5-2
間もなくアリムが到着し、朝食が運ばれてきた。
「満月だからしょうがないよ」
ヴァンレックの説明がうまいのか、彼はそう重くは受け止めていないらしい。アリムは食事を進めながら、満月の日は一人で食べていたと言った。
「あ……でもアイリスが来る前は、部屋に閉じこもっていたからその時の建物内の様子って、あまり分からないんだよね」
「っ」
そうだった。アイリスが来る前、アリムは『パパ』以外に打ち解けていなかったのだ。満月の時には食事もろくに取らなかったことだろう。
「たくさん食べましょうねっ。旦那様も明日褒めてくれるわっ」
「うん! アイリスがいたら食事はどれもおいしーよ! パパに、二人で三食ちゃんと食べたって、自慢するんだ」
彼はヴァンレックに似て、女性心を掴む才能でもあるのだろうか。
(大公様って意外と紳士なのよね……)
思い返して頬が熱くなる。
けれど――優しさを思い出したからこそ、胸がきゅっと切なくなった。
アリムとの食事は世話をするのも楽しい。でも、獣の姿になったからという理由で、ヴァンレックが牢で一人過ごしているのだと思うと、食欲はあまり湧かなかった。
(使用人に壁を作っていたのは大公様自身なのね)
壁、というか一定の安全な距離を使用人たちに与えている、のだろう。
制御不能のリスクがあること、満月には人の姿でいられないこと――どこが壁があるよそよそしい空気だと感じたのは、ヴァンレックが原因だったのだ。
「アイリス、大丈夫? 体調が悪いの?」
「ううんっ、騎士の方々に伝言をするのを忘れていて。少しだけ離れるわね」
「いいよ! メグがお肉を切り分けてくれるから」
メグというのは、アリム付きのメイドの一人だ。
彼女が代わりにそばについてくれて、アイリスは一度、ダイニンルームを出て壁に身を隠した。
「ふぅ……」
壁に背をもたれて一息吐く。
警備についていた二人の騎士が、心配そうに見てきた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。子供は空気を敏感に感じ取るものでしょう? 私のせいでアリムの食事まで進まなくなってしまったら、大変だから……」
どうにかにこっと笑い返した。
「何か、できることってないのかしら」
いずれアリムだって、同じように獣の姿に変身――つまりは【獣化】するのだろう。
(このままでいいわけないわ)
そう思うものの、それはただ自分の感情論だとも自覚してはいた。
方法があれば騎士たちだって、こんなつらそうな表情はしないだろう。
「何も」
一人の騎士が間もなく、ためらいがちにそう答えてきた。
「団長が自我をなくしてしまった時、唯一頼ってくれるのは俺たちなんです。ですから俺たちは、団長が〝願っていること〟を叶えると自信たっぷりに答えて、安心させてやることしかできません」
「そう……正直に話してくれて、ありがとうね」
ヴァンレックは彼らがいて、支えられていることだろう。
アイリスは、ヴァンレックの兄である国王が、彼にしつこかったというエピソードの理由が理解できた気がした。彼が人を寄せ付けないだけ、兄は愛情たっぷりに接しようと決めていたのだ。
そして獣人族の騎士たちは仲間としてヴァンレックを支えている。
でも、アイリスには何もできない。
結局何かしてやれる方法など、持ち合わせていない。
(私は、彼が決めた伴侶でさえないから)
ヴァンレックがたった一人、ここから最も離れた棟の最上階の牢に入っているのに何もできないことが悔しかった。
――いや、悲しい。
何かしてあげたいと思う。
でも、もし会いに行ったとしたらどうなる?
獣人族は迎え入れた伴侶、そして血を分けた家族に対しては安全。彼はすでに心に決めた愛した女性がいて、子供もいる。
もしアイリスが今の感情のままに『行きたい』と思い、向かい、彼が理性を飛ばしてアイリスに危険なことがあれば、我に返った時にヴァンレックはどう思うだろう?
(それだけは、嫌)
彼に迷惑をかけたくない。
(期間限定の同居みたいなものなのに……何もできることがない自分にないという事実的な立場も、すごく、苦しいわ)
思っている以上に彼の存在が自分の中で増している。
何もできないことが、悲しい。
アイリスは唇を噛んでこらえた。騎士たちのほうもまた、ヴァンレックが一人で耐えて牢にいるという現状が悔しいし、とても嫌なのだと伝わってきたから。
◇∞◇∞◇
今日は大公妃教育も休みだ。
午後に温室を見に行ったのち、アリムの部屋で一緒に大きなお城を積み木で作ることにした。
(もう、夕焼けだわ……)
窓を見てアイリスの心が沈む。
薄暗なくなっていくのを感じるごとに、一人でいるヴァンレックのことを考えてしまう。
建物内は怖いくらい静かだ。夕食の用意についてアリムの好きなものをと指示を持たせたメイドたちも、時間が過ぎるごとに緊張疲れがうかがえている。
廊下も、窓の外も、騎士の姿がよく見かけられた。
何かあれば迅速に駆けつけられるよう、誰もが警戒して警備についているのを感じる――ヴァンレックが暴走して塔を飛び出してしまった場合に、備えて。
(大公様……)
今頃、冷たい石で覆われた牢屋はは、窓も少なくてこちらよりもっと薄暗くなっているだろう。
そんな中にヴァンレックが一人いることを想像すると、アイリスの胸は痛んだ。
「アイリス、パパが気になる?」
ハッと我に返ったアイリスの手から、積み木が落ちた。
「ご、ごめんなさい、なんでもないのよ」
持ったままぼうっとしてしまっていたらしい。慌てて拾い上げようとしたら、小さな手が上から触れてきて、アイリスを止めた。
「パパのことでしょう? そんなにアイリスが悲しそうな顔をしていると、僕も悲しくなってくるよ」
膝立ちして近付いたアリムが、アイリスの頬に手を添える。
子供の温もりをじんわりと感じた瞬間、なぜだが魔法にでもかかったみたいに、アイリスは心の防波堤が崩れた。
――悲しい。
自覚したらこらえきれず、目が潤んだ。
(ああ私、悲しむほど大公様のことを気にかけているんだわ)
せめてアリムには心配をかけたくなくて、目に力を入れる。
「うん、あなたパパのことよ。私、すごく気になるの」
理由は分からない。でも、何もできないまの嫌だと心が叫んでくる。
ヴァンレックを一人にしておきたくない、と。
「でもそんなことをしたら、迷惑をかけちゃう」
子供相手なのに、アリムに触れられていると、不思議と前世で両親や妹に打ち明けた時のように、本音が口からどんどんこぼれ出た。
すると、アリムが嬉しそうに微笑んだ。
(――え?)
場に似合わない、美しくて大人びた笑みだった。
「それなら、会いに行くといいよ」
「それができたらどんなにいいか、私は……だめなの」
つらい気持ちが一気に襲い掛かってきた。他人で身の安全が保証されるのは、結婚したくてもできなかったヴァンレックが唯一愛したアリムの母親だ。アイリスは国王のように血をわけた家族でもなく、アリムのように実子でもない。
アイリスは視線を落とした。
今の自分は、前世で持っていた運動神経だって、あやしい。
「必要時外の暴走を恐れる人は多いけど、相当怒らせなければ、スイッチが入ったりしないんだよ。伴侶がいれば起こらない」
言いながらアリムが立ち上がるのが見えた。
「僕が送り届けてあげるよ」
――ん?
アイリスは、自分の耳が正しく機能しているのか、しばし考える時間が必要だった。
「夕食もきちんと一人でとるから。ああ、外の騎士たちにも伝えておくね」
「ちょ、ちょっと待って、アリム」
何を言っているの、という言葉は続けられなかった。
顔を上げて、アイリスはぽかんと口を開ける。
そこに立ったアリムの両手に、黄金色の粒子のような輝きがたくさん集まっていた。
「さあ、行くといいよ」
アリムがにっこりと笑いかけてくる。
「きゃっ」
黄金色の粒子のような光が移動してまとわりついてきたかと思うと、アイリスは床から浮かび上がっていた。
「嘘っ、浮いてる!?」
「大丈夫だよ、アイリス。君の気持ちが向いていれば、もう――」
どんどんアリムが遠くなっていく。
彼の言葉は最後まで聞き取れなかった。天井と床の中央まで身体が浮かんだアイリスは、次の瞬間眩しい黄金色の光に包まれて、両腕でかばって目を強く閉じていた。
◇∞◇∞◇




