天使の声を持つ聖女様が異世界から参られましたので、私はASMR作品を作って配信することに決めました。
間に合わなかった……。
それが分かった瞬間に膝から崩れ落ちた。
”悪魔の大口”と呼ばれる奈落の崖に集った魔族たちが奇声を上げ続けているが、それは喜ばしいことがあったからだと言葉の通じぬ人間にも伝わってくる。
生贄がこの永遠に続くような闇の中に捧げられたのだ。
その虚空を見つめながら、たった今、何が失われたのか思い出していた。
あの日、復活した魔王を封印するのに絶対に必要な聖女──アリアに対して「貴女のことは私が命に代えてもお守りします」と誓いを立てた。
しかし、彼女は「ダメです」と拒否した後にこう続けた。
「騎士様としてではなく、同じ女性の親友として私に接してくださいませんか? そして大切な親友ですから、命を捨てるようなことはしないでください」
そう言われて最初は戸惑いながらも、アリアの屈託のない笑顔や思いやりに触れていくうちに、考えを改めるとともに、段々と親友以上の思いを抱き始めていった。
護衛を初めて数か月後のことだ。
近くで行商人たちが市を開いていることを聞き及んだアリアにせがまれて、人目を盗んで二人で出かけた。
……今にして思えば、こんなことをしなければ。
市には異国から集められた初めて見るような品物や動物が二人の目を楽しませた。
アリアはふと、雑貨屋の前で足を止めると遠い異国の物だという小さく丸みを帯びた鈴を手に取った。
その時に鈴から響いた流麗な音を聞いて自然と思ったことを口にしていた。
「──まるでアリアのようだ」
柄にもないことを言ってしまい慌てて言い繕うとしたが、アリアはこれまで見た中で一番の笑顔を向けて一言呟いた。
「嬉しいです……」
その言葉を聞いて内心舞い上がってしまったが、照れ隠しもかねてその鈴を買うことを提案すると、アリアは二人で一つずつ持とうと言うのでそうすることに決めた。
「大切にします」
鈴を愛おしそうに握りしめた笑顔──それが彼女との最後の記憶だった。
気づいた時にはベッドの上にいた。
何かの衝撃で気を失ったのは辛うじて分かっていたが、医師から事の顛末を告げられて愕然とした。
市に向かって無差別な魔法攻撃が仕掛けられていたのだった。
混乱の最中、アリアは行方知れずとなり、自分は情けないことに昏倒していたところを医療所に担ぎ込まれた。
それから懸命の捜索と情報収集により、アリアはここ悪魔の大口で生贄にされることが分かり救出に向かった──。
しかし、すべてが遅かった。
生贄の儀式は終わりアリアの姿はそこにはすでに無かった。
呆然とする中、鈴の音が聞こえた。
救出作戦中に鳴らないようにしていたはずの自分の鈴がいつの間にか鳴るようになっていた。
胸元からそれを取り出すとそれまで抑え込んでいた感情が溢れ出してきた。
名門の騎士としてどんなに辛い鍛錬や試練にも表情一つ変えずにいたため”石像の女”とも呼ばれてきたが……。
女性騎士──シンシアは生まれて初めて涙を流した。
※
アルバイトからの夜の帰り道、由衣那は自転車を漕ぎながらこれからの”計画”の算段をつけていた。
自分の理想とする物を創り出そうとするのならば妥協はしたくないと思ってはいたが、いかんせん高校生の身の上である以上はできることは限られていた。
まずは金銭面の問題だが、それをある程度克服するために始めたのが今のカラオケ店のアルバイトだった。
しかし、そこでアルバイトを始めた理由は少し特殊なものだった。
カラオケには歌うのが目的ではなくて”収録”ができないかと思って色々と調べていると、防音設備どころかコンデンサーマイクまで完備の個室があるお店が割と近くにあったので興味本位に行ってみた際のことだ。
その個室で色々試してみて環境に満足して退店する間際、受付で従業員の女性が声をかけてきた。
「君さ、ここでアルバイト、してみない?」
独特の区切り方をする口調が強い印象として残る女性──聞けばこの店の店長だった。
「実はさ、最近バイトの子が辞めちゃって、すごく困ってるんだ」
そう言われても……突然の勧誘に当然のこととして戸惑った。
喋り方や雰囲気からも警戒感を抱かずにはいられなかったので、もちろん断ろうとした時だ。
「あの個室を使うお客さんってさ、何か目的を持って使っている人が多いんだよね。もちろん、ただ一人で歌いたいとか歌う練習がしたいって人もいるけど、大抵は”何かを生み出したい”目標がある人が使っている」
それを聞いて鼓動が跳ね上がった。事実、自分もそれが目的だったからだ。
「そういう人たちを応援したいと思って作ったのがあの部屋なんだ。もし、君もさ、何か目標があるなら、それでうちでバイトしてくれるならさ、あの部屋をいつでもフリーで使わしてあげるよ」
何かに惹かれるように、即日この店でアルバイトをすることを決めた。
そうして始まったアルバイト、何カ月かするとバイト代はまとまった金額になってきていた。
これだけあれば機材の選択肢が大分広がり、できることも多くなるのだが……。
「やっぱり一番の問題点は”声”だよねぇ……」
試しに自分で声を当ててみて分かった大問題がある。
──滅茶苦茶恥ずかしい。
誰かに聞かれている訳でもなく一人で演じているのだが、その状況に悶絶してしまう。
そんなことをせずとも、専門の依頼サイトで声優さんに1文字数円程度で声を当ててもらうこともできる。
しかし、自分の目指しているものはいわゆる同人販売サイトで展開されているようなストーリーがあって、それにプロの声が当てられた作品ではなく、どちらかというと動画投稿サイトで多く見られるロールプレイやもっと身近でリアリティのあるものだった。
「まあ、良い声であるに越したことはないんだけど」
結論の出せないことにため息を出しつつ家路を急いでいると、住宅街の街並みには似つかわしくない鬱蒼とした森林に差し掛かった。
何でもこの場所は儀式用の遺跡が見つかったとかで、文化財の保護を名目に開発が制限されたことからここは時代に取り残されたような地帯になっている。
店長からも”曰く付きの場所”と教えられていて正直こんな場所の近くは通りたくはないのだが、家からバイト先に行くには近道になってしまっているのだからしょうがない。
いつもここでは意識はせずとも自然とペダルを踏む力が強くなる。
しかし、漕いでいた足が硬直してしまった。
ありえないものが聴こえてきたからだ。
微かにだが、でも何故だかしっかりと耳を捉えてくる。
──歌声だ。
遺跡のある方から、木々の闇を縫って自分の元に届き、思わずそちらに目が行ってしまう。
場所が場所だけに背筋が凍る。
だがなぜだろう、この声に惹かれるものがある。
不可解な現象に対して恐怖よりも興味が勝ってしまっている。
いつの間にか自転車を路肩に置いて、その声が何なのか確かめるために林の小道に入り込んでいた。
未だに歌声は止まず、そこに向かってしばらく歩いていると開けた場所に出た。
あまりに幻想的な光景に息を呑む。
そこには白銀の髪を携えた女性がいた。
三つ編みに束ねたロングテールをサイドに下し、それを両手で握りしめている。
西洋人形のように整った面輪を差し込んでくる月明かりに向けて僅かに口を動かしている。
その歌声の主を見て惹かれた理由を本能で納得させられる。
宗教画に表現された聖母はこのような人を想像して描いていたのだなと何となく思った。
しばし呆然としながら彼女の浮世離れした顔を見つめていて気付いた。
流麗な輪郭に沿って雫が滴っているのを。
なぜ涙を流しているのか、いたたまれなくなって思わず声をかけてしまった。
「あの……」
驚いた彼女はありえないものを見てしまったかのような顔をこちらに振り向けた。
その時の思わず身構えてしまうしぐさに小動物のような可憐さも感じ取りながらこう思った。
──まずい、外国人だ。
こんな場所に服装も今風とは見えない西洋人と思しき女性がいる何が何だかわからない状況だが、今更になってちゃんと意思疎通ができるのだろうかと心配になった。
正直高校での英語の成績はお世辞にも良いものではなかったので不安に拍車がかかる。
「えーと……ここで何をしているんですかってなんて言うんだっけ……」
お互いの沈黙状態に耐えかねて独り言のように呟くと意外な反応があった。
「ここでですか……? そもそもここはどこなのでしょうか……?」
「ええっ! 日本語が喋れるんですか!?」
「ニホンゴ? ……どうしてなのかは分かりませんが、私たちは話している内容がお互いに理解できるようですね」
傍目から見ると何とも不可思議な会話をしているが、とりあえず言葉が通じることに安堵し、ひとまず言語の疑問は置いといて質問を続けた。
「あのー、そうですね……あなたはどちらからいらしたのですか? 失礼ですが同じ国の人とはとても思えなかったので……」
「私がいた国は……というより”世界”は、ここでないことは確かです……」
それを聞いて何を言っているのか理解できなかったが、彼女は歌っていた時と同じように月を見上げた。
「私のいた世界の月は、もっと冷たい色をしています。こんなにも明るい色をしているのは見たことがありません。……私は元いた世界で生贄として捧げられるために奈落の底に落とされました。暗闇に飲まれ意識を失った後に気づくと、私はここに横たわっていました。月も違う、あなたのような姿の人も見たことがない、だとすればここは私の知らない別の世界だと思うんです……」
「うーん……」
一転してまた不安が込み上げてきた。
あまりにも言っていることが浮世離れしているので困惑を隠せない。
それに気づいたのか彼女は釈明した。
「……ごめんなさい、こんなことを突然言われても信じることはできませんよね……。ただ、私もどうしたら良いのか分からないんです……」
うつむいて悲しげな顔をし、胸元で合わせた両手は震えている。
その姿を見て、噓を言っているようには窺えず、かと言って何と言葉をかけたら良いのか戸惑っていると、彼女は由衣那の手元を見て何かに気づいたのか答えた。
「この世界に魔法はありますか? ……証明になるかは分かりませんが、その手の傷を見せてください」
言われて気づいた。自分の右手の甲を見るとできたばかりの擦過傷が一筋できていた。ここに来る途中に枝か何かにひっかけたようだった。
彼女は由衣那に近づくと、そっと傷のある手を取り両手で包み込んだ。
それだけでも同じ女性同士なのに胸の動悸が速まるのを感じたのに、さらに彼女はお互いの頬が触れ合うほどの距離に横顔を寄せてきたため鼓動が跳ね上がった。
何をするのかと硬直していると、耳元に囁くような声が届いた。
── 汝の身に棲む精霊たちよ、目覚めてこの傷を癒し給え ──
この時の衝撃は生涯忘れることはないだろうと由衣那は思った。
彼女の声がそのまま自分の体を支配してしまうような言いようのない感覚。
それでいて暖かく、心地よく、包み込まれる。
どれほどの時間が経ってしまったのか──実際には数秒に満たないはずだが、時間の経過が麻痺している。
気づけば彼女は由衣那から体を離していた。
温もりのなくなった手を見ると、そこにあったはずの傷は消え失せていて前からこのままだったようだ。
奇跡のような現象に対して感動に居たたまれなくなる。
「あの……」
それ故に自然と次の言葉が出てきてしまった。
「一緒にASMR作品を作りませんか!」
こいつは何を言っているんだろうと自分自身でも思った。
※
「ものすごく今更なんですが、お名前をお伺いしても……?」
由衣那は彼女を連れ立って自宅へと向かっている。
聞けば行く当てがないとのことなので連れていくことにしたのだった。
「はい、私の名前はアリアと申します。よろしくお願いしますね」
「アリア……名前の響きがすごく似合ってる」
「ありがとうございます! 私もこの名前は大好きです。では、あなたのお名前は?」
「あっ、私は由衣那って言います。漢字で書くと……って漢字の概念はそっちにはないか」
「カンジ……は確かに分かりませんが、ユイナさんも名前の響きが良いですね!」
笑顔で答えてはいるが内心は不安でしょうがないだろうなと思う。
こんなことは普通に考えれば警察などに相談するところだが、さっきの”体験”をしてしまったら別の世界から来てしまったのは信じざるを得ない以上、公的機関に相談してどうにかなるものとは個人的には思えなかった。
だから高校生の自分には大層なことは何もできないけど、由衣那が保護しようと考えたのだった。
そんな心配をよそに、アリアは物珍しそうに周りを見渡している。
街並みや見るものすべてが新鮮そうに目を丸くしていて、特に気にしていたのは由衣那が押してきている自転車に対してだった。
「その車輪が付いている機械? は何でしょう?」
「あーこれは”自転車”っていうやつで、人が走るよりも早く走れるんだけど……実際にやってるとこを見せたほうが早いか」
由衣那はそう言うと自転車に跨って走る姿を見せてみた。
戻ってくるとアリアは目を丸くして驚いた顔をしていたので、自分の手柄でもないのに何だか得意げな気分になってしまった。
「どうかな? やっぱり驚いた?」
「はい! 人の力だけでこんなに早く走れるなんて、すごく不思議な機械ですね! これはどういう仕組なんですか?」
「……あ、えーとそうだな……ごめん、さすがにそれはどう説明したら良いのか分かんないや……」
アリアは「どうして?」という顔をしているが、よくよく考えてみたら自分の身の回りには仕組みが良く分からないけど、携帯電話などのように使いこなしているものがたくさんあるなと気付かされる。
「アリアのいた世界には”魔法”ってやっぱりあるの?」
「あります! 色んなことができて便利ですよ。お料理に使ったり、お掃除したり、人を癒やしたり……その逆に人を傷つけることもできます」
最後に声色が低くなったことで、向こうの世界での色々な事情が察せられた。
アリアの顔からもさっきまでの明るさが無くなってしまったため、敢えてそこには触れず重ねて質問をした。
「その魔法ってどうして使うことができるの?」
「私はお母さんから教わりました。人によっては使えない人がいるみたいで、使える人の方が少ないそうです。使える人によっても魔法の種類で適正があって、ちなみに私は治癒魔法が得意なんです!」
「さっき私の手を治してくれたのはそれだったんだ。すごい不思議だけど、どういう仕組みなんだろう……?」
「仕組みですか……? 確か詠唱によって体の中のマナが反応して……うん、私もユイナさんと同じでどう説明したら良いか分かりません!」
お互いに笑い合って、ようやく打ち解けあえてきたかなと感じたところで家が近くなってきたことに気がついて懸念点を思い出した。
「あっ……そういえば和佳那にはアリアのことをどう説明しよう……」
「ワカナとは誰ですか?」
「私の妹」
「妹さんがいらっしゃるんですね。妹さんに会うのも楽しみです!」
さてどうしたものか。
最近の和佳那は少しばかり”不安定”な状況にあった。
高校受験を控えた中学3年生の和佳那。
塾にも通いだして志望校合格を目指して勉強しているのだが、我が姉に似て学力は中の中といったところで、合格率を測る診断テストでも芳しい結果は出ていないそうだ。
そんな訳で最近はあまり寝られていないようで精神的に参っているようだった。
両親はどうしたのかと言うと、只今絶賛海外旅行中である。
愛娘の一人が受験ですり減らしている時にいかがなものかと正直思うが、両親的にはプレッシャーを掛けないようにするために敢えて放任しているらしい。
自宅に着くとまず、2階の和佳那の部屋の明かりを確認した。
「明かりが付いてるってことはまだ起きてるな……」
時刻は22時を過ぎた当たり。
まだ起きていても何ら不思議ではない時間だが、できれば寝ていて欲しかった気がしないでもない。
「どんな反応をするか想像もつかないな……」
「驚かしてしまいますかね……?」
当然まずは驚くだろうが、その後が問題だ。
下手すれば大事になるかもしれない。
そんな不安を抱えたまま玄関のドアを開いた。
「ただいまー……」
いつもなら由衣那がアルバイトから帰ってきても部屋から出てくることはないはずなのだが、今日はどういうことか2階から降りてくる気配があった。
「今日に限ってなんで!?」
「ええっ、何がですか?」
アリアは家の中を興味深そうに見渡しているが、こちらはそんな悠長な気持ちではいられない。
自分の計画では和佳那の様子を見てからアリアを紹介しようと考えていたのだが、どうやらぶっつけ本番でご対面となりそうだった。
「おかえりーお姉ちゃん。ちょっとさー……」
こちらと目が合い、階段の途中で固まるパジャマ姿の和佳那。同様にこちらも固まる。
「……え、そっちは誰? 外国の人? なになにどういう……」
「あっ! 初めまして、ユイナさんの妹さんのワカナさんですか? 私はアリアと言います!」
「日本語が喋れるんですか!?」
同じ返答をするとはやっぱり共に時間を過ごしてきた姉妹なんだなと、奇妙な納得をしていたがそれどころではない。
「和佳那、ちょっと落ち着いて聞いてほしいんだけど、こちらのアリアさんは色々な事情があって住む場所が無くってさ、とりあえずウチに泊まってもらおうと思って連れてきたんだけど……」
「えっ……普通はまず警察とかに連絡するもんじゃないの?」
ごもっともです。
脚色なく伝えたら皆んな普通はそう考える。
「その……アリアさん……? は、どこの国の出身なんです……?」
和佳那のその質問への回答には窮せざるを得ない。
「異世界から来ました」では納得するどころか疑念が深まるだけだろう。何しろ今でも由衣那自身が半信半疑なのだ。
一先ず、ぼやかしたことを言って誤魔化すことにする。
「アリアさんは確かヨーロッパあたりの出身じゃなかったかな……? 私もあんまり聞いたことがないような国名だったような……」
「ユイナさん? ”よーろっぱ”って何ですか?」
せめて小声で訊いてほしかった。
アリアの発言を聞いてしまった和佳那がさらに怪訝な顔をしている。
何だか色々と面倒になってきた。
いっその事、ヤケクソでこれまでの経緯をぶちまけてしまおうと決意した。
「あーもー! 本当のことを言うね! たぶんそれを聞いても信じらんないと思うけど、バイトからの帰り道で何か良く分からない遺跡があるでしょ? そこに何故かアリアがいて、話を聞くとファンタジーな異世界から来たっぽくて、その証拠に私の手の傷を魔法で治しちゃってこれは信じるしかないなって思ってさ、最初はさ、私も警察に連絡したほうが良いかなって思ったんだけど、どうせ警察にも信じてもらえないだろうからウチに連れてきちゃいました!」
半ば逆ギレ気味に伝えたら、そうなるだろうな思った通り、和佳那はぽかーんと口が半開きで言われたことを飲み込めずにいる表情だった。
なので、ここぞとばかりに話題をすり替えて一旦アリアを連れて家に上がり込んでしまおうと画策する。
「そういえばさ、和佳那はどうして今日は私が家に帰ってくるとすぐに降りてきたの?」
「……えっ、それはその、何だっけ……あー思い出した。眠れないからお姉ちゃんにおすすめのASMR動画を教えてもらおうかなって……」
意外な返答に思考が止まる。それまで和佳那が由衣那の”趣味”に関心を寄せるようなことを言った機会がなかったからだ。
思いもかけぬことに、さらにアリアが追い打ちをかける。
「あっ、私を連れて行ってくださる時にも仰っていましたが、その”えーえすえむあーる”とは何のことなんですか?」
自分の小っ恥ずかしい行いを思い出させられるわ、質問が渋滞して何から答えて良いのやらで困り果てた。
それでも何とか気を取り直して、まずはアリアの質問から答えていくことにする。
「えっとね……ASMRというのは、人って何か作業をしている音とか、囁き声とかを聴いていると気持ちよくなる作用が働くみたいなんだけど、それを娯楽化したものがASMRって感じかな?」
説明が抽象的だったのか、アリアは首を傾げている。
「うーん、アリアにも分かりやすく言うと、”子守唄”ってそっちの世界にもあると思うんだけど、子守唄を子供だけでなく大人でも誰でも皆んなで楽しめるものにした……って言えば何となく分かる?」
そう言われて何か思い当たる節があったのか、両手を叩くように合わせて目を輝かせた。
「それなら分かる気がします! 私も小さい頃はお母さんの歌やお話が大好きでした! それを真似するようになって近所の子供達をあやすようになったら村の中で評判になったんです。歌も喜んでもらえていたのですが、それがいつの間にか近くの大きな街の方にも伝わっていたようで、いつしか私のことを”天使の声を持つ聖女”と大げさに呼ぶ人たちまで現れて……」
最初は明るさを持っていたアリアの声は、話が進むに連れて日が沈むように暗さを帯びていった。やはり、向こうで辛いことがあったのだろう。
どう励まそうかと考えていると、ここでも意外にも話を置いてけぼりにされていた和佳那が声をかけた。
「あの……図々しいことをお願いしてしまうんですが、私にもその歌やお話を聴かせて頂けますか……? 明日は診断テストがあって早く寝なきゃいけないのに全然眠くならなくて……。アリアさんに寝かしつけてもらえれば異世界がどうとかいうのも信じられるかも……」
おずおずと和佳那は顔を赤らめながらアリアに伺いを立てている。
それを聞いて最初アリアはきょとんとした顔をしていたが、すぐに笑顔になった。
「はい、それではやってみましょうか! ……あっ、ユイナさん、勝手に決めてしまいましたがよろしいですか?」
「ちょっと待って、私も寝る準備をしてくる」
帰ってきたらまずお風呂に入ろうと思っていたが、アリアの子守唄が聴きたい欲望が勝った。
しかし、アリアが夕飯も食べていないし、あんな森の中にいたのを思い出し、お風呂に入ることなどを勧めたのだが、和佳那の信頼を得ることが先決だという言葉に甘えて、リビングで3人で寝る準備を整えた。
「どうしましょう? 何をお聞かせしましょうか?」
「子守唄も良いけど、そっちではどんな定番のおとぎ話があるの?」
由衣那はアリアが暮らしていた世界の文化的なものが知りたくなってそうリクエストした。
「そうですね……”3人の妖精”というお話は母から良く聞かされました。マナの扱いに絡んだお話なので、魔法を使う心得を伝えることも兼ねていたんだと思います」
俄然興味が湧くテーマだった。興奮して寝られないのではと逆に心配になった。
「それでは初めますね……森の奥に住む3人の妖精はそれぞれ違う家に住んでいました……」
話が始まってすぐ、耳が幸福で包まれた。言葉の一つ一つが”癒やし”に変換されて頭に浸透していく感覚。抗うことができないほど瞼が重くなってくる。
”天使の声を持つ聖女”とは、何も大げさなことじゃないなと思ったところで意識が途絶えた。
※
朝の目覚めは最高に良かった。
和佳那もご満悦の結果で、もう一人の姉として一緒に住んで欲しいと懇願するほどだった。
土曜の朝の諸々を終えて和佳那をテストに送り出すと、アリアと今後について話し合うことにした。
「アリアについて相談できそうな人が一人思い当たるんだけど行ってみる?」
「はい、ユイナさんがそう仰るのなら」
アリアに由衣那の私服を着させると早速バイト先に連れ立って向かった。
店につくと、バイトの日じゃないのに来た由衣那を不思議そうに迎えた店長にアリアを紹介した。
「昨日帰りにあの遺跡で知り合いになったアリアさんです! 訳あってウチに泊めることになったんですが、個人を証明できるものとかなくて店長のお力添えをいただきたく……」
ぶっ飛んだ話を突然されても一切動揺しない店長は、アリアをじっと見つめて暫し考えた後。
「アリアちゃんもウチで働いてくれるなら良いよ。色々と”ツテ”もあるし」
「良いんですか! ユイナさんと一緒に働けるのなら嬉しいです!」
思いのほか話がトントン拍子に進んで良かったが、”ツテ”が気になって店長の背後関係ついてはあまり詮索しないほうが身のためだとも感じた。
とりあえずアリアの生活基盤は整ったので、由衣那は店に来たついでとばかりに、アリアに提案をした。
「えーと……アリアに一つお願いをしたいんだけど?」
「何でしょうか?」
「アリアの声でASMRの収録をしてみても良いかな……?」
「しゅーろくとは何ですか?」
「こちらの世界だと声を機械に記録して世界中に公開する術があるんだけど、ぜひアリアのこの癒やしの声を皆んなに聴いてもらいたいなと思ってさ……?」
「そんなすごいことができるんですね……。これからはユイナさんのお宅でお世話になりますし私は良いですよ?」
「本当に!?」
店長に許可を取り、喜び勇んであの個室に連れて来ると、持ってきていたノートPCを持ち出して準備を始めた。
「壁から伸びているこれは何ですか?」
「それが声を拾うマイクという機械。手前に付いてるのはポップガードっていう吐いた息とかを拾わないようにする物ね」
通常時はコンデンサーマイクの配線先はカラオケ機器となっていたが、ここにはオーディオインターフェイスが設置されていてマイクの接続をここにスイッチすることができ、さらにPCへと繋げて録音することが可能となっていた。
PCで録音する準備が整うと、次にアリアとどんな内容を収録するかの打ち合わせを始めた。
「ASMRには色んな種類があるんだけど、例えば耳かきする音とか生活音とかをいわゆるトリガーにするものや、今回のようにアリアの声を活かす声主体のも多いね」
「でも、一体何を喋ればよいのか……」
「うーんそうだね……台本も何も用意してないから、昨日話してくれた”3人の妖精”を朗読してもらえる? 実際、絵本を朗読するASMRもあるし」
「分かりました。皆さんの心に響くように精一杯お話しますね!」
アリアは真剣な表情で両手にグーを作って頑張るポーズをしているが、本人の気持ちとは裏腹にこっちには愛らしい少女に見えてしまった。
「あー、それと何かアリアのASMRでは定番というか、シンボル的なものを入れたいなー……」
フラッシュアイデアだったが、この発想にアリアは何か思いついたのか由衣那にこう切り出した。
「この鈴の音を入れてみても良いですか?」
どこに持っていたのかアリアの手には鈴が握られていた。
※
心臓が張り裂けそうな気持ちでアップロード公開した。
数時間してチェックすると流石に再生数は数十程度だったが、それに対して異様にコメントが付けられていた。
”普段コメントしないが書かざるをえない。聞き始めて1分で落ちた。これはヤバい”
”電子ドラッグは実在した”
”女神様との出会いに感謝しかない”
etc...
想像以上の反響に驚いたが、その中のコメントの一つに目が行った。
”これをスマホで聞きながら寝落ちしたら、いつの間にかスマホを無くしてた。マジで責任取ってほしい”
いや、それをこちらに言われても困るなと正直思った。
※
アリアを失って以降、シンシアは心神喪失状態にあった。
半ば自暴自棄となり、敵の集団に突貫するようなことさえあった。
見かねた騎士団長がシンシアを前線から退かせ、気力を取り戻すまでは遺跡などで見つかったアーティファクトの調査に従事させることにしたのだった。
博物館を兼ねた研究所の一室に集められた良く分からない物たちを眺めながら、シンシアはため息をついた。
「こんな物を調べて一体何になるというんだ……」
魔王軍との戦いは日に日に悪化していると聞く。
ならばすぐにでも戦わなければならない自分の今の境遇に嫌気が差していた。
大切なものを守れなかった自分に失望もしていたし、最早現世に未練も無くなっていた。
ふと、他の無骨な発掘物たちとは違った”何か”に目を奪われた。
手の平に収まる薄い板状のそれは、片側は一面を銀色で覆われ、反対側は真っ黒な見た目をしていた。
一見すると奇怪な、しかし洗練された姿形であることは伝わってくる。
シンシアは何となくそれを持ち上げてみた。
すると真っ黒だった面が光を灯して輝き、彩りで満たされた。
「うわっ!?」
突然の出来事に思わず手から落としてしまいそうになるのを何とか持ちこたえる。
思わず目を丸くしてしまうシンシアだったが、何だか触れてみたい興味に引っ張られて、恐る恐る指で触れてみた。
「あれ……?」
今度はまた一面真っ黒の状態に戻ってしまったが、最初と違い中心に三角形のシンボルが浮かんでいる。
何かが始まりそうなそこに、また触れてみた。
「!?」
驚くことに女性の声が流れ始めた。良く聞くと何かを朗読しているようだった。
「これは”3人の妖精”か……?」
人に宿すマナの源である”知恵・勇気・希望”を子供に教えるための物語とアリアから教わったことがある。
それを思い出してまさかと思い、女性の声に耳を澄ませた。
「アリア……なのか?」
その声はまさしく二度と聴くことができないと思っていたアリアの声そのものだった。
これがどういう原理なのか理解できないが、その声を聴いて自然と涙が溢れた。
もしかするとこの遺物は人の欲した”過去”を再現する何かなのかもしれない。
アリアの声に喜んだのも束の間、取り戻すことができない現実に虚しさが胸に広がった。
しかし、鈴の音を聞いた瞬間、体に衝撃が走った。
「私と最後に買った鈴が聴こえてくるということはまさか!」
生きているのかもしれない。どこか知らない地で。
確証など何もないが、シンシアが生きていく理由はただそれだけで十分だった。
──後に、スマートフォンを”相棒”にこの世界を救うことになる女騎士の物語はここから始まった。