虹の流線
那須に空き家を買った。べつに田舎の暮らしに憧れた訳ではない。ほとんど衝動的に、つまらない現実から目を反らしたかったからである。
半年前に仕事を辞め、僕はちょうど人生の路頭に迷っていたのだ。できれば今後、働きたくなかったし遊んで暮らしたかった。
そこでふと思い立ち、格安で空き家の取引を行うサイトを覗き、売り主と直接話をつけたのだ。
保険や税金でいくらか出費はかさむし、昨今の空き家問題を鑑みれば、我ながら軽率な判断だったと言わざるを得ない。
しかし僕は決して後悔していない。先ほど現実から目を反らしたかったからと言ったが、それは半分は合っているようで、もう半分は間違えだ。これは生まれ変わるためとか、今までの自分と決別するためとか、早期リタイアで、田舎でのんびり暮らしとか、そういう考えで行動したのではないからだ。
では何のために僕がこのような、田舎に空き家を買う、という決断を下したのかというと、他でもない。『虹の流線』を見るためだった。
あれは以前、友達とこの近辺に旅行に来た時のことだった。黒磯駅からバスに乗って30分、さらにそこから歩きで45分。秘湯と呼ばれている界隈じゃ有名な温泉宿に向かう途中だった。わりと山奥の、雑木林と田畑の境くらいで、友達は突然叫んだのだ。
「勢登くん! あれを見ろ!」
山岸が指差す方向に、それはあった。
甚だ信じられる光景ではなかった。おおよそ神秘体験と呼べるほどの凄まじい現象だった。
虹が浮いていた。
まるで生き物のように、それは、うねり、七色に輝き、森の木漏れ日の中を泳いでいた。
麗らかな涼しい春の日差しが、新緑の森に反射して輝いている。雨上がりの土の匂いも香っている。のどかな田舎道での衝撃的な光景に、僕は目を見張った。
ブロッケン現象ではない。それは明らかに意思を持って動いていた。生物に近いのかもしれない。
山岸に話しかけようとしたが、うまく口が開かず、そのまま呆気にとられていた。すると彼が写真を一枚パシャリと撮影した。まるで作業のように、彼は眉間にシワを寄せながら撮れたものを確認した。
「勢登くん、映ってないよ」
残念ながら、こうした神秘は画像としては納められない代物のようだ。やはり怪奇現象か、もしくは僕が知らないだけで、そういう自然現象が実在するのか。
しかし自然現象にしては、あまりにも艶やかな動き、まるで美しい魚が泳いでいるかのような挙動であった。そこで僕は直感したのだった。この虹の中には女神様が存在している、と。
即興で『虹の流線』と名付けたその奇妙な現象は、いつまでたっても僕らの目の前から消えることはなかった。いつまでも、こうして見ている訳にはいかなかった。宿のチェックインの時間もあるので、僕らは悔しいがその場を見納めた。
虹の流線から遠ざかる間も、なんだか女神様に呼ばれているような気がしていた。それは言葉には表現しにくかったが、心に直接語りかけてくるような不思議な感覚だった。
宿に着いてからも、あの虹の流線の光景が目に焼き付けられて離れなかった。もう一度あの奥深くに佇んでいるであろう女神様の存在を感じたいと思った。
それ以降、あの神秘を目にしたことはなかったが、何か予感めいたものがあり、衝動的に行動した。これから田舎暮らしが始まるのである。
とは言ったものの、収入がなければ生活もできない。バイトの貯金があるから、かろうじて数ヵ月は持つだろうが、それ以降のことは全く頭にない。漠然と、あきらめて実家に帰るという選択肢が目に見える。
しかしそんなことよりも、もっと肝心なのは、僕が再びあの虹の流線を見られるか否か、だ。
それ程までにあの姿は素晴らしかったし、全てを投げ出しても虹の流線と共に過ごしたいと心から思っている。
さて、ある程度の家具を揃えインターネットを引いたなら、案外やることがない。部屋の数も多いだけで使わないし、日中はパソコンに張り付いてどうにかネットビジネスができないかと模索している。
今日は晴れている。空気も良さそうだ。僕は部屋のカーテンと窓を開け、新鮮な空気を取り入れた。
清々しい春の匂い。暖かい、天使の温もりのような気候に僕は大きく息を吸い込んだ。
その時だった。僕は突如として、ドキンと胸の高鳴りを感じたのだった。
それはとても心地よい、まるで初恋のようなときめきであり、かつ何かを成し遂げた後の達成感のようでもあった。
空に虹が掛かっている。無論、一般的な虹ではない。
「虹の流線だ」
気付いた時には家を飛び出していた。
あの虹の向こう側に、女神様がいる。
女神様がいて、僕を歓迎して待っている。
きっとそうだ。これは運命だ。
虹は、やはり生物のような動きを見せていた。
魚のよう、あるいは龍のような動き。
その艶やかな動きと七色の煌めきで、僕を誘っているのだ。ああ、早く虹の奥に飛び込んでしまいたい。
急いでいたとはいえ、僕は靴を履くことを忘れない。走りやすいスニーカーを履くことを忘れない。
もし裸足で飛び出していたら、足を怪我するに違いない。そんなことがあってはならない。準備を万端にして、虹の流線に向かうのだ。
虹の流線の本体は、どうやらそう遠いところではないらしい。靡いている流線を辿って、ようやく中心部のより輝きを発している箇所にたどり着く。
僕はそこで、恐るべきものを目にしたのだ!
虹の流線の、いちばん中心部の、とりわけ光輝いている美しい部分。そこには、女神様がいたのだ。
女神様には手が八本もあった。上半身裸であり、腹には大きな口があった。顔は美しかったが、二本の八重歯は顎のほうにまで伸びていて鋭かった。
そこで直感したのだ。僕は女神様に補食されるのだ、と。虹の流線は人を引き付けるための罠であると。
しかし、それでも構わなかった。僕は喰われても良いと思った。あれほど魅力的な挙動を見せている不思議な存在。その中心部に存在する美しすぎる異形。
彼女は美しかった。腹にある巨大な口も、牙も、八本の腕も、その白い素肌も、全てが美しかった。
だから喰われることは最高の喜びなのだ。
僕は洗脳されているのかもしれないが、これほどまで素晴らしい幸福があるのなら、むしろその方が良いと本気で思った。
僕は虹の流線の中心部に足を踏み入れた。
あれは異世界からの使者だ。
別の世界から、次元を跨いでやってきた人間よりも上位の捕食者だ。
補食対象は、虹の魅力に取りつかれ、精神と脳に異常をきたす。そして喰われることを最高の喜びと考えるようになる。
その通りだ。今僕は、虹の女神様の腕の中にいる。
細く白く美しい、八本の手足に捕らわれて、
虹の幻想に包まれて、
僕の人生は、幸福の絶頂の真っ只中で、
暗転