第8話:初日終了(後編)
学園を出て東へ10分ほど歩いた所に日本人向けのスーパーマーケットがあった。放課後、グループ皆で行く約束になっていたが、こうなっては二人で行くより他なかった。二人とも「放課後デート」という単語が頭の中に浮かんだが、口にすることはなかった。
中は広く、客入りもそこそこだった。豆腐やコンニャクといった副菜から、うどんや蕎麦などの主食まで見つかった。ゲート出現まで約一週間、それまでの食生活は何とかなりそうだった。美羽の方は生鮮食品コーナーで野菜を眇めるようにして良品を判別していた。
「美羽ちゃん、料理するんだ?」
買い物カゴの中にはブリの切り身、オクラ、6個入りパックの卵が入っていた。蕎麦やラーメンといった乾麺ばかり入った鉄心のカゴとはえらい違いだった。
「うん。ウチ母子家庭だからさ。ちっちゃい頃から少しずつ覚えてね」
「あ、そうなんだ」
鑑定が終わった大根がカゴの中に入る。
「ブリ大根に、オクラの和え物と、卵焼き?」
「ブリの照り焼きと、オクラの味噌汁、大根は安くて新鮮そうだから買っておいて、明日かな。卵焼きは正解」
「オクラって味噌汁に入れるもんなの?」
「え? 入れない? 結構おいしいよ?」
取り留めのない話をしながら、レジへ並ぶ。意識してしまって上手く話せないかもしれないと思っていた美羽だったが、気が付けば普通に歓談できていた。
(やっぱ話しやすいな)
さきほど母子家庭の話を出した時も、すごく自然に違う話題を振っていた。申し訳なさそうにされても、美羽の方が恐縮だし、そういう機微をキチンと察したのだと分かる。彼女としては自分から口に出した以上、聞かれても答えるつもりではいたが。
レジを通し、鉄心がエコバッグの用意が無かったので、美羽の予備を借りて、二人はスーパーを後にする。
学生寮は鉄心のマンションから学園まで結んだ直線上の、ちょうど中間あたりに位置する。つまり帰り道だった。それを知って「良かった」と漏らした美羽に、鉄心が何故かと問うと、送ってもらうのに遠回りさせなくて良かったという意味だと返って来た。ただ実際は、これからも下校時に途中まで一緒に帰れるチャンスがあると知った嬉しさから思わず出た言葉だった。あるいは朝も上手く時間が合えば、一緒に登校できるかもしれない、とも。
寮の正門前に着いた。中に入っていくのかと思いきや、美羽は立ち止まってクルリと鉄心を振り返った。そして深々と頭を下げる。
「今日は本当にありがとう。それにごめんなさい。結局アナタ一人に押し付ける格好になってしまった」
彼女のつむじを見ながら、鉄心は努めて優しい声で答えた。
「大丈夫。そう酷い事にはならないよ。それよりも、これ以上迷惑は掛けられないとか思って、困ったことがあっても黙っているってのはナシね。キミやクラスの皆が傷つく方が俺にとっては百倍イヤなんだから。頼って欲しい」
約束だよ、と念を押して踵を返す。美羽が涙交じりに言い募る感謝を背中に聞きながら、鉄心はクラスの皆の申し訳なさそうな顔を思い出していた。負う必要のない罪悪感だ。それは美羽にしても当然そうだ。魔族の脅威が去ったワケでもない世界で、人間が産まれの如何で他の人間を傷つけている場合だろうか。セルフ離間工作とも呼べる、唾棄すべき愚行だ。その愚行が彼女らに余計な負担を強いている。特権階級がこのまま種のクズと成り果てるなら……それ以上は今考えても仕方ない。小さく溜息をついて、鉄心は再びスーパーへ戻っていく。めんつゆを買い忘れていた。
「逸脱した力は出すなって……書かな、言わなかった?」
初日の報告を鉄心から受けた女上司、オリビア・ケーヒルは頭痛がする思いだった。
「勤勉な学生なら持ち得るレベルの力、そんくらいしか出してないですよ」
「そもそも、初日からいきなり力を出すことに少しは躊躇して欲しかった」
オリビアはそう言うが、内心では諦めていた。
「無理ですね。友達が理不尽に痛めつけられるのを座視しろってのは、俺の誇りに死ねって言ってるようなモンですから。そうなりゃいよいよ獣になり果てる」
「……」
「……それに、どうせ監視カメラくらい忍ばせてるんでしょう?」
「まあ、ね。既に事情を知っている警察上層に映像は送った。件の親バカ貴族がキミを捕らえるように圧力を掛けてきても動かないようにという根回しだな。こっちは女王陛下の後ろ盾もあるし、幾分やりやすい」
手際が良いのは、鉄心への親心や温情といった甘ったるい思惑からではない。彼に任せていたら、数日と待たず親娘ともども首と胴体が離れている可能性は決して低くないからだ。
(この少年の倫理観は独特だ)
静かに怒るというのは日本人には珍しくない傾向だが、そこから苛烈な暴力へ移行するハードルがあまりに低すぎる。抑制された感情でいながら、直情からくるソレより凶悪で呵責ない暴力を幾度も目撃したオリビア、数年来の上司である彼女ですら、手に負えないのだ。なにせ彼が怒っていたのだと、血の海が満潮となって初めて気付くなんてことも、未だにある。サリー先生が初見で気付けたのは、非常に優秀と言えた。だがその後の事まで察せと言うのは酷だった。あの場面、怒鳴って胸倉を掴みかけたラインズの怒りは、その実、多分の打算、すなわち立場や暴力をチラつかせれば目下をコントロールできるという目論見(きっと多くの成功例に裏打ちされたものだろう)を含んでいた。それとは対照的に静かに淡々と話す鉄心の方こそ遙かに純粋な激情と暴力衝動を内に溜め込んでいた。もしあの脅しでも屈さず、居丈高に処罰でも言い渡すようだったら、ラインズは今日中に謎の事故死を遂げていただろう。あの時彼が感じた死の予感の正体というのは、どうにか一度だけチャンスをくれてやるという鉄心のギリギリの自制心だった。狂犬がウサギの喉笛に噛みつく一秒前に「待て」の声が掛かったようなものだ。
鉄心はそこら辺の、生徒指導室内で起こった事と会話内容も報告していた。
「よく我慢したな。偉いぞ」
こんな言葉、他のアタッカーなら浅慮に対する嫌味にしか使わないのだが、鉄心に使う場合は心からの言葉になる。
「でしょう? この国の貴族は大分腐ってる様子ですよ。何て言うか心置きなく……」
少し笑い混じりなのが、ただただ空恐ろしかった。ちなみに鉄心はどこの国に行っても、数人ひどい貴族に会えば、こういう事を言う。その一方で謙虚な貴族相手には普通に好意的だったりする。なので彼の貴族評は当てにならない。権威主義への反骨というより……人を全く同じ土俵で見るのだ。そうすると自分は何も成していないのにも拘わらず、過ぎた特権を得て増長している人間が自ずと浮き彫りになり、それを忌み嫌う。正当な働きをしている者に払われるべき報酬まで割を食うのだから、膿のようだとすら感じている。
「ラインズ氏にしても、彼自身は前線で戦ってた人だから、貴族学生たちの体たらくには思う所が無いワケはないんだろうが……寄付も受け取っている立場上、痛し痒しという所だろう」
「寄付? 王立なのに?」
「予算配分は実力主義だからね。弱いんだよ六高。だから寄付で経費を賄う。寄付を貰っている手前、ご子息ご令嬢に厳しい指導が出来ない。だから弱い。悪循環だ」
あー、と納得しかけて、鉄心はふと思い出す。
「あれ? 確か、公爵の、エリダ様の娘さんが居なかったっけ。その人どうなってるんですか?」
「メローディア様だね。キミと同い年の。彼女は……」
オリビアはやや同情を滲ませる声音で、彼女の現状を語っていった。