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ハッとして視線を向けると、騎士たちに促されて一人の貴婦人が進んでくる。
白髪交じりだが背は伸びて美しい。身長もそれなりにあり、作法が身にしみついているのが歩く所作からも感じられる。
彼女がレベッカ伯爵夫人だろう。
「遠いところご苦労」
「ご指名を光栄に思います。ロリスロード伯爵の妻、レベッカ・ロリスロードにございます。ヴァルトクス大公と、大公妃にご挨拶申し上げます」
片方の手でドレスのスカートを優雅に持ち上げる姿勢は、アイリスも見惚れてしまうほど美しい。
(ダンスの決めボースみたいだわ)
すると、姿勢を戻したレベッカ伯爵夫人の目が、早速アイリスに向いた。
「どうぞ、レベッカとお呼びください」
「は、はじめましてレベッカ様っ。私のこともどうぞアイリスと――」
「えっ、いえ、畏れ多くもそのような」
慌てて両手を小さく振ったレベッカ伯爵夫人が、胸に手を添えて深呼吸を挟み、じーっとアイリスを見つめてくる。
「あの……大公妃様は、とてもよいお方なのですね。あまりに美しいことにも驚きました。姿勢もとてもいいです。これでダンスは幼少期以来だというのも、信じられません」
そういえば、とアイリスは思い出す。
昨日からブロンズによる大公妃教育が始まった。まずは基本の姿勢をチェックしてもらうことになったのだが、とてもいいと彼は褒めていた。アイリスも日頃から自分の姿勢がいいことは自覚している。
(たぶん普段から姿勢を崩していたらそうならないはずと、分かる人には分かるのかもしれないわね)
記憶を手繰り寄せる限り『アイリス』は礼儀正しい子だった。
「失礼ですが、知識のほうは?」
レベッカ伯爵夫人が、ダンスの型といった名前をいくつか挙げてくる。
「どれも、全然分かりません……幼い頃に数回だけしか学んだことはなく……」
アイリスが静かに首を横に振ると、彼女だけでなく、ヴァンレックたちも驚きを隠せない様子だった。
「ということはもしや……一度も踊られたことはない?」
「はい、ありません。そもそも家族は、私にはダンスを実際踊ることについては不要だと考えていたようでした」
ぼかして大雑把に伝えた。軽く流そうとぎこちなく笑って答えたのだが、なぜかレベッカ伯爵夫人の顔色が悪くなる。
場に、重い空気が立ちこめるのを感じた。
原因は――ほとんどは隣だろう。
冷気を感じ取ったアイリスは、おそるおそる目を向ける。そこには空を見据えているヴァンレックがいた。
(さっきまで見ていた金色の目が、今はとても怖い感じがするわ)
彼の真顔はよく見てきたが、なんだか怖い感じだ。
ヴァンレックだけじゃない。レベッカ伯爵夫人のような反応を見せたメイドたちも、ブロンズも、納得がいかないと言わんばかりの顔に変化していく。
(ど、どうしよう)
自分のせいで空気が重くなってしまった。
「あ、あの、旦那様」
なんとかしなくちゃと思って声を出したら、彼がハッとしてピリついた雰囲気を消し、アイリスに視線を返してくる。
「なんでもない――アイリス」
向き合ってきたかと思ったら、彼が急にアイリスの手を優しくすくい取った。
「えっ、な、なんでしょうかっ?」
急に名前を呼ばれて動揺した。
「俺は兄上から、嫌というほどダンスを教え込まれたんだ」
唐突な彼の告白に、アイリスは大きな目をぱちくりとする。
「まぁ、なんて素直そうなお反応なの」
と声をもらしたレベッカ伯爵夫人が、素速く自分の口を手で塞いだ。
「国王陛下に、ですか……?」
「そうだ。俺には不要だと、剣と礼儀作法だけでいいと言ったんだが、兄上は『リードできるくらいダンスも習得していて損はない』と告げ、逃げ回る俺を何度も捕まえにきた。それで正解だったのだと今、実感した」
彼の眼差しが急に柔らかくなる。
アイリスは、どきっとした。
「俺がいる。アイリスの練習相手になろう。講師と俺の二人で進めていけば、きっと習得も早い。こう見えてダンスは得意なんだ」
女性を嫌がっていたという噂だから、相手はまさか国王なのだろうか。
想像が浮かんで少し好奇心が沸く。
けれどそれ以上に、アイリスは優しく微笑みかけてくるヴァンレックに、自分の胸が甘く高鳴っているのを感じていた。
「……お、お時間を取ってしまいますのに」
「気にしなくていい。俺がしたくてしている。相手役を、任せてくれ」
「っ」
そんなこと言われたら断れない。
(人嫌いなような恐ろしい大公様も、子育ての協力者にはこんなにも優しく――)
初めての感覚に、全身の血がはやく流れていくのを感じていた。胸がときめいて、相手の瞳の中に自分の心がまっすぐ落ちていくような感覚――。
だが、寸でのところで踏みとどまれた。
(ハッ、だ、だめよっ。彼は獣人族としてもう愛する人を決めている人なわけだし、可愛い子供だっているものっ)
しっかりしないと。そう自分に言い聞かせる。
――アリムの母親がいる。
彼が誕生したのは、美しいけど女性が近寄らないと言われているヴァンレックが、一人の女性と愛し合ったから。
そう考えれば、彼がアイリスのダンスの相手ができるのも不思議ではない。
けれど思うだけで胸はつきりと痛んだ。
「ア、アリムは大丈夫でしょうか」
否定しても惹かれていく予感に、アイリスは慌て視線をそらす。
すると、取られている手をくいっと優しく惹かれ、視線を引き戻された。ヴァンレックが高い位置にある頭を屈め、至近距離からこちらを覗き込んでいて、驚く。
「んなっ――」
「君は、ダンスの『目を合わせる』から始めなければならないな」
彼は自分の顔がいいことを自覚すべきだ。先程怖いと感じた一般的に知られているほうの姿を隠すと、ただただいい人にしか見えない。
いや、ただただ素敵な一人の男性に、だ。
(あ、あぁあぁあ、まずい)
ヴァンレックがきらきら輝いて見える。今、自分は考えも追いつかないくらい動揺しきって、恥ずかしい赤面を晒しているはずだとアイリスは分かった。
「奥様、よかったですわね」
レベッカ伯爵夫人が、そばからふふっと告げてきた。近くで待機しているブロンズも、その向こうにいるメイドたちも。出入り口で警備しているらしい二人の騎士もなんだかアリムを見守るような目を向けている。
「くくっ、君は本当に全部顔に出るんだな。アリムと初めて遊んでいた時と同じだ」
「だ、旦那様っ、意地悪なことを言わないでくだいっ」
赤面のことを言っているのだろうか。
こっちはいっぱいいっぱいなのに、そんな大人の余裕をかましてこないでほしい。魅力的でアイリスの心臓の音はうるさいままだ。
「アリムのことなら問題ない。アイリスのことなら、きっと喜んで協力してくれるだろう。君が心配するというのなら、ここへ来る前に俺がアリムのもと訪ねる――それでどうだ?」
「……悪くない提案ですね」
アイリスがダンスを習うことによって、思いがけずヴァンレックとアリムの接する時間が増える。父と子の時間を作っていく計画だったので、いい条件だ。
「それでは旦那様、もう一つ『無理のない範囲で付き合う』ということも条件に盛り込んでください。旦那様が大丈夫なのか、心配になりますから」
「分かった。無理のない範囲で、相手役を努めよう」
またしても彼の表情が柔らかくなる。
(私はアリムではないのだけれど?)
意識しないよう、アイリスはつい心の中で可愛くない反論をした。




