夜が朝を許すまで
夜が、落ちてくる音で目が覚めた。
音、というより圧力に近い。
空が低くなり、世界が静かに身をかがめるときの、あの感覚だ。
遠くで何かが終わり、同時に始まる。昼と夜の境界が、音もなく崩れる瞬間。
目を開けると、見知らぬ天井があった。
白い石で組まれた天井は、どこか水面のように揺らいで見える。視界を動かすたび、微かに波打つ。眠りから覚めきらない目が錯覚しているのか、それとも天井そのものが揺れているのか、判断がつかない。
呼吸をすると、冷たい空気が肺の奥まで滑り込んできた。
埃の匂いはなく、金属の気配もない。澄んだ、何も含まない空気だった。
「……ここは」
声に出した瞬間、違和感があった。
自分の声なのに、少し遠い。壁に反射する前に、空間に溶けてしまう。
身体を起こすと、簡素な寝台の端に腰掛けていた。
布は粗く、だが清潔で、身体を預けるには十分だった。長く使われているはずなのに、使い古された感じがない。時間が摩耗を許さない素材のようだった。
足元には磨かれた石の床。
冷たいはずなのに、触れても不快ではない。体温を奪うというより、もともと温度という概念が希薄なのだと感じる。
窓はないが、部屋は薄明るい。
夜なのに、完全な暗闇ではない。
部屋の隅に、小さな石が置かれていることに気づく。
拳ほどの大きさで、内部に淡い光を宿している。灯りというほど強くはない。ただ、闇が成立しない程度の光。
闇が成立しない。
その言葉が、妙にしっくりきた。
扉をノックする音がした。
返事をする前に、扉は静かに開く。
立っていたのは、人だった。
少なくとも、見た目は。
淡い若草色のノースリーブワンピース。布は柔らかく、身体の線を強調しない。縫い目が目立たず、装飾もない。流行や個性を主張しない服だった。
現代社会で見かける服とは明らかに違う。
けれど、この部屋には不思議と馴染んでいた。
肩口から覗く肌は白く、だが生々しさはない。
生きている人間のはずなのに、血の気配が希薄だった。
年齢はわからない。
若くも見えるし、ずっと同じ場所にいたようにも見える。時間の流れから少し外れた人間の顔をしていた。
「目が覚めた?」
声は低すぎず、高すぎず、耳に残らない。
それなのに、意味だけは正確に届く。
「……ここは、どこですか」
そう尋ねると、その人は少しだけ首を傾げる。
考える仕草ではなく、言葉を選ぶための間。
「境の内側。あなたたちの言葉だと、異世界、かな」
ああ、と思った。
そういうやつか、と。
混乱はあった。でも、叫ぶほどではない。
現実がずれる感覚は、仕事で何度も味わってきた。昨日まで正しかったことが、今日には否定される。理由は説明されない。決定だけが下りてくる。
それに比べれば、異世界という単語は妙に筋が通っていた。
「帰れますか」
「帰りたい?」
問い返されて、少し考えた。
帰りたいか、と聞かれて、即答できない自分に気づく。
帰る場所はある。生活も、仕事も、未読のメッセージも。
「……できれば」
「なら、方法はある」
即答だった。
その即答が、なぜか胸に引っかかった。
迷いがなさすぎる。こちらの感情を量らない返事。
――――――――――
その人は、案内役だと言った。
名前も名乗ったが、うまく耳に残らなかった。音は覚えているのに、形が定まらない。覚えようとすると、指の間からすり抜ける。
「覚えなくていい」
そう言われた気がしたが、はっきりとは思い出せない。
世界は、静かだった。
白い石の建物が並び、細い道を風が抜ける。足音は響かず、街全体が音を吸い込んでいるようだった。どこかで金属が触れ合うような、澄んだ音が鳴っている。それが何の音なのかはわからない。
人はいるが、騒がしくはない。
皆、夜を待つように昼をやり過ごしている。
「ここでは、夜のほうが長い」
歩きながら、その人は言った。
「夜になると、みんな少し正直になる」
「昼は?」
「昼は、嘘が上手」
なるほど、と曖昧に相槌を打った。
昼の街は整っていた。
感情の起伏が少なく、すべてが均されている。笑顔はあるが、深さがない。怒りは見えず、悲しみもない。
それは平和というより、摩耗の結果に見えた。
夜になると、それが少し変わる。
建物の隙間に影が落ち、光の石が灯り、人々の歩く速度が遅くなる。声は小さくなるが、言葉は正直になる。言い淀みや、言い直しが増える。
その夜、初めて名前を呼ばれた。
「……はる」
驚いて振り返る。
「どうして、名前を」
「聞いたから」
「いつ」
「夜に」
理由になっていないのに、不思議と納得してしまった。
この世界では、それで十分なのだろう。
それから、夜になるたびに名前を呼ばれた。
昼間は「あなた」。夜だけが、名前を許す時間だった。
彼女の部屋は、帰る場所になった。
低い位置に作られた窓。座ったまま外を眺められる高さ。外には街の灯りが見え、夜の気配が流れ込む。
椅子は二脚。
どちらも同じ造りだが、ぴったりとは並ばない。少し間が空いている。その距離が、心地よかった。
夜になると、あの光の石が自然に灯る。
暗闇を拒むほど強くはない。ただ、完全な闇にならない。
「眠れない人のため」
彼女はそう言った。
一緒に食事をし、歩き、何もしない時間を過ごした。
会話は多くない。沈黙が苦にならない。
気づけば、笑っていることが増えていた。
理由はない。ただ、彼女が隣にいると、夜が少し軽くなる。
この世界では、感情が形を持つ。
強く思えば空気が揺れ、未練は重さになり、執着は呪いになる。だから人々は感情を慎重に扱う。
彼女もまた、その世界の住人だった。
それでも、部屋は彼を迎え入れていた。
使われないまま置かれている椅子。
長く滞在する前提で作られた空間。
恋だと気づいたのは、言葉のない瞬間だった。
彼の呼吸が乱れた夜、彼女は何も言わず隣に座り、自然に呼吸を合わせた。
吸う。吐く。
同じリズムで。
身体が先に寄り添ってしまった、その一瞬で理解した。
ここにいたい、と。
――――――――――
「帰る方法は、いつでも使える」
ある夜、彼女は言った。
「でも、使えばここでの記録は消える」
「……あなたは?」
「私は、残る」
「覚えていられる?」
一瞬、言葉が途切れた。
「それは、約束できない」
夜が、いつもより長かった。
――――――――――
別れの朝は、あっけなかった。
空は高く、光は白い。
彼女は名前を呼ばなかった。
「行く?」
頷く。
最後に何か言うべきだったのかもしれない。
でも、言葉は浮かばなかった。
彼女の指が、彼の袖に触れかけて、掴み損ねる。
それが、この世界で彼女が見せた、唯一の感情だった。
光に包まれ、視界が反転する。
――――――――――
次に目を開けたとき、見慣れた天井があった。
自分の部屋だ。時計は、眠った時刻から一分も進んでいない。
世界は、何も覚えていない。
それでも夜になると、理由もなく椅子を一脚多く置いてしまう。
そこに座る名前は、もうどこにもない。
ただ、夜だけが、その席を空けておく意味を知っていた。
初めてオリジナルのファンタジー恋愛小説を書きました。
ガッツリ恋愛もの、というよりはほのかに芽生えた友愛と呼ぶには少し違うけれど、愛情とよぶには熱量が足りない関係が好きなのでそれを目指してみました
あなたの日常にほんの少し彩りを加えられたなら幸いです。




