5-4
「旦那様の役に立ちたいんです。こんな私でも、そばにいることくらいならできますから」
だから、もういることを否定しないでほしい。
そんな子供みたいな我儘な思いが込み上げて、アイリスはすねたように腕に顔の下を埋める。
「――ヴァンレック、と」
彼の声に、ハタと顔を上げた。
「俺たちは夫婦だろう。二人きりなのに旦那様と呼ぶのもおかしいし……だから……そろそろヴァンレック、と呼んでもいいんじゃないか?」
人間の姿じゃないと、何を考えているのかうまく読み取れない。
けれど、彼のその言葉には、不思議と彼の気持ちがこもっているように感じる。
そう勘ぐりそうになって、アイリスは慌てた。
「わ、私が旦那様を名前で? いえっ、畏れ多いですからっ。一雇われ枠ですしっ」
「やはりそういう意味で『旦那様』と呼んでいたんだな?」
「うっ」
「君が心の中で『大公様』と呼びながら、人がいる前では『旦那様』と呼んでいることも薄々感じてはいたが、正解だったようだ」
「大公様は大公様で……」
「アイリス」
名前を呼ばれた一瞬、ぶわっと肌がすべて熱くなる感覚がした。
「え、えっ?」
なんで、どうして、彼の声で呼ばれただけでこんな反応が出てしまったのだろう?
普段と彼の呼び方が変わった気がする。いや、だんだんと胸を甘くくすぐりだしていた変化が、今、明確になっているような感覚というか――。
「俺も今日からは『夫人』とは呼ばない」
「最近呼んでいないような――」
「君は恐れ知らずなのか素直すぎるのか、判断がつかなくなってきたな。とにかく、名前で呼び合おう。さあ」
ぐっと前に押される感覚がした。アイリスの身体を包み込む尻尾が、彼のほうへ引き寄せたのだ。
「あ、危ないとおっしゃったのはどの口ですかっ」
鉄格子のすぐそばまでぐいぐいと運ばれる。なんて力強い尻尾だろう。
「だから、危なくないと言っただろう。俺は極めて冷静だ」
「旦那様っ――」
「ヴァンレックだ」
「ああもうっ、分かりましたっ。ヴァンレック様っ」
鉄格子に突っ込まれた彼の鼻先と、今にも触れてしまうのではないかと思ったアイリスは、自棄になって名前を呼んだ。
「それでいい」
「あとで不快になられたりは……」
「しない。はぁ、君は契約書がないと不安になるのか?」
「そういうことではないんですけど」
「では、こうしよう。名前で呼ばれたほうが獣の戦闘本能に意識を持っていかれないと思わないか? つまりここで今、君が俺の名前を呼ぶことで暴走の可能性が下がる」
確かに、一理ある。
「そうですね、人間としての名前を呼んでいたほうが理性を引き留められそうです」
「分かってくれたようで助かる」
「あの、ところでヴァンレック様、私、鉄格子の隙間からそっちに行けそうなんですけど、そばに行ってもいいですか? 尻尾より本体のほうが温かそうです」
「君の警戒心が心配になってきたな……」
そんなこと言われても、近付いてアイリスは気付いたのだ。
(ぽかぽかするっ)
これも獣人族の不思議な力の一つだったりするのだろうか。
てっきり危ないなど一度は反対してくるかと思ったのに、ヴァンレックは右前脚の爪を隣の鉄格子に引っかけた。何をするのだろうと見ていたら、彼は平然と爪一歩本で、太い鉄格子を軽く曲げた。
「…………すごく、強い爪ですね?」
「そこから入るといい」
立ち上がると、寒さが身に染みた。
(本人の許可をもらったことだし)
アイリスは迷わず鉄格子の少し広がった隙間から中へ入ると、彼の腕のすぐ後ろに、身体の横を埋めるようにしてぽすんっと座った。
「ヴァンレック様、尻尾ください」
「警戒心ゼロのうえ、図々しさまで増したな」
「生きようとする本能でしょうね。もう、日が暮れます」
気付けば、上部にある小さな窓の向こうは夜の闇が下りていた。
(きっとまた雪が、たくさん降るんだわ)
神獣の不思議な力によって、この地は夜にたくさん雪が降るという。暮らしていた中で自分の目で確認した限り、メイドたちの話はすべて的中続きだ。
「月明かりのあるなしは関係ないんですね」
「ふふ、俺は狼男じゃないよ」
この世界にも狼男の話はあるんだな、となんとなく思った。でも、彼が笑ってくれて、アイリスの胸は喜びに染まる。
「今回の満月は、ヴァンレック様が一人ほっちで過ごさなくて、よかったです」
「ああ、そうだな。ありがとうアイリス」
ただ名前を呼ばれただけなのに、心地いいと感じる。
大きな狼と、それに比べてとても小さい人間。
それなのにアイリスは、昨日最後に会った時よりも、二人の距離感がぐっと縮まったように感じた。
(零時か……まだまだ長いわね)
身を丸くして目を閉じる。この身体でそんな時間まで起きていたことはないから、今になって少し気になった。
「ねぇヴァンレック様、私、深夜まで起きていたことがないんです。ですから……」
零時までお喋りに付き合ってほしいと告げようとした。
見上げて、アイリスは首を傾げる。
鉄格子の向こうを見ているヴァンレックは、何やらそわそわと落ち着かない様子である気がした。姿が大きな狼であるせいで、表情の微妙な変化などは感じられないが。
(あ。獣化を見られて、気にしてるのかな?)
いまさらになって、ふと思い至る。
「すみませんヴァンレック様、そのお姿は全然素敵ですよ」
「えっ」
狼の顔が、素早くこちらを見下ろしてきた。
「大きくて驚きました。とてもかっこいいです」
「か、かっこいい……!」
「そしてふかふかで素晴らしいです。大変好みです」
「こ、好みだと……!?」
「はい。こんなもふもふで極上なふわっふわ、他に知りません」
この流れならいけるのではと思って、アイリスは遠慮なく両手でもみもみし、顔面を埋めてみる。
(やばいわ。すごく埋まる)
もふもふだ。そして、かなりさらさらでもある。
「これはアリムとはまた違った素晴らしい感触!」
「なんだって?」
アイリスは声に出ていることも気付かず、彼の金色の毛並みに顔をこすりつけた。
「ちょ、やめなさい」
焦った声が上から聞こえる。
「怖くないです本当です、はぁっ、なんて素晴らしいのっ」
「その悩ましい声はっ、本気でやめてくれてっ」
大きな狼が何やら身悶えしている気がする。
(……恥ずかしいのかしら?)
アイリスは両手でしっかり毛並みを握ったまま、彼の顔のほうを見上げた。
「褒め上手なんだな、その、うん……もういいから……この姿を君が気にしていないことは、よく分かったから……」
蚊の鳴くような声だった。狼は完全に恥ずかしがっていた。
何やらアイリスの胸のあたりできゅんっと鳴る。
(可愛いわ)
もし、彼が今、人間の姿だったとしたら、いったいどんな表情をしているのだろう?
「深夜まで起きていたことがないと言っていたな」
んんっと咳払いのようなものを口にして、彼が言ってきた。
「聞いていたんですか?」
「この姿だと、たいていのことは聞き逃さない」
なんと、日頃からいい視力も含めて、獣の姿だとより能力値が上がるみたいだ。
「そうなんですね」
「君は話していると……いい具合で緊張が抜けていくな……」
「それで、なんと言おうとしたんですか?」
「話して時間を潰そうと提案しようとしていたんだろう? そうしよう。君のこを話してくれ」
「私のこと、ですか?」
「腰を据えて長らく話す機会は、なかったからな。夫婦なのにおかしな話だ」
「まぁ、そうかもしれませんね」
一般的な〝夫婦〟とは違っているので、仕方がない。
でも――。
「ヴァンレック様も聞かせてくださいますか?」
「ああ。君のことを教えてくれるのが前提だ」
「なんだか押しが強いですね……」
こうして会話していると、確かに眠気がこなさそうだ。起きていられる自信も出てきたアイリスは、時間を潰すべく、彼が希望する『自分の話』をすることにした。




