4-1 四章
その翌日からアイリスの体力作りが始まった。
アリムと騎士団側の屋内訓練場まで歩いたりと、散歩の距離と数も増えた。
「筋肉もつけるといいですよっ」
「寝る前にできる初心者向けのメニューを紙にまとめてみましたっ」
シーマスといった騎士たちも応援してくれた。
栄養面ではコックたちが、日頃のケアは執事が管理して指導に当たり、メイドたちはがこまめに休憩を入れてストレッチからマッサージまで行ってくれる。
「大公妃教育も入れてみましょうか」
「えっ」
三日後、若干筋肉痛でメイドに手足を揉まれている中、やってきたブロンズが厚みのある提案書を持ってやってきた。
「作法も体幹や体力を必要とします。肉体の基礎体力も、自然と向上していくかと」
「こ、この資料を見る感じそれは伝わってくるけど、でも……」
確認するよう促されて提案書を開いたアイリスは、動揺する。
(というかこれ、まさにプレゼンだわ)
ブロンズがわざわざ口頭確認だけでなく、日程案まで作成していることには唖然とした。いかにも説得させたいという気迫を感じる――気がする。
大公先教育なんて、アイリスには不要だ。
彼女はあくまで〝一時的なお飾りの妻〟なのだ。ブロンズはさすがに主人から事情は聞いているはずだろう。
「手間をかけさせてしまいますし……」
思いを込めて上目遣いに見つめ返すと、ブロンズが容赦なく視線の圧を強めた。
「旦那様からも、ぜひ進めてはどうかと返事をいただいております。わたくしも、するべきだと考えています」
「えー!」
それでは、始めから決定事項なようなものではないか。
「わたくしも旦那様も、人族の中でも激弱だと奥様が気にされていることへの改善について、ご協力をしたいと願っているだけなのです」
「うっ」
激弱、という今大変気にしているキーワードを他人から口にされると、威力が大きい。
「そのため大公妃教育という側面から、と徹夜で計画書を作成したのですが――」
「やりますっ、やらせてください!」
視線を意味深にそらしたブロンズに、同情心が湧いてアイリスはそう瞬発的に答えていた。
「それでしたら早速、アリム様との時間の合間にスケジュール入れさせていただきます」
「あ……」
ブロンズがてきぱきと提案書を引き取り、メモ帳に何やら走り書く。
(なんだか騙されたような気が)
するとアリムが、アイリスの肘置きに身を乗り出した。
「僕も散歩とか協力するからね!」
「うん、ありがとうアリム……」
可愛いなぁと思い、彼の頭を撫でる。
「僕のことはあまり気にしないでいいからね。アイリスがお勉強入れるんなら、僕も勉強するっ」
そういえば彼は、どこからどう見ても愛くるしい令息だった。引き取られてしばらくは、貴族生活や所作の教育はあったのだろう。
アリムは、つたないが文字を書くこともできる。
さらに進んだ貴族教育を受ける予定が、そもそもあったのかもしれない。
「お勉強は今、お休みしてるの?」
「うん。まぁそういうところ。僕の希望に合わせてパパが用意してくれるから、アイリスはなんの心配もいらないよ!」
「そうなのね」
いちおうはヴァンレックの妻という立場ではあるが、アイリスがアリムの教育に口を出せるはずもない。
あくまで子育て係だから、時間割りに従うだけだ。
(でも、大公様はやっぱり我が子には甘いのね。アリムの希望をきちんと聞いて進めているだなんて)
今は、ヴァンレックがいない状況でもアリムは使用人たちと意思疎通をはかれる。彼も安心してアリムの勉強を再開できるはずだ。
「あ、それならダンスはっ?」
唐突に聞こえたアリムの声に、アイリスはぎくりとする。
「ダンスだったら運動だし、アイリスの体力作りにいいんじゃないかなっ、どうっ?」
きらきらの目を向けられて、大変困った。
「アイリス?」
珍しく目を合わせないと感じたのだろう。アリムが心配したように正面に回ってきて、アイリスと目を合わせてきた。
「あの、えっと……ダンスはたぶん、無理だと思うわ」
アイリスはとうとう白状する。
「どうして?」
「子供の頃に基本を数回習っただけというか……とにかく、全然だめなの」
記憶を辿ってみたら、ダンスを受講できたのは、まさかの子供の時に始まる貴族教育の頃だ。
文字の読み書きを習い始めた年齢の『アイリス』が、講師が言っていることもうまく理解できないまま動きをただ真似している――風景しか思い出せない。
(ふっ、なるほど。どうりでアイリスも積極的に踊りにいこうとしなかったわけね)
身についていないのだから『楽しそう』よりも、恥をかくかもしれないという緊張や不安が勝ったのだろう。
パーティー会場にいても壁際に立ち、ダンスのほうから目をそらしている光景の記憶があった。
(悔しいわっ、私がそばにいてあげられたらっ)
母であるエティックローズ侯爵夫人は、アイリスをよっぽど社交界で男性と躍らせるつもりがなかったようだ。
美しさでは妹に勝っていると分かっていたから?
妹のほうも、姉に目立たれたくなくて――?
(……あいつら)
アイリスは最初で最後に見た家族を思い返し、空を睨みつける。
(私だったら自分で講師でも雇って、一泡吹かせてやるところよ)
がるるるとアイリスは番犬みたいに呻った。
アリムが大きな目をぱちくりとし、ふふっと笑った。
「僕、アイリスだーい好きっ」
正面からアリムに抱き着かれた。いつの間にかメイドたちのマッサージが終わっていることに気付く。
「奥様のお気持ち、よく分かりました。ならば余計にダンスは受講されるとよろしいでしょう」
「そうだよ練習してみようよ!」
ブロンズに続き、アリムが言ってきた。
「僕、アイリスとも踊りたいな。パパも上手なんだよ」
「えっ、いやいやそんなすぐにしなくてもいいと思うのよっ。そう、おいおいでいいのではないかしらね!?」
アイリスはダンスがされるような、大きな社交の場に出ることはないだろう。
冬が終われば貴族たちも活発化する社交シーズンが来るが、それまでいられるとも思えないし――。
(それに前世では音楽とも無縁だったのっ。絶対無理っ、運動神経抜群だったけど、ダンスだけはできる自信がないわ!)
ダンスなんて未知の世界だ。
アイリスは怖気づいて、話題を変えようとした。
「ブロンズ、他のことから始めてもいいと思うのよ。この前の提案書に箇条書きにされていた勉強項目だけど――」
その時、一人の騎士が駆け込んできた。
「団長、いえ大公様から追加で言伝がありますー!」
「追加?」
「大公妃教育の順番ですが、まずはダンスの授業はどうかとご提案されています」
「えーっ」
叫んだアイリスに続いて、プロンズが「ならば決定ですね」と話し合いを締めた。
「それでは旦那様のもとに許可を取りに行きましょう。準備することもたくさんあります。アリム様に差し支えのない日程も組み込んでいかなければ」
「僕も協力するよ!」
「心強いです。しかし遊ぶこともアリム様にとっては必要な勉強でございます」
そんなブロンズとアリムの会話を聞いて、騎士のほうも安心したみたいだ。
「奥様がいらしたほうが大公様も喜ぶと思いますよっ。がんばってくださいねっ、応援してます!」
彼はいい笑顔で言い残すと、また走って出ていった。
(……アリムに続いて大公様まで? いったいどうなっているの?)
家に置いてくれている権力者の提案を、断れる身ではない。
それから一時間もかかっていない頃、アイリスは高速着替えの三着目の試着品で、すでにぐったりしていた。
「まぁ! ほんと大公妃様はなんでも着こなせてしまいますわね! 着せ甲斐もありますわ~」
目の前にいるのは、王都にも顧客が大勢いるという有名な仕立て屋の女性デザイナーだ。
彼女は王家、ヴァルトクス大公家にも御用達を受けている。
あの超絶似合うアリムの衣装を作った店であると聞いて、腕の良さはアイリスもなるほどとは納得した。
(――いやでも私っ、本気でダンスは無理だと思うのっ)




