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「はい、そうですよ」
アイリスがにっこり笑い返すると、どこかほっとした様子でアリムが言葉を続けた。
「僕は、その、とくにすることもないんだ。だから戻って」
「することもないのに、お戻りになられたのですか?」
「……パパが帰ってくるまで、部屋にいようと思って」
「おやつとか、どこかで暇潰しをするとか」
「お腹は空いてないもんっ。近くの討伐に出たんだもの、パパも早く帰るはずだしここにいる。さっきは……その、早く帰ってきたのかもと誤解して、嬉しくなってつい走っちゃったというか……」
つい口走ったらしい。床に敷かれている絨毯に視線を落としていた彼が、ハッとして頬を赤らめる。
(……か、かわいい!)
アリムは『パパ』が恋しいのだろう。
ヴァンレック・フォン・ヴァルトクスに子がいるという噂と、彼が後継者にすべく苗字を与えて引き取ったというニュースが出たのが今年の春前。
今は九月だ。来て半年は経っているみたいだが、彼が単身走り回っていた様子からしても、気心許せるメイドも、安心してそばに置きたい侍女もいない様子だ。
愛した女性とは正式に婚姻していない状態だし、社交界からすれば婚外子扱い。
彼の父親である大公様も、気にして近くにあまり使用人は置かないようにしているのだろうか。
(もしかしたら、寂しい思いをしているのかも)
そう感じた時には、アイリスはアリムの小さな手を取っていた。
「じゃあ『パパ』が帰るまで、部屋で遊べることを一緒にして、待ちましょうか」
「えっ、アイリスと?」
「坊ちゃま、奥様でございます」
いつの間に追いついたのか、出入り口からブロンズが口を挟む。
「いいのよブロンズ。戸惑わせると思うし。小公子様、私のことはどうぞ『アイリス』とお呼びください」
彼にとって『母』は、あくまでヴァンレックが心から受け入れた女性だけだ。
「……僕のこと、小公子様って呼ばないで、アリムと呼んでくれるなら」
「喜んで!」
すると、アリムがじーっとアイリスを見つめてきた。
(何かしら)
繋いだ手を気にしている感じはないし、警戒されているわけではなさそうだ。
何やら、興味津々といった感じで観察されているような――。
「アイリスって……なんだか貴族らしくないね?」
アイリスは固まった。
ようやく理解した。自分の『喜んで!』の返答のせいだ。
(し、しまったー! 子供とはいえ、相手は小公子様っ)
大公様の、大切なご子息様だ。
「き、気軽に接してしまい、誠に申し訳なく――」
「ううんっ、気にしないで! そっちのほうがいいなと思って!」
「そうなの?」
呆けてまた素の声が出てしまった。アリムも「うん」と気取らない可愛い相槌を打ってきて、その愛らしさにアイリスはくらくらする。
(母親は今どこに、とかいろいろと聞きたいことはあるけど)
悲しんでいる様子がないところを見ると、母親とはたびたび『パパ』と一緒に会いに行っているのかもしれない。
でも重要なのは――今、彼が寂しさを感じていること。
ここへ来るまで母と子の平凡な暮らしがあったはず。そんな彼に必要なのは、純粋に子供相手をしてくれる人だろう。
(つまるところ保育士が必要なわけねっ)
前世で掛け持ちのバイトをしていた時に経験がある。
少しの間でも寂しい気持ちを忘れて楽しんでもらえると、アイリスも嬉しい。
「アリムは玄関にすぐ迎える場所ならいいのよね?」
「うん、そうだよ」
「よければ散歩がてら楽しく過ごせる場所を一緒に探さない? 私、来たばかりで場所も分からないから案内してくれると助かるわ」
「僕が案内? もちろんいいよ!」
アリムが嬉しさを隠しきれない表情をする。
頼られていると感じて誇らしいのだろう。
(よしっ、かかったわ!)
ブロンズが『おや、まぁ』という目をして彼の様子を見つめる。
部屋にいる、おやつもいらないと言い張っていたアリムは、自分からアイリスの手を握ると、ブロンズが立つ部屋の出入り口にくるりと向き直る。
「どこがいいかな」
言いながら彼がアイリスの手を引いて部屋を出た。
(ふふっ、楽しそうだわ)
手を繋ぐと、身長差がありすぎて少し屈み気味になってしまうが、手を引かれるのは心地よくてアイリスは口元を緩めてしまう。
「アリムが遊べそうなところはある?」
「一人でよくいろいろと見て回るけど、あっ、チェスはどうかな」
「チェスができるの?」
「パパともよくするよ」
なるほど、英才教育かもしれないとアイリスは思った。
案内してもらったのは近くにあった開けた部屋だ。お洒落な模様が入った赤絨毯。諸棚に詰まった難しそうな本からしても、邸宅の主の趣味そうだ。
「こっちだよ」
アリムが手を引いた先にあったのは、窓辺にある読書用のテーブルだ。その隣にチェス盤が乗った円卓がある。
「おやつを食べながらにする?」
「食べよう! パパもおやつ用のテーブルを出してくれるんだ」
やはり食べはしたかったようで、アリムの目が輝く。
(世間では恐れられている人だけど、彼は相当『パパ』が好きみたい)
子供に曇りのない目で愛情を抱かれる人物が、アイリスは少し気になった。
普段からおやつを食べている場所のためか、アリムも強がりを考える暇がないようで食べたいものをいろいろと答えてもくれた。
「いつものテーブルと一緒にお願いできますか?」
「すぐにご用意いたします」
ブロンズが興味深いと言わんばかりに見ていた気がするが、機敏に動き出したのでよく分からなくなる。
アリムはチェスが好きなようで、二人で着席するなり腕を伸ばしてチェスを触りながら、ルールの説明を始めた。
(ふふ、目をきらきらさせちゃって可愛いわね。説明するのも楽しそうだわ)
アイリスはにこにこして聞きに徹する。
「かなり話しが盛り上がっておられるようですね」
間もなくブロンズが戻った。声を聞こえて振り向くと、彼が紅茶一式とおかしが乗ったワゴンを押している。
(あら、てっきりメイドを連れてくると予想していたのに。アリムがメイドに慣れていないのかしら?)
「奥様、大丈夫でしたか? 早めに戻ったつもりでしたか」
「説明を聞いていると、時間もあっという間だったわ」
子供相手に不慣れかもしれないと心配に思われているのを察知して、アイリスは『任せて』と自信たっぷりの笑みで答えた。
「坊ちゃまも、楽しんでおられたようですね」
「うん! 楽しいよ! アイリスと話してたらもうブロンズが来て、びっくりした。ルールは覚えた?」
「ええ、アリムの説明が上手なおかげね」
「じゃあ、やろうっ」
すっかり警戒心は溶けたみたいだ。
チェスが始まった。そばから、ブロンズがカップに注ぐ紅茶のいい香りが漂う。
(彼は天才だわ。六歳なのに、きちんと理解して駒を動かしてる)
チェスは、盤上の小さな戦争だ。
説明からしても、アリムはそれぞれの駒の特性にも強い関心があるのは感じた。兵士から活躍し、最後にはクイーンを守り強敵をも討ち取って〝王〟になるポーン。その解説は熱がこもっていた。
(きっとこれも父親の影響ね)
後継者としてすでに教育も始まり、ある程度詰まっているに違いない。
「アイリス結構いい手を使うね。むむぅ……これはパパに続いて強敵かもしれない……」
「そうかな?」
学校で習った程度なんだけど、と思ったところでハタと気付いた。
頭に、過去の『アイリス』の光景が流れ込んできた。
驚いたことに彼女は、本を見ながら一人でチェス盤に向かい、駒を動かしていた。
どうやら身体のほうが『アイリス』の学んだチェスの手を覚えているようだ。
(――ねぇ『アイリス』、あなたに今、チェスの相手がいるわ)
目頭が熱くなった。こうして一つずつ、彼女がしたかったことをやっていこう。




