまいたい。

 受験なんて知らない。

 勉強なんて知らない。

 志望校なんて知らない。

 私なんて知らない。

 もう全部、どうにでもなっちゃえばいい。消えちゃえばいいんだ。

 走って、走って、走って、走って。どこかへ、遠くへ。誰にも会わないところへ。

 走って、走って、その末にたどり着いたのは町のはずれに山の、大きな桜の木の下だった。暗闇の中、もはや葉が散るしかないその木は物悲しくて、私の心を一層暗くしてくれる。

 そっと近寄って太い幹を撫でてみる。

 堅い。それから、ざらざらしてる。

 私は握った手をその幹に叩きつけた。

 痛い。骨がじんと痺れる。

 何度も、何度も、何度も、何度も叩き続けた。そうして歯を食いしばっていなければ、きっと私の口から嗚咽が漏れてしまったから。

 「…………馬鹿……っ」呟く。

 「なんで……っ! なんでよッ! なんであんなことッ! 私は! 私は……ッ!」

 「何してるんだ?」

 「……ッ!」

 背後から、不意に声がかかった。こんな時間にこんなとこに来るなんて。不審者? 私のことは棚に上げて疑ってみる。

 「……誰」

 「別に。あんたがそれ、殴ってたからな」

 「答えになってないよ」

 背を向けているからちゃんとは分からないけど、たぶん十代の青年。なにしてるんだろう。こんな時間に。

 「サクラ」

 「サクラ? この木は桜だけど……」

 急に何を言うのだろう。単に面倒くさがりなのかもしれないが何を言っているのかわからない。もう少し言葉が多くても、と思う。

 「違う。サクラは俺の名前」

 ケータイを取り出して、彼は『佐倉』と打ち込んだ。ああ、そのサクラか。なんか納得。

 「何?」

 私の方を見て佐倉……くん?が呟く。またしても言葉は少なく唐突な問い。でも私だって少しくらいなら察せるはず。今のは基本問題で答えは多分、『お前の名前は何?』だと思う。

 「私は……相川ミナミ。太陽の陽で、ミナミ」

 「そうか」

 そうです。としか言いようがない。

 「…………」

 「………………」

 互いに、何も話さない。少し気まずい沈黙が私たち二人の間を埋める。

 「……相川」

 「なっ、何っ?」

 慌てた私を見て、佐倉くんは少し唇の端を釣り上げた、ように見えた。

 もしかして今、笑ったの?

 「答えたくなかったら答えなくていいから」

 なんとなく、訊かれることの察しがついた。

 「何かあったのか?」

 当たり。

 思いっきり訊かれてしまった。

 「別に……。何もないよ」

 唇を堅く引き結ぶ。言わないよ、っていうか言えるわけがない。佐倉くんとは初対面な訳だし。そもそも関係ないし。言えるわけがない。

 「そうか」

 「…………そうだよ」

 と。

 思っていたはずなのに。

 「…………」

 「………………違うよ。何もなくない」

 気が付いたら全部話してしまっていた。

 例えば、志望校が決まらないこと。例えば、成績が上がらないこと。例えば将来したいことが見つからないことだったり、今日国嶋から浴びせられた罵声のことだったり。自分でも何を話しているのか分からないようなことで、本当に小さくて下らないことばかり。でも、それでも。

 いろいろ悩んでぐしゃぐしゃになってしまっている時には、誰かの何気ない一言が、結構ダメージを与えてきたりするもので。

 今まで必死で抑えてきたものが、罵声がきっかけとなって溢れてしまった、ってことなんだと思う。


 「辛かったんだな。よく頑張った、陽」

 全部話し終えた私に、佐倉くんはそう言って頭を撫でてくれた。大きくてあったかい。その手で髪をかき回されていると、何故か私の目から涙が流れてきた。

 「……っなん、で?」

 「……!」

 少しだけ驚いた顔をした佐倉くんだけど、でもすぐに長い指でその涙を拭ってくれた。

 だけど涙腺が崩壊してしまったみたいに涙は流れ続けて、何度佐倉くんが拭いてくれてもそれは何の意味もなさなくなってしまう。

 「ごめ……んなさい」

 「何で謝る?」

 「だって……っ」

 「陽は悪くない」

 その言葉で、また再び涙が流れる。これ以上佐倉くんに迷惑かけるわけにはいかないと、手の甲で乱暴に頬を拭う。全部話してしまったことも、それに目の前で大泣きしてしまったことも。どっちもたまらなく恥ずかしくて、もういっそ逃げ出してしまいたい。

 地面に目を向けて固まっていると、佐倉くんに名前を呼ばれた。

 「陽」

 「……な、にっ?」

 顔を上げた瞬間に。

 私の身体は暖かな胸に抱き寄せられた。。

 いつの間にか私は外気で冷え切っていたらしい。佐倉くんに触れているところがほんのり温かくて優しい。いきなり何なのって、少しは思ったけど。そんなのすぐにどうでもよくなった。

 「陽」

 また、名前を呼ばれる。

 「泣くな」

 それでも流れてくる涙はとまらなくて、自分でもなんで泣いてるのか分からなくて。いつまでも泣いてる自分が情けなくなってきた。

 「陽」

 「……んっ」

 そして不意に佐倉くんの顔が近づいてきたかと思うと。

 ぐいと頭を引き寄せられ、唇が塞がれた。

 思わず目を見開いてしまって、こっちを見つめていた佐倉くんと思いっきり目が合ってしまう。

 「……!」

 恥ずかしさに赤面して、私は目を泳がせる。見かねたように佐倉くんは大きな手のひらを顔にかざし、私のまぶたをそっと閉じる。

 「ん……ぅ……」

 長い、くちづけ。

 初対面の人に、大泣きして慰めてもらって抱きしめてもらって挙句にくちづけまで。自分のことながら、何と言っていいのか分からないほどに、たぶん私は戸惑っている。

 でも。

 この、いつもより少し早い鼓動が云っていることは何なんだろう。

 「……っは、ぁ」

 酸素の足りない、朦朧とした頭ではそれが何なのかは分からないけれど。

 「ぁ……っ」

 そっと離れていく唇。

 酸素を求める二人の呼吸さえも、この寒空の下では白い蒸気となり混じり合う。

 「やっと、泣き止んだな」

 言われて頬をなぞってみる。

 「あ……」

 雫はもう零れていない。

 「あ、の……。ごめん、なさ――」

 「何故謝る」

 「ぇ?」

 「俺が勝手にやったことだ」

 それに、と佐倉くんはわずかに微笑んだ。

 「何も決まってないってのは、これから何にでもなれるし何でもできるってことだろ? それはきっと、幸せなことだと、思う」

 その微笑みに、私は思わず見惚れてしまったんだ。


 やっぱり、私は自分が何をすればいいかなんて今は分からない。何をしたいかなんて今は分からない。

 だけどそれは、佐倉くんの言うとおり、何にでもなれるっていうことで。そしてそれは本当は幸せなことなのかもしれない。

 だから、いつか本当にやりたいことが見つかった時に後悔しないように。


 呼吸()を止めるな、私。

 息を吸って、はいて。

 明日も、吸って、はいて。

 毎日を、ちゃんと生きる(呼吸する)んだ。



読んでくださってありがとうございました。

恋愛というほど恋愛小説ではありませんが、一応 恋の始まりというのがテーマです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] まとまってるところです! [一言] これからも読ませていただきます!!
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