プロローグ
――ずきずきと頭の奥が傷む感覚があった。
鈍い音が聴覚を叩いてくる。
(誰か話してる……?)
そっと目を開けてみると、古い絵画のような光景が目の前に広がっていた。
「取り乱すなんて貴族の令嬢のすることではないわ。妹をみならいなさい」
五十代に入ったばかりの女性が、汚れたものでも触ってしまったと言わんばかりに手を払っている。彼女は何やら黒いレースの入った赤いドレスを着ていた。
(――はぁ?)
厭味ったらしい口調で言われて、カチンときた。
正直、意味が分からなかったが、不快だ。
今になって初めて自分が床に座り込んでいることに気付いた。それを同じく西洋の衣装を来た細身の中年男性と、少女も見下ろしている。妹、と口に出された際に勝ち誇ったような表情を浮かべていたことから、彼女が本人だろう。
「アイリス・エティックローズ。生贄みたいなものとはいえ、結婚の指名をいただけたのよ。エティックローズ侯爵家に貢献できるようやくの機会を光栄に思うべきだわ。決定は覆りません。すでに二人の婚姻はなされたの」
意地悪な笑顔で勝ち誇ったように女性が告げる。
「もう一度言うわ、あなたには、あの恐ろしいヴァルトクス大公のもとに嫁いでもらうわ」
わざとらしく繰り返した『生贄』やら脅しみたいな言いようからして、『アイリス』がずいぶん嫌われているのが分かった。
(ところでこの人、誰?)
内心首を捻り、考える。
「恐ろしくて声も出なくなったのかしら? もしかして気になる? あなたを見合い相手にと希望してきたディオッド公爵家の血縁、若きライノーアル伯爵については、妹に譲ってちょうだい。ちょうどよく結婚の話が出たものだわ」
「そもそもお姉様より私に似合う人だものっ」
少女が女性に抱き着く。
「ええそうね、アンメアリー。あなたに相応しい好青年だわ」
見ていて品もなくて、ゲロゲロ言いたくなってきた。
早く退場したい。落ち着いて考え事だってできやしない。
そもそも先程から告げられている名前は、自分のものではないのだ。ずきずきと痛む頭を押さえてよろりと立ち上がると、何やら男が注意してきた。
「へたな演技はやめなさい。情けない。お前の母は頭は打たなかったのに、大袈裟だな」
つまり目の前で頭意外を打つのを、ただただ見ていたと?
(最悪だわ)
呆れてものも言えない状態で見つめ返すと、父と母に向かってその目はなんだと、少し動揺を見せて二人が何やらいろいろと言ってくる。
(これが両親で、あれが妹? 人違いよ。私の名前はアイリスではなくて『有栖』――うっ)
ずきんっと頭に猛烈な痛みが走った。
知らない記憶が頭の中へ一気に流れ込んでくる。
『うぅ、もう嫌……これ以上耐えられない……』
見えたのは、真っ赤な髪を背中でに波打たせた、ドレスを着た少女だった。そのドレスも赤のゴージャスなものだ。
(あっ)
彼女がアイリスだ、と直感した。
これまで従順で、虐げられ続けていた彼女の光景が怒涛のように頭の中に入ってくる。
『誰か、助けて……』
記憶の中の〝彼女〟は、苦しくてつらくて、もう限界だったのだ。
ガラスが割れるような音が頭の中で響いて映像が途切れる。
(ああ、もしかしてあなた――精神的に死んでしまったのね)
床に崩れた時に頭をしたたかに打った。ショックと、そして衝撃で、彼女はあの一瞬、本当に死んだのだ。
それはほんのわずかなことで、次に息を吸い込んだのは『有栖』のほうだった。
悟った瞬間、強い怒りが込み上げた。
「お姉様かわいそ~。獣人族って、迎え入れた家族以外は敵とみなす残酷な一面も持っている野蛮な種族なの。がんばってね?」
「アンメアリーいけません。いちおうは建国の種族として扱わないと」
少女、アンメアリーが「はーい」と答える中、父親のほうが続ける。
「お前が嫁ぐのは、すでに子を持った獣人族だ。覚悟しておくよう心構えをさせてくれる私たち両親の恩を覚えておきなさい」
冷笑をもらしそうになった。
(だからこそ私の名前を挙げたんでしょ? どれだけ嫌いなのよ)
でも、だからこそ彼らの前では弱い姿を微塵にも出したくないと思った。
強く見つめ返すと、三人が戸惑ったような空気を見せる。
「言いたいことはもう分かっています。説明もしかと聞きました。私が嫁ぎますので、どうぞお好きに追い出してくださいませ」
アイリスはドレスのスカートの片方をつまむと、大きく広げて一礼する。
不思議な感覚だ。この身体の令嬢が身に着けたことは、自分のものになっているらしい。
(私はあなたたちなんて怖くないわ。そして、このアイリスという令嬢を、不幸にする気だってない。私が解決する)
三人が「は」という感じで固まった。
それは愉快な姿で、アイリスはようやく口角が上がる。
「それでは、さようなら」
アイリスは三人に背を向けた。
結婚相手がよりによって『記憶の中のヴァルトクス大公』ということは気になるが、こんな家にいるよりマシなのは確実だろう。
◇∞◇∞◇
広大な領地を持つヴァルトクス大公の邸宅で、一人の呻きが上がった。
「俺が結婚? この状態で……!?」
二階にある書斎で、一人の高身長な美丈夫が書斎机から立ち上がる。淡い金髪がさらりと揺れた。室内にいた補佐官を見つめ返した目もまた、美しい金色だ。彼の肩からかけられている大きな漆黒のマントが背に流れていく。
それはヴァンレック・フォン・ヴァルトクスその人だ。
兄である国王から結婚が決まったという知らせを受けたところだった。
「……俺の補佐官、これをどう思う?」
「あなた様が感じておられるように――ただ『最悪だ』としか」
二人は視線を交わすと、同時にため息をもらす。
「おやめくだい。悪女と有名なお方でしたらのちの離縁もたやすいですし、陛下の配慮も感じます。気を引き締めていきましょう」
執事が励ますように言葉を挟んだ。
「ブロンズ、陛下の策なのは理解したが、正気か? 俺に隠し通せると思っているのか?」
すると二人は同時に口を強くつぐむ。
「……なぁ、お前たち?」
「はい」
「はい」
それぞれ二人がヴァンレックに答えた。
ヴァンレックは、疑い深い目で観察しながら、問う。
「この嘘を、吐き通せると思うか?」
二人が互いの顔を見合った。室内に、数秒沈黙が漂う。
「もうその沈黙がすべて物語っているっ。絶対に無理だっ」
絶望した声を上げ、ヴァンレックは頭を抱えて書斎の椅子に腰を落とした。
「旦那様、『ヴァルトクス大公』とあろうお方が、そのように情けなく取り乱してはなりません」
「まぁ、ギリ親子で押し通せそうではありますよね」
とはいえ『今後どうなるのだろう』と、二人の顔にも不安が浮かんでいることはヴァンレックも見ていた。
「俺は戦っているほうが楽なんだがなぁ……そのあとの考えについても、どうせまた陛下は俺に全投げするつもりなんだろうな」
恐れられているヴァルトクス大公は頭が痛い様子で呟いた。




