第75話:脅迫と譲歩
「あ、随分長かったんだね。こっちはすぐ終わったよ」
鉄心たちが三階のサポートクラスへ行くと美羽が教室の外で待っていた。鉄心の分の宿題(こちらは一般教養科目の物だ)も持っているらしく、大きな胸がプリントの束で潰れていた。
「ありがと」
鉄心はその束を受け取ると、空っぽのカバンの中へ無造作に放り込んだ。再び鉄心の手が空くとすかさずメローディアが左手を握り、美羽も負けじと反対側の右腕に組みついた。そうして団子のようになって階段を下り、一階に戻って来た辺りで、鉄心の携帯が震える。オリビアからのメール。検証結果から「クロ」ということだった。鉄心はピタリと立ち止まり、両隣の少女二人は軽くつんのめる。
「どうしたの? トイレ?」
何も知らない美羽の質問に鉄心は少しだけ笑い、
「いや。ちょっと校長を脅迫してくるよ」
と答えた。美羽は新手の冗談だと思って、想い人の顔を見上げた。迷いのない澄んだ瞳をしていた。
校長室を訪ねるも、もぬけの殻。学園の北側に回り、教職員用の駐車場に行くと、居た。鉄心の姿を見とめるや、ラインズは慌てて車に乗り込み、エンジンをかけ発進させる。鉄心はカバンの外ポケットから黒光りする銃を取り出した。ブラックマンバ。三層魔族、アメジストのユニークだったものだ。
「初撃ちがハゲ車かあ。しけてんな」
練り上げた氣を送り込めば、少し大きくなる銃。銃口の中にはミラーと、緑色の集光レンズが嵌め込まれている。銃の上部には小さなスコープがついていて、それを覗き込みながら、鉄心は更に氣を流し込む。スコープの中の黒線が縦横重なり合う場所は、走行中の後部タイヤ。
一瞬の躊躇もなく鉄心は引き金を引いた。だがハズレ。少しズレた場所へ黒い光線が走っている。ダメか、と鉄心。銃の心得はないのだから、いきなり上手くいくワケもないのは織り込み済みだが。
「まあ光線銃だから」
走っている光線をそのまま横に薙ぐように動かせば、標的に当てることは出来る。超長大なライトソードのイメージの方が鉄心には馴染むかも知れない。
――――バーン!
と凄まじい轟音がして、車のタイヤが破裂する。右側のタイヤが前後とも焼き切られていた。車は左に大きくスピンしながら進み、やがて耐え切れずに横転する。広い駐車場の出口付近、他の車が無かったため巻き込み事故は起こらなかった。
駐車場から少し離れた場所で待機しているメローディア・美羽の両名はその光景を見つめながら、現実感が持てずにいた。宿題を取りに来ただけなのに、こんなことになるなんて、彼女らは夢にも思わなかった。
「よう、校長先生。そんなに急いで帰ることねえだろ? ちょっと相談に乗って欲しい案件があるんだよ。なあ?」
間違いなく悪党のセリフ回しだった。車から引きずり出されたラインズは、左頬から血が出ていた。横転の衝撃でシートに擦ってしまったらしい。
「キ、キミは悪魔だ。魔族など目じゃない」
「人聞きの悪い。少なくともアンタみたいに他人の手柄を横取りして、のうのうと自身の風評を良くしようなんて、そんな浅ましい行為はしたことないぜ?」
「な、何のことだ?」
「北門側の監視カメラの映像データに細工してたようだけど、反対側から地味に映ってたぞ? 俺が去った後、こっそり遺体の一匹を引き摺っていく姿が」
北の通用口近くにふっ飛んでいた一匹、それを見て出来心が働いたという所だろうが。
「詰めが甘かったな。時間が足りなかったのか、あっち側は角度的に大丈夫だと見誤ったか」
「……」
「俺の功績を横取りしてタダで済むと思ってんの?」
「……なかったんだ」
「あ?」
「仕方なかったんだ! 貴族にケガ人まで出してしまった! 何か、何か私も命を張ったという大義名分でもないと、責任追及は免れない!」
ラインズはついに両手で頭を抱えてしまった。
「鉄心」
そこでメローディアたちもやって来た。断片的な会話内容から美羽も概ね事情は察したようで、少し痛ましげな表情でラインズを見ている。
「イレギュラーだったんだから、完璧にこなせるワケないだろ。むしろ北側にバスを呼べてただけ上出来じゃねえのか? 前後数日か一週間くらい貸し切りで借りてたんだろ? 平民は乗れないノアの箱舟だったのは気に入らねえが、てめえら貴族のケアは怠ってなかったって事なんだから、責任を言われても突っぱねりゃ良い」
「そんな簡単な話なら私も苦労していない……公爵閣下ならご理解いただけますでしょう」
メローディアも少し同情しているようで、鉄心に助命提案の視線を送る。鉄心はふうと長い溜め息をついた。
「一番しんどいのは下級貴族かもな、この国は」
先程のレベッカは親の仕事絡み、ラインズは寄付を泣きつく立場。しがらみで全く自由に動けない人生だ。
「まあ条件次第ではアンタの捏造に関して目を瞑ってやっても良い」
「……条件」
四つ出した。メローディアのグランクロスを置く貴賓室の鍵を明け渡し、自由に使わせて欲しい。訓練場も同様。自分やメローディア、美羽が授業を抜けたり帰宅しても咎めず出席扱いとして欲しい。サポートクラスの設備投資や学費控除にも力を入れて欲しい。以上の四点。
「訓練場は、これから寒くなると使う場面が」
「分かってる。授業時間外で主に使うだけだ」
「……それなら、条件を飲もう」
ラインズの言葉に鉄心が口角を上げ、
「どうだ? 悪魔じゃなかっただろ?」
と悪魔みたいに笑った。
部屋にある物を手当たり次第に蹴り飛ばし、殴りつけ、五分以上暴れまわり、ようやくロレンゾは止まった。しかし止まると同時、すぐにあの光景が目の前に浮かんでくる。十年想い続けた少女が、冴えないアジア人の男をキラキラとした瞳で見つめる姿が。
「くそ! チクショウ」
ロレンゾはその残像を消し去りたくて、メチャクチャに手足を振り回して、疲れ果てて動けなくなって、それでもまだ消えないのだ。それどころか、
「あ、ああああ……」
彼の脳裏に、更に酷い光景がリフレインした。薊鉄心の指先がメローディアの胸に触れる瞬間だ。性的な雰囲気もなく、髪を掬う時に偶然触れただけなのは分かっているが、その偶然が当然にメローディアから許されているという事実だけで、ロレンゾは気絶しそうなのだ。そして偶然だろうが何だろうが、
「触られた。ボクより先に」
口にして後悔した。彼女の乳房に触れる最初の男は、自分ではなく鉄心だった。その事実を言葉にして確定させてしまった。
「うっ」
胃の腑から酸っぱい物が込み上げてきて、ロレンゾは堪える暇もないまま、床へ吐瀉した。四つん這いになって部屋で一人汚物に塗れている自分、メローディアと密着して微笑む鉄心。彼我の差を思うとロレンゾは更に悪心がして、胃液と唾液の混合物を床にばらまく。唇を拭って、その感触に彼はふと嫌な予感を覚える。いや、よもや。よもやである。あの身持ちの固いメローディアが簡単に唇を許すハズがない。考えすぎだ。ロレンゾは頭を振ってバカバカしい杞憂を打ち消す。だが今、貴族界では、メローディアが本格的にアタッカーとして歩み始め、社交の場からは遠のくつもりだという噂、更には強い男と契ろうとしているといった与太話まで流れている。これがもし、鉄心の事を指しているのだとしたら、早急に手を打たねば杞憂が現実のものとなってしまうかも知れない。メローディアと鉄心の接吻を思い浮かべかけて、それだけでロレンゾはまた吐き気を催す。
「どうにかしなくては。あの忌々しい男を」
どうするべきか。やはりロレンゾにはメローディアが一時の気の迷いを起こしたとしか思えず、あの男に幻滅させることさえ出来れば、また元の彼女に戻るのではと考える。いや、それどころか悪い夢から目を覚まさせた自分の株が上がり、そのまま想いが成就という可能性も低くない。そんな皮算用まで始めるロレンゾ。
「……作戦を練らなくては」
鼻息も荒く、理想の未来図に向けて、知恵を絞る。自分が守るのだ。メローディアの純潔を、唇を。メチャクチャになった自室の中で、ロレンゾは胸に気炎を灯した。
クチュ、チュパと少しだけ生々しい水音が鳴り、メローディアは恥じ入るように俯き、鉄心とのキスを終えた。いわゆる「おやすみのキス」だった。シャックス家では寝る前に娘が母と父の頬にキスをする決まりだったらしく、それを改変して復活させるのだそう。原型を留めていない気もするが、流石の鉄心も指摘するほど野暮ではなかった。
早めの夕食を終え、明日に備えて眠る、その前の出来事である。魔界での疲れも癒えていない状態で結局、病院の待ち時間しか仮眠を取れなかったのだから、三人とも眠気が限界近かった。
鉄心は一度唇をペロリと舐め、そのまま美羽を抱き寄せ、唇を重ねた。じゃれるように彼女の上唇をパクリと挟む。少しくすぐったそうに笑う美羽を見て、メローディアは、
「ズルいわ。私にもそれ」
と駄々をこねた。
「終わんなくなりますから。また明日ね」
「でも」
「明日は朝からモール行くんですから。ね?」
メローディアの頬を撫でながら、優しく諭す鉄心。メローディアも頷いた。明日はデートだ。鉄心と二人きりではないが、それでも彼女にとって念願のデートだ。早く寝るべきなのは間違いない。
メローディアと鉄心が自室へと戻る、その二人の背をぼんやり見つめる美羽。どこか憂いのある雰囲気だった。




